第25話 若旦那、油揚げを買い占めない
おいなり包みの包み紙に、しるべの足跡が入った翌日。
茶屋では、朝から小さな列ができた。
といっても、行列というほどではない。
子どもが二人。
昨日食べ損ねた職人が一人。
おみつと、その母親。
それから、なぜか源蔵さん。
源蔵さんは腕を組み、店先の札をじっと見ていた。
おいなり包み
小腹にどうぞ
しるべの足跡包み
「若旦那」
源蔵さんが言った。
「腹身はないのか」
「今日はありません」
「魚次第か」
「魚次第です」
「じゃあ、おいなり包みを二つ」
「ありがとうございます」
源蔵さんは、もう普通に買っている。
人は慣れる。
小腹にどうぞ、という言葉は、思ったより強かった。
とろけ腹身のような派手さはない。
だが、手に取りやすい。
食べやすい。
持ち帰りやすい。
そして包み紙に猫の足跡がある。
子どもが笑う。
大人も少し笑う。
笑いながら食べる油揚げは、ただの油揚げより少しうまい。
前世の私は、パッケージに弱かった。
期間限定。
地域限定。
猫のイラスト。
かわいいシール。
中身が同じでも、持ち帰る手が少し楽しくなる。
人間とは、案外そういうもので動く。
だが、商いは喜んでばかりもいられない。
昼前、茶屋の主人が青柳屋へ駆け込んできた。
「若旦那!」
「どうしました」
「油揚げが足りません」
来た。
来てしまった。
おいなり包み、最初の壁である。
売れない心配をしていたら、今度は材料が足りない。
商いというものは、右を見れば穴、左を見れば穴である。
前世の仕事でもそうだった。
人が来なければ困る。
来すぎても困る。
電話が鳴らなければ不安。
鳴りすぎれば地獄。
ちょうどよい、という状態は、なかなかこちらに長居してくれない。
「豆腐屋さんには?」
「聞きました。でも、今日はもう出せる分が少ないと」
「なるほど」
「明日から多めにもらえないか頼もうと思うんですが」
茶屋の主人は、少し前のめりだった。
「売れるうちに、どんと」
どんと。
その言葉に、私は少しだけ眉を動かした。
売れるうちに、どんと。
気持ちはわかる。
とてもわかる。
せっかく売れ始めた。
足りないなら増やしたい。
もっと作れば、もっと売れるかもしれない。
でも、その先にあるものを、私は最近少しだけ学んでいる。
染め場。
針仕事。
揺れない籠。
とろけ腹身。
売れるからといって、急に数を増やすと、どこかの手が荒れる。
「まず、豆腐屋さんへ行きましょう」
私は言った。
「油揚げを買いに?」
「いいえ。油揚げがどう作られているか、見に行きます」
茶屋の主人は、きょとんとした。
「そこからですか」
「そこからです」
そこへ小春がやって来た。
手には、しるべ足跡包み紙の追加分がある。
「若旦那、今度は豆腐屋ですか」
「はい」
「何を始めるんですか」
「油揚げを買い占めない相談です」
「買い占めない相談」
小春は少し笑った。
「変な相談ですね」
「でも、大事です」
「では、私も行きます」
「小春さんも?」
「包み紙が増えるなら、食べ物の量も関係しますから」
頼もしい。
最近、小春の参戦が自然になってきた。
藤兵衛も帳場から顔を上げた。
「若旦那」
「はい」
「豆腐屋までの道順は」
「わかります」
「本当に?」
「本当に」
「小春さんもご一緒なら、安心でございます」
信用が、相変わらず小春さん側にある。
仕方ない。
猫について行って花街に出た実績は、なかなか消えない。
私と小春、茶屋の主人は、豆腐屋へ向かった。
豆腐屋は、朝の通りから一本入ったところにあった。
白い湯気が上がっている。
桶に水が張られ、木綿の布が干され、店先には豆の匂いが漂っていた。
豆腐屋の親父は、がっしりした腕の男だった。
名は甚八。
腕は太いが、豆腐を扱う手つきはやけに繊細である。
「おう、青柳屋の若旦那」
「お忙しいところ、すみません」
「油揚げの話だろう」
「もう聞いていますか」
「茶屋の旦那が朝からそわそわしてたからな」
茶屋の主人が少し気まずそうに笑った。
「すみません、甚八さん」
「売れてるのはいいことだ」
甚八はそう言った。
だが、すぐに表情を引き締めた。
「ただ、急に増やせと言われてもな。豆腐には豆腐の朝がある」
豆腐の朝。
いい言葉だ。
私は思わず、その言葉を胸の中で転がした。
豆腐の朝。
