第22話 若旦那、とろけ腹身を昼だけにする
翌日の昼前、茶屋の前には、小さな札が立った。
とろけ腹身
本日、昼だけ。
数に限りあり。
札を書いたのは、お鈴である。
字は丸く、勢いがあった。
ただ、少しだけ「とろけ」の部分に力が入りすぎている。
とろけ腹身。
名前だけなら、かなり間が抜けている。
しかし、昨日試作した腹身寿司は、本当にうまかった。
脂が強い。
そのままでは重い。
でも、酢飯と合わせて軽く炙ると、口の中でほどける。
この町で余りがちだった鮪もどきの腹身が、一気にごちそうへ化ける。
つまり、今日は試験販売である。
魚屋の親父。
茶屋の主人。
お滝。
小春。
そしてなぜか私。
青柳屋の若旦那が、茶屋の新メニューに立ち会っている。
何屋なのか。
呉服屋である。
少なくとも、朝まではそうだった。
「若旦那」
茶屋の主人が、不安そうに札を見た。
「これ、本当に売れますかね」
「わかりません」
「相変わらず正直だ」
「でも、昨日食べた限りでは、おいしいです」
「そりゃ、私も食べたからわかります。でも、町の人がどう見るか」
その気持ちはわかる。
余りがちだった腹身。
しかも脂が強くて扱いづらいと言われていた部位。
それを急に「ごちそうです」と出しても、人はすぐには信じない。
前世でもそうだった。
流行りものの食べ物を見るたびに、私は少し身構えた。
本当にうまいのか。
写真だけではないのか。
値段に見合うのか。
並ぶほどなのか。
人は、新しいものに弱い。
でも、同じくらい疑い深い。
「まずは、少しだけです」
私は言った。
「少しだけ?」
「はい。今日の腹身は今日のうちに。しかも、昼だけ。数も決めます」
「でも、売れるなら多い方が」
「鮮度があります」
お滝が横から言った。
「欲をかいて夜まで出したら、腹を壊すよ」
強い。
お滝の言葉には、台所の法律がある。
商い以前に、腹を守る。
これは絶対である。
「腹を壊したら、とろけ腹身じゃなくて、くだり腹身になる」
魚屋の親父が言った。
場が一瞬、止まった。
親父。
それは言わない方がいい。
商品名の隣に置いてはいけない単語である。
脳内の広報担当が、即座に赤ペンを持った。
禁止。
絶対禁止。
店先で言うな。
風評被害が最速で走る。
「親父さん」
「へい」
「それは、二度と言わないでください」
「そんな真顔で言うことかい」
「真顔で言うことです」
小春が口元を押さえて笑っている。
お鈴は、笑ってはいけないと思っている顔で、すでに半分負けている。
茶屋の主人は、札を裏返そうとしていた。
「やめましょう。まだ開店前です」
私は慌てて止めた。
「とにかく、今日は十貫だけです」
「十貫」
「はい」
少ない。
かなり少ない。
だが、最初はそれでいい。
おいしいものほど、調子に乗ると怖い。
前世の私は、何度もやった。
おいしいからと唐揚げを追加する。
いけると思ってラーメンに半チャーハンをつける。
食後にデザートまで行く。
そして帰り道、胃袋から静かに抗議文が届く。
おいしいと、適量の判断が壊れる。
商いも同じだ。
売れるかもしれない、と思った瞬間に、作りすぎる。
作りすぎると、焦る。
焦ると、値を下げる。
値を下げると、手が荒れる。
最後に、誰かが泣く。
「若旦那、十貫では少なすぎませんか」
小春が聞いた。
「少ないです」
「では、なぜ」
「足りないくらいで、今日を終わらせたいのです」
言ってから、自分でも少し驚いた。
昔の私なら、足りないと言われるのが怖かった。
頼まれたら増やす。
欲しいと言われたら出す。
断ると嫌われる気がする。
でも今は、少しだけわかる。
足りないと言われることは、必ずしも失敗ではない。
安全に終わるための線を引くことも、商いなのだ。
昼になると、最初の客が来た。
意外にも、源蔵さんだった。
町内の世話役。
声が大きく、祭りの時には圧が強い。
今日は茶屋の前で腕を組み、札をじっと見ている。
「とろけ腹身?」
「はい」
「何だそりゃ」
「鮪もどきの腹身を、酢飯にのせて軽く炙ったものです」
「腹身って、あの脂っこいやつか」
「はい」
「それがうまいのか」
「食べてみますか」
源蔵さんは少し迷った。
そして、椅子に座った。
「じゃあ、一つ」
茶屋の主人の顔が引き締まる。
お滝が酢飯を渡す。
魚屋の親父が腹身を切る。
茶屋の主人が炙る。
小春が横で皿を整える。
私は、なぜか息を止めて見ていた。
