第26話 若旦那、おからを奥から見つける
しるべが豆腐屋の方へ歩いていった。
その報せを聞いた私は、帳場から立ち上がった。
夜である。
豆腐屋である。
猫である。
この三つが並んだ時点で、だいたい何かが起きる。
前世の私なら、ここで見なかったことにしたかもしれない。
猫は自由。
夜道は危ない。
明日の朝に確認すればいい。
そうやって布団に入る。
だが、今の私は青柳屋の若旦那である。
しかも、しるべはすでに青柳屋の帳面に肉球印を残した猫である。
責任がある。
たぶん。
いや、責任というより、巻き込まれているだけかもしれない。
「若旦那、お一人で?」
藤兵衛が静かに言った。
「すぐそこです」
「以前も、すぐそこから花街へ」
「それは猫が」
「今回も猫でございます」
反論できない。
猫について行った結果、花街に着いた前科がある。
猫を信用してはいけない。
しかし、猫を放ってもおけない。
何この矛盾。
猫、存在そのものが哲学である。
「私も行きます」
小春が言った。
いつの間にか店先にいた。
手には、しるべ足跡包み紙の残りを抱えている。
「小春さんまで」
「道を間違えるといけませんので」
「豆腐屋ですよ」
「猫がいます」
「……お願いします」
私は素直に頭を下げた。
青柳屋の若旦那、猫関連の単独行動許可がまだ下りない。
仕方ない。
実績が悪い。
夜の町は、昼とは少し顔が違った。
店の戸は閉まり、提灯の灯りだけがぽつぽつと残っている。
茶屋の前では、猫待ち台が静かに置かれていた。
豆助はいない。
しるべもいない。
猫待ち台なのに、猫がいない。
不在にも風情がある。
いや、風情を味わっている場合ではない。
豆腐屋へ向かうと、奥の方から小さな物音がした。
かさ。
かさかさ。
そして、にゃ。
「いましたね」
小春が小声で言った。
「いましたね」
豆腐屋の裏口。
そこに、しるべがいた。
白黒の背中を丸め、何かの匂いを嗅いでいる。
そばには、大きな桶。
中には白っぽい、ほろほろしたものが入っていた。
「しるべ」
私が呼ぶと、しるべは振り向いた。
まったく悪びれていない。
むしろ、こちらを案内したような顔である。
お前。
また何か見つけたのか。
「何でしょう、これ」
小春が桶を覗き込んだ。
「おから、では」
私は言った。
「おから?」
「豆腐を作ったあとに出る、豆の搾りかすです」
「搾りかす」
小春は少し考えるように、白いほろほろしたものを見た。
搾りかす。
その言葉は、少し寂しい。
かす。
残り。
主役になれなかったもの。
しかし、前世の私は知っている。
おからは、うまい。
卯の花。
人参、こんにゃく、油揚げ、出汁で炊いたあれ。
地味だ。
かなり地味だ。
だが、腹にやさしく、しかも意外と腹持ちがいい。
スーパーの惣菜売り場で、派手な唐揚げやコロッケの横に、控えめに座っているあの感じ。
自分から「私、主役です」とは言わない。
でも、食卓にあると妙に落ち着く。
そういう存在である。
「若旦那?」
小春が私を見た。
「また、何か思いついた顔です」
「出ていましたか」
「はい」
その時、豆腐屋の甚八さんが裏口から出てきた。
「おう、若旦那。こんな時間に何してる」
「しるべがこちらへ」
「猫か」
甚八さんは桶のそばのしるべを見て笑った。
「そいつ、さっきからそこを嗅いでたぞ。魚じゃねえから食わねえだろうに」
「これは、おからですか」
「ああ。豆腐を作った残りだ」
「どうされるのですか」
「家畜の餌に少し。あとは欲しい家に分ける。残れば捨てる」
「捨てる」
まただ。
また、私の中の現代食いしん坊センサーが反応した。
トロの時ほどではない。
トロは脳内寿司職人が鉢巻きを締めて出てきた。
おからは違う。
脳内の土井善晴先生みたいな何かが、静かに味噌汁の湯気の向こうからこちらを見ている。
派手に叫ばない。
ただ、言う。
それ、ちゃんと食べられますよ、と。
「おから、いただけますか」
私が言うと、甚八さんは眉を上げた。
「これを?」
「はい」
「若旦那、腹身の次はおからかい」
「はい」
「青柳屋は、余りものに目がねえな」
「余りものというより、まだ役目があるものに見えまして」
甚八さんは、少し黙った。
それから、桶を見た。
「まあ、食える。だが、足が早いぞ。すぐ悪くなる」
「今日中に使います」
「水気も多い。味を入れにくい」
「お滝さんに相談します」
「あの人なら何とかするだろうな」
豆腐屋の甚八さんまで、お滝への信頼が厚い。
台所の実務神、町内にも知られているらしい。
しるべは、桶の横でにゃあと鳴いた。
まるで「持って帰れ」と言っているようだった。
「あなた、食べないでしょう」
私が言うと、しるべは尻尾を揺らした。