青柳屋には朝粥があり、染め場には釜の朝があり、籠屋には足の朝がある。
豆腐屋には、豆腐の朝がある。
「見せていただいてもよろしいですか」
私が言うと、甚八は少し驚いた顔をした。
「油揚げ作りを?」
「はい」
「見て面白いもんじゃないぞ」
「見ないと、値を間違えそうなので」
甚八は黙った。
それから、少しだけ口元を緩めた。
「変わった若旦那だな」
「よく言われます」
豆腐屋の奥では、朝から仕込まれた豆乳が温められていた。
大きな鍋。
白い湯気。
豆の甘い匂い。
布でこし、固め、切り、揚げる。
油揚げは、ただ油で揚げればよいわけではなかった。
豆腐の水分。
厚み。
油の温度。
揚げる時間。
少しずれると、うまく膨らまない。
薄すぎれば破れる。
厚すぎれば重い。
揚げすぎれば固くなる。
「袋にするなら、少し薄めで、でも破れない厚さがいる」
甚八が言った。
「普通の油揚げとは違うのですか」
「違う。煮物用なら多少厚くてもいい。だが、飯を詰めるなら開きやすくなきゃならねえ」
私は思わず小春を見た。
小春も頷いている。
「布と同じですね」
「はい。何に使うかで、厚みが変わります」
油揚げと布。
まったく違うものなのに、考え方は似ている。
人が包む。
飯を包む。
中身を守る。
でも、詰めすぎれば破れる。
世の中、だいたい包むものは余白がいる。
「これを急に増やすと、どうなりますか」
私が聞くと、甚八は鼻を鳴らした。
「豆腐の分が減る」
「豆腐の分」
「朝、豆腐を待ってる客がいる。味噌汁に入れる家もある。冷やして食う年寄りもいる。油揚げばかり増やせば、その分どこかが減る」
なるほど。
油揚げだけを見ていては、見えない。
豆腐屋の中では、豆腐、厚揚げ、油揚げ、それぞれの客がいる。
おいなり包みが売れるからといって、油揚げを全部持っていけば、別の家の朝の味噌汁が寂しくなる。
それは違う。
「買い占めてはいけませんね」
私が言うと、甚八は少し目を細めた。
「話が早いな」
「最近、失敗しかけたことが多いので」
「いいことだ」
「失敗しかけるのがですか」
「失敗する前に見に来たのがだ」
その言葉は、少しうれしかった。
前世の私は、失敗してから慌てることが多かった。
頼まれて、引き受けて、増えて、苦しくなって、最後に誰かへ謝る。
でも本当は、引き受ける前に見に行くべきだったのだ。
相手の朝を。
相手の手を。
相手の台所を。
「では、どうしましょう」
茶屋の主人が言った。
少し声が小さくなっている。
売れるから多く、と言った自分を、少し恥じているのかもしれない。
でも、それも無理はない。
商人は売れるとうれしい。
それは悪いことではない。
問題は、そのうれしさが誰かの朝を踏む時だ。
「一日に出せる油揚げの数を、甚八さんに決めてもらいましょう」
私は言った。
「俺が?」
「はい。豆腐屋の朝を崩さない数で」
甚八は腕を組んだ。
「それなら、最初は十枚だな」
「十枚」
「毎日は無理だ。豆の入りもある。だから、二日に一度。油揚げが多くできた日は追加もあり。だが、約束は十枚まで」
「茶屋さん、それでいかがですか」
茶屋の主人は少し迷った。
「少ないですね」
「少ないです」
「でも、豆腐を待ってる客もいるなら」
茶屋の主人は頷いた。
「十枚で始めましょう」
よかった。
少しずつ、町の商いが無理のない形へ戻っていく。
いや、戻るというより、整っていく。
「では、茶屋ではおいなり包みを一日十個まで」
「二日に一度」
小春が言った。
「その方が、楽しみにしてもらえるかもしれません」
「確かに」
毎日あるものではない。
でも、時々ある。
それは、待つ楽しみになる。
とろけ腹身は魚次第。
おいなり包みは豆腐屋の朝次第。
どちらも、無理に毎日へしない。
青柳屋の商いは、だんだん「ない日」を大事にする方向へ行っている気がする。
前世の私は、ない日が怖かった。
連絡がない。
予定がない。
成果がない。
返信がない。
ないことを、すぐ不足だと思っていた。
でも、ない日は準備の日でもある。
豆を浸す日。
魚を待つ日。
布を休ませる日。
そういう日があるから、ある日がちゃんと立つ。
甚八は、試しに油揚げを一枚渡してくれた。
「若旦那、自分で開いてみるか」
「私が?」
「飯を詰めるんだろ。開けなきゃ始まらねえ」
また来た。
