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第24話 若旦那、包み紙に猫の足跡を押される

 しるべが油揚げの包み紙をくわえて逃げた。


 その報せを聞いた瞬間、私は立ち上がった。


 おいなり包み。


 ようやく名前が決まったばかりの、新しい小腹の友である。


 その包み紙を、猫が持ち去った。


 つまり、これは商標と包装の危機である。


 いや、そこまで大げさではない。


 たぶん。


 でも、脳内の私はすでに緊急会議を開いていた。


 議題一。

 おいなり包みの包装管理について。


 議題二。

 しるべによる無断持ち出しの再発防止について。


 議題三。

 猫に再発防止策は通用するのか。


 結論。


 通用しない。


 会議、三秒で終了である。


「しるべ!」


 私は店先へ出た。


 しるべは、青柳屋の暖簾の下にいた。


 白黒の体を丸め、前足の間に、問題の包み紙を置いている。


 そして、こちらを見上げた。


 にゃ。


 違う。


 にゃ、ではない。


 それは、いま茶屋で使う予定の包み紙である。


 おいなり包みを包むための、試し紙である。


 あなたのおもちゃではない。


「若旦那、しるべ、気に入ってますね」


 お鈴が横で言った。


「気に入られても困ります」


「でも、かわいいです」


「かわいさで全部を通してはいけません」


 そう言いながら、私はすでに少し負けていた。


 しるべは包み紙の上に片足を置いている。


 小さな肉球。


 黒い足。


 包み紙に、うっすら土の跡がついていた。


「ああ」


 私は思わず声を漏らした。


 包み紙に猫の足跡。


 商品には使えない。


 いや、使えないはずだ。


 清潔ではない。


 お滝なら即座に「食べ物を包む紙に猫の足跡はだめだよ」と言うだろう。


 その通りである。


 だが。


 見た目だけで言えば、少し可愛い。


 とても悔しいことに、可愛い。


 おいなり包みの隅に、猫の足跡。


 狐の油揚げを、猫が狙っているような絵になる。


 前世のパッケージデザイン担当が、脳内で静かに立ち上がった。


 待て。


 それは売れる。


 いや、だめだ。


 本物の足跡は衛生的にだめ。


 でも、絵なら。


 足跡を描くなら。


「若旦那、顔がまた何か始める顔です」


 小春の声がした。


 振り向くと、小春が店先に立っていた。


 手には、昨日のしるべ布の端切れを持っている。


「おはようございます」


「おはようございます」


「しるべが包み紙を?」


「はい」


「それで若旦那が、怒るより先に何か考え始めた顔をしています」


「そんなに出ていますか」


「出ています」


 小春は、しるべの前にしゃがんだ。


 しるべは包み紙を離さない。


 小春がそっと手を伸ばす。


「しるべ、返して」


 しるべは一瞬だけ抵抗した。


 しかし、小春が耳の後ろを軽く撫でると、あっさり力を抜いた。


 包み紙は回収された。


 すごい。


 小春、猫にも強い。


 仕立て屋の手は、猫の所有欲までほどくのか。


「足跡がついていますね」


 小春が言った。


「食べ物には使えません」


 お滝が台所から即答した。


 やはり来た。


 台所の法律。


「はい。使いません」


「当たり前だよ」


 お滝は腕を組んだ。


「でも」


 小春が、包み紙を見た。


「絵としては、かわいいですね」


「ですよね」


「狐の油揚げを猫が狙っているみたいです」


「そうなんです」


 お滝が呆れたように笑った。


「あんたたち、何でも商いにするねえ」


「商いというか」


 私は包み紙を見た。


「包み紙も、品の一部かもしれないと思いまして」


 おいなり包みは、持ち帰りやすいことが役目だ。


 ならば、包む紙も大事になる。


 ただ包むだけなら、何でもいい。


 でも、持って帰る間に少し嬉しくなる。


 子どもが「これ、しるべの足跡だ」と笑う。


 茶屋で買ったものだとすぐわかる。


 そういう小さな印があるだけで、食べ物はただの腹満たしではなくなる。


 前世の私は、コンビニやパン屋の包装に弱かった。


 かわいい紙袋。

 季節のシール。

 小さなロゴ。


 中身はもちろん大事。


 でも、持ち帰る途中の気分を作るのは、包みだった。


 商いは、手渡した瞬間で終わらない。


 家に着くまで続いている。


「おいなり包み用の紙に、足跡を描きましょう」


 私が言うと、お鈴の目が輝いた。


「しるべの足跡ですか!」


「本物ではなく、絵です」


「かわいいです!」


「ただし、食べ物に触れない外側だけです」


 お滝が言った。


「はい」


「墨が移らないように」


「はい」


「紙も清潔なものを使う」


「はい」