食べないが、持って帰らせる。
猫は、自分で食べないものまで商いに巻き込むのか。
恐ろしい。
青柳屋へ戻ると、お滝は桶を見るなり言った。
「おからかい」
「はい」
「夜に豆腐屋からおからを抱えて帰ってくる若旦那ってのも、なかなかだね」
「自分でもそう思います」
「で、どうしたいんだい」
「食べられる形に」
「ざっくりだねえ」
お滝は笑いながら、袖をまくった。
それだけで安心する。
お滝が袖をまくると、だいたい物事は食べ物になる。
「まず、水気を飛ばす。そこへ出汁。人参が少しある。こんにゃくもある。油揚げの端もあるね」
「油揚げの端」
「おいなり包みに使えない切れ端だよ」
また余りものが余りものを呼んでいる。
おから。
人参の端。
こんにゃく。
油揚げの切れ端。
地味な材料の会合である。
会議室の端に座っていた人たちだけで、急に有能な実務チームが組まれた感じだ。
お滝は鍋を火にかけた。
おからを炒る。
水気が飛ぶ。
豆の甘い匂いが、ふわりと立つ。
そこへ出汁。
人参。
こんにゃく。
油揚げ。
少しの醤油と砂糖。
地味。
かなり地味。
だが、鍋の中が少しずつまとまっていく。
最初は、ほろほろした白いものだった。
それが、出汁を吸い、色をまとい、具を抱き込む。
おからは、自分だけで立つというより、周りを受け止める食べ物なのかもしれない。
「味見しな」
お滝が小皿に少し乗せた。
私は箸でつまみ、口に入れる。
やさしい。
思ったより、ずっとやさしい。
豆の甘み。
出汁。
油揚げのこく。
派手ではない。
とろけ腹身のように、口の中で「うわっ」となる感じではない。
おいなり包みのように、両手で持って嬉しい感じとも違う。
これは、食べたあとに静かに腹の底へ座る味だ。
腹に、畳が敷かれる。
そんな感じ。
「うまいです」
「だろう」
「でも、売れますかね」
「そこは若旦那が考えな」
また戻された。
台所の神は、料理は作るが商いまでは投げてくる。
私は考えた。
おからは、派手に売るものではない。
だが、腹持ちがいい。
安い。
少しで満足できる。
職人の昼にもいい。
子どもにも食べさせやすい。
ただし、地味である。
地味すぎる。
商品名を間違えると、ただの「残りものです」になる。
小春が小皿を手に取って食べた。
「おいしい」
「小春さんも」
「はい。ほっとします」
「ほっとする」
「布でいうと、裏地みたいです」
「裏地」
「表には見えないけれど、肌に当たるところを支える感じです」
裏地。
それはいい。
おからは、食卓の裏地かもしれない。
見栄えは派手ではない。
でも、腹を支える。
外からは見えないけれど、あると着心地が違う。
「裏地飯」
私がつぶやくと、小春は少し顔をしかめた。
「それは、あまりおいしそうではありません」
「ですよね」
名づけは難しい。
卯の花。
前世の名前をそのまま使うか。
花の名にするだけで、急に上品になる。
おから、という響きには少し「かす」の気配がある。
卯の花なら、同じものが別の顔になる。
言葉は、やはり商いに大事だ。
「卯の花、という名はどうでしょう」
私が言うと、お滝が目を細めた。
「いいねえ。白くてほろほろしてる」
「花の名なら、手に取りやすいかもしれません」
小春も頷いた。
「卯の花。きれいですね」
お鈴が小さく手を挙げた。
「札、書きます!」
「お願いします」
「何と書きますか」
私は少し考えた。
卯の花
豆腐屋の朝から生まれました。
小腹と明日の腹持ちに。
「長いですね」
小春が笑った。
「いつものことです」
「でも、青柳屋らしいです」
翌朝、茶屋の店先に新しい札が立った。
卯の花
豆腐屋の朝から
小腹にどうぞ
おいなり包みと並べると、かなり地味だった。
茶屋の主人は不安そうに腕を組んだ。
「若旦那、これ売れますかね」
「わかりません」
「でしょうね」
「ただ、おいなり包みと一緒に少し添えるのはどうでしょう」
「添える」
「はい。主役にしすぎず、小鉢のように」
「茶屋に小鉢」
「持ち帰りなら、小さな包みに」
「なるほど」
そこへ、昨日からおいなり包みに味をしめた職人が来た。
「今日は腹身あるか」
「ありません」
「おいなりは?」
「あります」
「じゃあ二つ」
茶屋の主人が包む。
私は横から言った。
「卯の花も少し、いかがですか」
「卯の花?」
「豆腐屋のおからを炊いたものです」
「おからか」
職人の顔が少し微妙になった。
やはり、そこだ。
おから、と言うと、どうしても安く見える。
いや、安いのは悪くない。
でも、安く見られすぎると、手が消える。
「豆腐屋の朝に出るものを、お滝さんが炊きました」
「お滝さんが?」
「はい」
「じゃあ、少しくれ」