寿司一貫に、何人が関わっているのか。
これ、原価計算がややこしい。
脳内の帳場がざわつく。
今は黙って。
まずは一貫目だ。
源蔵さんは、とろけ腹身を口に入れた。
黙った。
目が、少しだけ見開かれる。
嚙む。
いや、ほどける。
そして、眉間の皺が少し緩んだ。
「……うまいな」
来た。
その一言で、茶屋の空気がほどけた。
魚屋の親父が、にやりと笑う。
茶屋の主人は、胸をなで下ろす。
お鈴は小さく拍手している。
小春は、ほっとしたように笑った。
私は内心で大きくガッツポーズをした。
脳内の寿司職人が、無言で暖簾をくぐっている。
いや、お前は誰だ。
握ったのはお滝と茶屋の主人だ。
「もう一つ」
源蔵さんが言った。
「申し訳ありません」
私は即答した。
「本日は、お一人一貫でお願いします」
「何だと?」
「数が少ないので」
「うまいのに?」
「うまいからです」
源蔵さんは、変な顔をした。
「うまいなら、もっと食わせりゃいいだろう」
「今日の腹身は、今日の分だけです。多く出して質が落ちると、この一貫の値が下がります」
「むう」
「それに、他の方にも食べていただきたい」
源蔵さんは、少し不満そうだった。
だが、怒ってはいない。
「なるほど。出し惜しみか」
「いえ」
私は首を振った。
「線引きです」
源蔵さんは、しばらく私を見た。
そして笑った。
「若旦那、面倒くさいこと言うな」
「よく言われます」
「だが、悪くねえ。明日も出るか」
「魚次第です」
「魚次第」
「はい。魚屋さんがよい腹身を持ってこられた日だけです」
「じゃあ、運か」
「少しだけ」
源蔵さんは満足そうに茶をすすった。
その後、噂はすぐに広がった。
町は狭い。
そして、うまい話は特に速い。
二人目は、茶屋の常連の老婆。
三人目は、職人。
四人目は、白菊さんの使いの若い衆。
五人目は、黒瀬伊織だった。
なぜ来る。
いや、来ると思った。
この人は、新しい商いの匂いを嗅ぎつける力が強い。
伊織は札を見て言った。
「とろけ腹身」
「はい」
「また妙なものを」
「食べますか」
「もちろん」
即答だった。
食べるのか。
伊織は淡々と席に座った。
茶屋の主人が緊張している。
魚屋の親父が、妙に対抗心を出している。
お滝は平常運転。
小春は少し楽しそうだ。
伊織は、とろけ腹身を口に入れた。
表情は変わらない。
だが、箸を置くまでが少し遅かった。
これは、うまいと思っている顔だ。
私は学んでいる。
黒瀬伊織の「うまい」は、表情ではなく沈黙の長さに出る。
「どうですか」
「悪くない」
出た。
伊織語の高評価。
「ただし」
来た。
黒瀬伊織の「ただし」は、だいたい一緒に帳面を連れてくる。
「数が少ない」
「はい」
「もっと仕入れて、黒瀬屋の流通で広げれば売れます」
当然、そう来る。
伊織なら考える。
早く、広く、たくさん。
それが黒瀬屋の強さだ。
「今は、広げません」
私は言った。
「なぜ」
「鮮度と手間が追いつかないからです」
「仕組みにすればよい」
「いずれは」
「今ではなく?」
「はい」
伊織は私を見た。
「機会を逃しますよ」
「逃す機会もあります」
言ってから、自分でも少し驚いた。
強気なことを言っている。
内側の元喪女が、奥で「ほんとに? ほんとにそれで大丈夫?」と震えている。
わかる。
怖い。
売れるものを、あえて増やさない。
これは怖い。
でも、今ここで黒瀬屋の流通に乗せれば、きっと数は出る。
数が出れば、腹身をもっと集める必要がある。
鮮度が落ちるものも混ざる。
急がせる。
無理が出る。
誰かの手が荒れる。
そして、とろけ腹身は「何だ、思ったほどでもない」と言われる日が来るかもしれない。
それは、もったいない。
「これは、まず町の昼だけの品にします」
「小さすぎます」
「小さく始めたいのです」
「青柳屋らしいですね」
「褒めていますか」
「保留です」
「またですか」
小春が横で笑った。
伊織はもう一貫欲しそうな顔を、ほんの少しだけした。
しかし、何も言わなかった。
えらい。
いや、客に対してえらいとは何だ。
でも、彼も線引きを受け取ってくれた。
その時、店先で騒ぎが起きた。
「しるべだ!」
子どもたちの声。
しるべが来た。
茶屋の猫待ち台の横に、いつものように座る。
そして匂いを嗅ぐ。
とろけ腹身の匂い。
しるべの目が、少し鋭くなる。
まずい。
猫に寿司は出せない。
お滝がすばやく、火を通した腹身の端を小皿に置いた。