「油が染みすぎると破れるから、内側に一枚挟む」


「はい」


 お滝、包装監修に就任。


 強い。


 青柳屋の商品開発会議、猫と台所が強すぎる。


 藤兵衛は帳場から顔を上げた。


「若旦那」


「はい」


「包み紙の費用も、帳面につけねばなりません」


「もちろんです」


「絵を入れるなら、その手間も」


「はい」


「猫の足跡料は」


「発生しません」


 しるべが、にゃ、と鳴いた。


 まさか請求する気か。


 猫の肖像権。


 いや、足跡権。


 前世なら、キャラクター使用料が発生するのだろうか。


 しるべ布に続き、しるべ包み紙。


 しるべ、権利ビジネスに片足を突っ込んでいる。


 本人はまったく働いていないのに。


 いや、足跡は提供している。


 提供というより、つけた。


 勝手に。


「では、足跡の絵は誰が描きますか」


 小春が言った。


 お鈴が手を挙げた。


「私、描きます!」


「お鈴さん、字も絵も上手ですからね」


「ありがとうございます!」


 お鈴は嬉しそうに紙と筆を用意した。


 まず、しるべの足跡を見る。


 しるべは、もう寝ている。


 協力する気はない。


「しるべ、足見せて」


 お鈴がそっと前足を取ろうとする。


 しるべは引っ込めた。


「見せて」


 引っ込める。


「ちょっとだけ」


 引っ込める。


 攻防である。


 猫の足跡を描くだけなのに、なぜこんなに手間がかかるのか。


 お鈴は困った顔でこちらを見た。


「若旦那、しるべが協力してくれません」


「猫ですから」


 万能の言葉である。


 猫ですから。


 その一言で、会議も計画も工程表も、だいたい崩れる。


 小春が笑いながら、先ほどの包み紙についた足跡を見た。


「これを見本にしましょう」


「本物の足跡から」


「はい」


 お鈴は真剣な顔で、足跡を写した。


 小さな丸。

 その上に、さらに小さな丸。


 簡単そうに見える。


 だが、描いてみると意外と難しい。


 猫の足跡は、少し間が抜けているくらいがかわいい。


 整いすぎると、印みたいになる。


 崩れすぎると、ただの墨の失敗になる。


「むずかしいです」


 お鈴が言った。


「少し歪んでいる方が、しるべらしいかもしれません」


 私が言うと、お鈴は頷いた。


「しるべ、きっちりしてませんもんね」


 しるべは片耳だけ動かした。


 悪口は聞こえるらしい。


 昼前、試しの包み紙ができた。


 白い紙の隅に、小さな黒い足跡。


 その横に、丸い字で。


 おいなり包み

 小腹にどうぞ


 いい。


 とてもいい。


 派手ではない。


 でも、手に取りたくなる。


 おいなり包みの控えめさに合っている。


 狐の油揚げなのに、猫の足跡がついている。


 少し変だ。


 でも、その変さが青柳屋らしい。


「茶屋へ持っていきましょう」


 私が言うと、お鈴が包み紙を大事そうに抱えた。


 茶屋では、主人が朝の仕込みをしていた。


「若旦那、今日は何を?」


「包み紙です」


「包み紙?」


 お鈴が差し出す。


 茶屋の主人は紙を見て、目を細めた。


「おお、足跡かい」


「しるべの足跡です」


「狐の油揚げなのに猫か」


「そこが少し面白いかと」


 茶屋の主人は笑った。


「いいねえ。子どもが喜びそうだ」


「ただし、外側だけに使います。内側には別の紙を」


 お滝からの指示をそのまま伝える。


 茶屋の主人は真面目に頷いた。


「食べ物だもんな」


「はい」


「かわいいだけじゃ駄目だ」


「そこは大事です」


 商いは、見た目だけではいけない。


 味だけでもいけない。


 安心して食べられること。


 持ち帰れること。


 渡した相手が少し笑うこと。


 その全部を、できる範囲で整える。


 小さなおいなり包みひとつに、思ったより仕事が詰まっている。


 最初の客は、おみつだった。


「若旦那! 今日もおいなりある?」


「あります」


「おっかあの分も」


「ありがとうございます」


 茶屋の主人がおいなり包みを二つ包んだ。


 しるべの足跡つきの紙。


 おみつは、それを見た瞬間、目を輝かせた。


「あ、しるべの足!」


「そうです」


「しるべ、踏んだの?」


「本物は踏んでいません。絵です」


「踏んだ方がよかった」


「それは困ります」


 子どもの発想は危険である。


 だが、おみつは嬉しそうに包みを抱えた。


「おっかあ、これ見たら笑う」


 その一言で、私は少し救われた。


 そうだ。


 包み紙は、家に着くまでの小さな会話になる。


 食べる前に、ひとつ笑える。


 それだけでも、値がある。


 次に来たのは、昨日の職人だった。


「今日は腹身ないのか」


「ありません」


「じゃあ、おいなり包み二つ」


「ありがとうございます」