お滝ブランド、強い。
職人は卯の花を食べた。
黙った。
それから、少しだけ頷いた。
「地味だが、うまいな」
「ありがとうございます」
「腹に残る」
「そうです」
「飯が進む」
「そうです」
「酒にも合うな」
「昼です」
「夜に買う」
職人は真顔だった。
卯の花、夜の可能性まで出てきた。
商いは広がる。
勝手に。
次に来たのは、源蔵さんだった。
「今日は何だ」
「卯の花です」
「おからか」
「はい」
「子どもの頃、よく食ったな」
源蔵さんの声が、少し柔らかくなった。
「母親が作ってた。腹がふくれるからってな」
「おひとつ、どうですか」
「もらおう」
源蔵さんは卯の花を食べ、しばらく黙った。
そして、ぽつりと言った。
「懐かしいな」
その一言で、私は少し胸が熱くなった。
おからは、派手なごちそうではない。
でも、人の記憶にひっそり残る味なのだ。
腹を満たすだけではない。
昔の台所を連れてくる。
前世の私にも、そういう味があった。
特別ではない。
写真にも残らない。
でも、疲れた時に思い出す味。
人は、派手なごちそうだけで生きているわけではない。
地味な味に、何度も助けられている。
昼過ぎには、卯の花は少しずつ売れた。
爆発的ではない。
だが、おいなり包みを買う人が一緒に少し買う。
草餅のついでに、年寄りが買う。
職人が、夜の分に持ち帰る。
豆腐屋の甚八さんも見に来た。
「売れてるのか」
「少しずつ」
「おからがなあ」
「卯の花です」
私が言うと、甚八さんは少し照れくさそうに笑った。
「卯の花か」
「豆腐屋の朝から出たものです」
「そう言われると、捨てにくいな」
「全部は無理です」
私は言った。
「無理に全部売ろうとすると、また苦しくなります」
「だな」
「出せる分だけ、今日中に。残りは今まで通り、家畜の餌でもいいと思います」
甚八さんは頷いた。
「全部を金にしなくてもいいってことか」
「はい。全部を商いにすると、たぶん息が詰まります」
これは、自分でも少し大事な言葉だった。
余りものに値をつける。
でも、全部を値段にしなくていい。
食べる。
分ける。
餌にする。
捨てる。
それぞれに役目がある。
何でも商いにすればいいわけではない。
商いにできるものと、そうでないものの線を見る。
それも若旦那の仕事なのだろう。
夕方、青柳屋へ戻ると、しるべが店先で丸くなっていた。
今日は珍しく、何もくわえていない。
「しるべ」
私が呼ぶと、片目だけ開けた。
「あなたのおかげで、卯の花が生まれました」
にゃ。
「食べないくせに」
にゃ。
「でも、案内だけはした」
しるべはまた目を閉じた。
まったく。
猫は、褒めても反省しても響いているのかわからない。
でも、しるべが豆腐屋へ行かなければ、私はおからの桶を見なかったかもしれない。
見えないものを見せる。
それが、しるべの役目なのかもしれない。
夜、帳面に今日のことを書いた。
豆腐屋のおから。
お滝、卯の花にする。
茶屋にて小鉢・持ち帰り。
職人、源蔵、購入。
甚八、捨てにくくなる。
ただし、全部を商いにしない。
最後の一行を、私は少し強めに書いた。
全部を商いにしない。
これは大事だ。
青柳屋は、いろいろな余りものに目を向けてきた。
端切れ。
腹身。
酢飯。
油揚げ。
包み紙。
おから。
でも、全部を売ろうとすると、きっと何かが変わってしまう。
余白がなくなる。
息が詰まる。
売らない分。
分ける分。
捨てる分。
猫が嗅ぐだけの分。
そういうものまで含めて、町の台所なのだと思う。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、自分の中にあるものを全部売り物にしなくてもいい、と覚えておきたい。
使えるものは使う。
でも、休ませるものは休ませる。
奥にしまうものは、奥にしまう。
おからは、奥から出てきた。
くだらない駄洒落が、脳内に浮かんだ。
おからは、奥から。
やめろ。
今日はいい話で終わりたい。
その時、藤兵衛が静かに言った。
「若旦那」
「はい」
「卯の花の在庫欄でございますが」
来た。
やはり来た。
「在庫というより、日持ちしないので、その日の分だけで」
「では、日次管理でございますな」
日次管理。
急に帳面が本気を出してきた。
私は深く息を吸った。
「明日、考えましょう」
「本日ではなく?」
「今日は、卯の花が腹の中で落ち着いておりますので」
藤兵衛は少しだけ笑った。
「承知いたしました」
私は帳面を閉じた。
逃げたのではない。
今日は、おからを奥から出しただけで、十分働いたのである。
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