職人による実技指導。
私は油揚げを受け取った。
まだ温かい。
表面は少しぱりっとしている。
しかし、中はやわらかい。
慎重に端を開く。
破れないように。
破れないように。
手が震える。
脳内の私が、また町工場の精密作業に入っている。
すると。
ぴり。
裂けた。
「あ」
声が出た。
油揚げの端が、小さく破れた。
甚八が笑った。
「力が入りすぎだ」
「すみません」
「包むものを作る時はな、開く時も大事なんだよ」
開く時も大事。
また刺さる。
油揚げは、包むために開く。
布も、仕立てるために広げる。
人も、何かを受け取るには、少し開く必要がある。
でも、無理に開かれると破れる。
前世の私は、心を開けと言われるのが苦手だった。
開けと言われて開けるものではない。
熱と時間と、安心がいる。
油揚げも、たぶん同じだ。
「もう一枚」
甚八が渡してくれた。
「今度は、指先で急がずにな」
「はい」
二枚目は、うまく開いた。
甚八が頷いた。
「いいじゃねえか」
小春も笑った。
「若旦那、少し上手くなりましたね」
「油揚げに褒められる日が来るとは思いませんでした」
「油揚げには褒められていません」
「そうでした」
茶屋の主人は、その様子を見ていた。
そして、深く頭を下げた。
「甚八さん、明日から二日に一度、十枚でお願いします」
「おう」
「無理は言いません」
「その代わり、ちゃんと売れよ」
「はい」
よい約束だった。
無理に増やさない。
でも、きちんと売る。
それは、豆腐屋の朝への礼儀でもある。
青柳屋へ戻る途中、小春が言った。
「若旦那」
「はい」
「油揚げにも、朝があるんですね」
「ありましたね」
「布にもあります」
「布の朝ですか」
「はい。干したり、畳み直したり、昨日の湿気を抜いたり」
小春は端切れの包みを抱え直した。
「朝の手間を知らないまま、昼の品だけ見て値を決めるのは、少し怖いですね」
「本当に」
それは、いろいろなものに言える。
人の笑顔にも、朝がある。
店の品にも、朝がある。
誰かの「大丈夫です」にも、前の日の夜がある。
そこを見ずに、もっと、早く、安く、と言うのは怖い。
茶屋に戻ると、しるべが猫待ち台の上で寝ていた。
豆助も、少し離れた日なたにいる。
犬と猫が、同じ空気の中で休んでいる。
茶屋の主人が、店先に新しい札を出した。
おいなり包み
二日に一度
豆腐屋の朝しだい
「豆腐屋の朝しだい」
私は読み上げた。
「変ですかね」
茶屋の主人が聞いた。
「いいと思います」
小春も頷いた。
「待てそうです」
そこへ、源蔵さんが来た。
「今日はあるか?」
「今日はありません」
茶屋の主人が言った。
「豆腐屋の朝しだいです」
源蔵さんは札を見た。
「なんだそりゃ」
「明日あります」
「そうか」
源蔵さんは少し残念そうだった。
しかし、怒らなかった。
「じゃあ、草餅と茶をくれ」
「ありがとうございます」
ない日にも、別のものが売れた。
それは小さなことだが、大事なことだった。
おいなり包みがないから終わりではない。
茶屋には茶がある。
草餅がある。
猫待ち台がある。
豆助が日なたで寝ている。
しるべが尻尾を動かしている。
あるものと、ないもの。
その両方で、店は一日を作っている。
夜、青柳屋の帳場で、私は今日のことを書いた。
豆腐屋甚八。
油揚げ、一日十枚まで。
二日に一度。
豆腐屋の朝を崩さぬこと。
おいなり包み、ない日あり。
ない日は、茶と草餅。
書きながら、私は思った。
買い占めれば、早い。
でも、早さの裏で、誰かの朝が消える。
人気が出た時ほど、見に行くべきなのだ。
材料の朝を。
作り手の手を。
待っている別の客を。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、自分の欲しいものだけで、誰かの朝を空っぽにしない人でいたい。
売れるからこそ、買い占めない。
欲しいからこそ、待つ。
それも、商いの品なのだと思う。
その時、お鈴が店先から叫んだ。
「若旦那! しるべが豆腐屋さんの方へ歩いていきます!」
私は固まった。
猫。
今度は豆腐屋か。
まさか油揚げの仕入れ交渉へ。
いや、そんなわけはない。
ないはずだ。
私は深く息を吸った。
逃げたのではない。
今日は、豆腐屋の朝を守るために、猫の夜回りを止めに行くのである