「しるべはこっち」
しるべはそれを食べた。
子どもたちが歓声を上げる。
「猫も食べてる!」
「しるべも好きなんだ!」
やめて。
広告効果が強すぎる。
しるべが食べた途端、残りの客が一気に前のめりになった。
猫の信用、すごい。
人間の説明より、猫の一口。
商いとは。
私は遠い目をした。
その後、十貫はすぐに売り切れた。
思ったより早かった。
茶屋の主人は嬉しそうで、同時に少し困っていた。
「若旦那、まだ客が来ます」
「売り切れです」
「怒られませんかね」
「怒る人もいるでしょう」
「でしょうねえ」
「でも、出せないものは出せません」
案の定、遅れて来た職人が不満そうに言った。
「もうないのかい」
「本日は売り切れです」
「昼だけって、まだ昼だろう」
「数に限りがありますので」
「もっと作りゃいいじゃねえか」
茶屋の主人が困った顔をする。
魚屋の親父も少し気まずそうだ。
私は前に出た。
「申し訳ありません」
「若旦那が決めたのか」
「はい」
「けちだねえ」
「そう見えるかもしれません」
「うまいなら食わせてくれよ」
「うまいから、今日は終わりにします」
職人は眉を寄せた。
「どういう理屈だ」
「今日の腹身で、おいしく出せる数が十貫でした。それ以上は、味か鮮度か、誰かの手間を無理させます」
「少しくらい」
「その少しくらいが、積もると仕事を荒らします」
職人は黙った。
私は続けた。
「明日、よい腹身が入ればまた出します。入らなければ出しません」
「毎日じゃねえのか」
「毎日ではありません」
「面倒だな」
「はい」
「でも、そう言われると食いたくなるな」
「それは困ります」
職人は笑った。
「じゃあ、明日も覗くよ」
「ありがとうございます」
怒りはしなかった。
ほっとした。
売り切れを伝えるのは怖い。
断るのは怖い。
でも、断り方に理由があれば、人は完全には離れないこともある。
もちろん、全員がそうではない。
怒る人もいる。
去る人もいる。
でも、全員を満たそうとして、品を壊す方がもっと怖い。
夕方、茶屋の売上をまとめた。
とろけ腹身、十貫完売。
茶の注文、増。
草餅、ついで買いあり。
しるべ、猫待ち台横にて腹身端を食す。
最後の一行は必要なのか。
必要な気がする。
しるべの一口は、明らかに売上に影響していた。
猫、また成果を出している。
本人は何も考えていない。
いや、本猫。
もうどちらでもいい。
青柳屋へ戻る途中、小春が言った。
「若旦那」
「はい」
「売り切れにするの、怖くありませんでしたか」
「怖かったです」
「そうなんですか」
「とても」
小春は少し驚いた顔をした。
「でも、そうは見えませんでした」
「外側だけです。内側では大騒ぎでした」
「どんなふうに?」
「在庫切れ、顧客対応、機会損失、評判低下、全部が走り回っていました」
「よくわかりませんが、大変そうです」
「大変でした」
でも、少しだけ気づいた。
断ることは、拒むことではない。
守ることでもある。
魚の鮮度を守る。
お滝の手を守る。
茶屋の信用を守る。
食べる人の腹を守る。
そして、とろけ腹身の「おいしかった」という記憶を守る。
売れるだけ売るのではなく、また食べたいと思えるところで止める。
それも商いなのだと思う。
夜、帳場で今日の記録を書いた。
とろけ腹身、茶屋にて試験販売。
十貫完売。
追加希望あり。
黒瀬屋、広げる提案。
今は昼だけ、魚次第。
筆を止める。
私は、最後に一行書き足した。
うまいものほど、数を決める。
書いてみると、胸に残った。
前世の私は、欲しがられたら全部出さなければいけない気がしていた。
時間も。
気力も。
親切も。
言葉も。
でも、全部出すと、次の朝に暖簾が上がらない。
おいしいまま出せる数。
丁寧なまま届けられる量。
自分が壊れずに差し出せる範囲。
それを決めることは、わがままではない。
たぶん、続けるための知恵だ。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、売り切れの札を出す勇気も持ちたい。
その時、台所からお滝の声がした。
「若旦那、残りの酢飯どうするんだい!」
現実。
また余りもの。
寿司を作れば、酢飯が余る。
酢飯が余れば、次の商いが顔を出す。
私は立ち上がった。
逃げたのではない。
今日は、売り切れたあとに残った米まで、ちゃんと見に行くのである。