 職人は包み紙を見て、ふっと笑った。


「猫の足跡か」


「はい」


「油揚げを猫が狙ってるってわけか」


「そう見えますね」


「うまいじゃねえか」


 うまい。


 食べる前に言われた。


 これは、包装の勝ちかもしれない。


 昼過ぎには、茶屋の前で「足跡の包みのやつ」と呼ばれるようになっていた。


 商品名より先に、印が覚えられている。


 おいなり包み。


 しるべ足跡包み。


 どちらが正式か、少し危うい。


 だが、商いとはそういうものかもしれない。


 こちらがつけた名前と、町が呼ぶ名前は違うことがある。


 そして、町が呼びやすい名前の方が、強いこともある。


 前世でも、正式名称を誰も呼ばない商品はあった。


 あの黒いやつ。

 駅前の角の店。

 猫の看板のところ。

 人は、覚えやすい形で覚える。


 それなら、それを無理に正さなくてもいい。


「若旦那」


 茶屋の主人が言った。


「この包み紙、もう少し作ってもらえますか」


「はい。ただ、手間賃はかかります」


「もちろん」


「お鈴さんの手も入りますので」


「そりゃそうだ。字と絵があるんだから」


 その返事は、自然だった。


 お鈴が横で少し驚いた顔をした。


「私の手間賃もですか」


「もちろんです」


 私が言うと、お鈴は目をぱちぱちさせた。


「でも、私は女中で」


「絵を描いたのは、お鈴さんです」


「でも、そんな」


「お鈴さんの字で、おみつさんが笑いました」


 お鈴は黙った。


 頬が少し赤くなる。


「なら、その笑いも仕事のうちです」


 言いながら、私は少し思った。


 これは、私自身にも言っている。


 人を笑わせること。


 少し安心させること。


 持ち帰る道を軽くすること。


 そういうものは、つい値がつかないと思われる。


 でも、本当はそこにも手がある。


 誰かが考え、描き、整えたものがある。


 それを見えないままにしない。


 青柳屋は、そういう店にしたい。


 茶屋の主人は、包み紙代を別に払うと言った。


 お鈴は何度も遠慮しそうになったが、小春が静かに背中を押した。


「受け取っていいと思います」


「小春さん」


「私も、最初は怖かったです」


「怖いです」


「でも、受け取ると、自分の手が少し見えます」


 お鈴は包み紙を見た。


 小さな足跡。


 丸い字。


 それは確かに、お鈴の手だった。


「じゃあ、受け取ります」


 お鈴の声は小さかった。


 でも、ちゃんと聞こえた。


 夕方、青柳屋へ戻ると、しるべが店先で寝ていた。


 本人は、今日も何もしていない。


 いや、元の足跡を提供した。


 勝手に。


 その勝手が、また仕事になった。


 私はしるべの前にしゃがんだ。


「あなたの足跡、包み紙になりましたよ」


 しるべは目を開けた。


 にゃ。


「足跡料は出ません」


 しるべは、もう一度にゃと鳴いた。


 不満なのか。


 ただ鳴いただけなのか。


 猫の労務交渉は難しい。


 お滝が後ろから言った。


「魚の端でいいだろ」


 しるべの耳が動いた。


 交渉成立らしい。


 夜、私は帳場に今日のことを書いた。


 おいなり包み、包み紙改良。

 しるべ足跡柄。

 お鈴、字と絵を担当。

 包み紙代、茶屋より受領。

 おみつ、喜ぶ。

 職人、食べる前に「うまい」と言う。

 しるべ、魚の端を要求。


 書いていて、少し笑った。


 包み紙ひとつで、こんなに町が動くとは思わなかった。


 でも、考えてみれば、青柳屋はもともと包む仕事の店だ。


 布で身体を包む。

 巾着で小物を包む。

 香袋で香りを包む。

 おいなりで酢飯を包む。

 包み紙で、家に帰るまでの気持ちを包む。


 包むというのは、隠すことだけではない。


 守ること。


 持ちやすくすること。


 渡しやすくすること。


 少し笑える形にすること。


 そういう仕事なのかもしれない。


 どうせ一度死んだ身だ。


 今度は、自分の情けなさや、中途半端さも、乱暴に捨てるのではなく、少し包んで持てるようにしたい。


 誰かに見せるためではなく。


 自分が明日まで持ち運べるように。


 そう思ったところで、藤兵衛が静かに言った。


「若旦那」


「はい」


「包み紙の在庫管理欄を作っておきました」


 来た。


 包み紙にも在庫。


 当然だ。


 商いとは、情緒のあとに在庫管理が来る。


 私は深く息を吸った。


「ありがとうございます」


「それと」


「まだありますか」


「しるべが、在庫の紙の上で寝ています」


 私は立ち上がった。


 逃げたのではない。


 今日は、包み紙を守るために、猫と第二回交渉を行うのである。

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