第21話 若旦那、トロを捨てる町に震える
茶屋の猫待ち台が犬に取られた翌日。
私は、魚屋の前で足を止めていた。
理由は単純である。
腹が減っていた。
朝粥は食べた。
お滝の粥は、いつだってうまい。
だが、粥には粥の役目がある。
身体を戻す。
胃をなだめる。
今日もやっていきましょうね、と内臓に声をかける。
しかし、胃袋には別の声もある。
もっとこう、がつんとしたものが食べたい。
米の上に、魚がのっているやつ。
醤油をちょんとつけて、口の中でほどけるやつ。
そう。
寿司である。
前世の私は、疲れた日の帰り道、スーパーの半額寿司に何度も救われた。
透明な蓋。
少し乾いたネタ。
でも、そこにあるだけで嬉しい寿司。
贅沢ではない。
でも、自分に「今日もおつかれ」と言ってやれる味だった。
異世界に来てから、私はまだ本格的な寿司を食べていない。
ここは小江戸めいた城下町。
魚も米も醤油もある。
ならば、寿司があってもいいではないか。
脳内のシブがき隊が、鉢巻きを締めて立ち上がりかけた。
いや、まだ早い。
まずは魚屋である。
「お、若旦那」
魚屋の親父が声をかけてきた。
「今日は何をお探しで」
「少し、魚を見せていただこうかと」
「へえ。青柳屋さんが魚とは珍しい」
「布ばかり見ていると、たまに海が恋しくなりまして」
「若旦那、変わったこと言うねえ」
いつもの評価である。
魚屋の台には、朝獲れの魚が並んでいた。
銀色に光る小魚。
丸々とした鯛に似た魚。
赤身の大きな切り身。
貝。
干物。
いい。
とてもいい。
魚屋の前は、情報量が多い。
潮の匂い。
氷の代わりに敷かれた濡れ布。
桶の水音。
包丁の音。
前世の私は、魚をさばけなかった。
切り身を買う専門。
三枚おろしなど、動画では見たことがある。
あるが、自分でやるとたぶん事件になる。
台所に、魚と私の敗北が散る。
「この赤身は?」
「大鮪もどきだな。沖で獲れたやつだ」
「鮪もどき」
「鮪に似てるが、ちょいと身が柔らかい。赤身はうまいよ。漬けにしてもいい」
鮪。
その響きだけで、私の胃袋が正座した。
鮪。
赤身。
漬け。
寿司。
脳内で回転レーンが動き出す。
いや、ここに回転寿司はない。
ないのに、皿だけが流れてくる。
「腹の脂の多いところはありますか」
私が聞くと、魚屋の親父は変な顔をした。
「腹?」
「はい。脂ののったところです」
「ああ、あれか」
親父は台の下から、少し白っぽい身を出した。
見た瞬間、私は固まった。
待って。
待って待って待って。
これは。
これは、もしかして。
トロでは。
前世の私の中で、高級寿司店の暖簾が一斉に揺れた。
大トロ。
中トロ。
口の中で溶けるあの脂。
財布は溶ける前に泣く。
そのトロらしきものが、雑に置かれている。
しかも、親父の顔がまったくありがたがっていない。
「これは、いくらですか」
「これかい? 安くていいよ。脂が強すぎて、日持ちしねえし、焼くとくどい。好きなやつは好きだが、うちじゃ余りがちでね」
安くていい。
安くていい?
トロに向かって?
私は内側で崩れ落ちた。
前世の回転寿司で、百円皿ではなく少し高い皿に乗って流れてきたあの子が。
給料日前には見送るしかなかったあの輝きが。
この世界では、余りがち。
何ということだ。
文明が違う。
価値観が違う。
寿司ネタ界の政権交代である。
「余ったら、どうするのですか」
「まあ、猫や犬にやるか、捨てるかだな」
「捨てる?」
声が裏返りそうになった。
いや、若旦那。
落ち着け。
外側の若旦那を保て。
しかし内側の元喪女は、完全に非常ベルを鳴らしていた。
トロを捨てる?
トロを?
正気か。
ここはどういう世界線だ。
脳内の寿司職人が、無言で鉢巻きを締め直している。
これは見過ごせない。
フードロスという言葉があるかは知らない。
だが、トロを捨てるのは、私の中の何かが許さない。
「それ、いただけますか」
「これを?」
「はい」
「若旦那、脂っぽいよ」
「承知の上です」
「腹を壊しても知らねえよ」
「ほどほどにします」
私は腹身を包んでもらった。
その時、背後から声がした。
「若旦那、今度は魚屋で何を始めるんですか」
小春だった。
手には、香袋の追加分の布を抱えている。
「小春さん」
「その包みは?」
「鮪もどきの腹身です」
「腹身?」
「トロです」
「とろ?」
小春は首を傾げた。
そうか。
この世界には、まだトロというありがたい響きがない。
いや、あるのかもしれないが、少なくともこの町では尊ばれていない。
私は包みを見つめた。
これは、名をつける前の宝である。
「脂が強くて、余りがちなところだそうです」
「それを、どうするんですか」
「寿司にします」
「すし?」
小春の首が、さらに傾いた。
ああ。
説明が必要だ。
米を酢で締めて、魚をのせる。
ひと口で食べる。
醤油をつける。
生姜がほしい。
わさびもほしい。
この世界にわさびはあるのか。
待って。
問題が多い。
寿司は、ただ魚を米にのせればいいというものではない。
米の温度。
酢の加減。
切り方。
脂の扱い。
醤油。
急に難易度が上がった。
私は寿司職人ではない。
前世で寿司を食べていただけの女である。
食べる側の記憶だけで、作る側に回るのは危険だ。
しかし。
トロを捨てる町で、黙ってはいられない。
「まず、お滝さんに相談しましょう」
私は言った。
困った時のお滝である。
台所の実務神。
青柳屋へ戻ると、お滝は腹身を見るなり、眉を上げた。
「脂が強いねえ」
「やはり、扱いにくいですか」
「焼くとくどい。煮ても重い。すぐ傷む。だから魚屋が嫌がるのもわかるよ」
「でも、食べられますよね」
「食べられる。うまくやればね」
お滝は腹身を少し切り、匂いを確かめた。
その手つきに迷いがない。
「これは火を通しすぎちゃ駄目だ。脂が逃げる。薄く切って、炙るか、酢で少し締めるか」
「炙り」
私は反応した。
炙りトロ。
危険な言葉である。
脳内の寿司レーンが、急に高級店のカウンターへ変わった。
炙り。
脂が少し溶ける。
そこへ醤油。
できれば塩でもいい。
いや、待て。
まだ食べていないのに、脳内だけで会計が進んでいる。
「若旦那、顔が食いしん坊になってるよ」
お滝が笑った。
「失礼しました」
「まあ、いい顔だ。食べもののことを考える顔は、悪くない」
小春も横で少し笑っている。
「寿司というのは、どう作るんですか」
「酢飯に、魚をのせます」
「酢飯」
「はい」
お滝が頷いた。
「米に酢を混ぜるのは、祭りの時にもやるね。魚をのせるのは、まあ、握り飯の小さいやつか」
「そうです。小さい握り飯です」
「なら、やってみるか」
軽い。
お滝、試作への腰が軽い。
これが現場の強さである。
青柳屋の台所で、急きょ寿司試作が始まった。
米を少し固めに炊く。
酢、塩、少しの甘み。
お滝が混ぜる。
小春が扇ぐ。
私は横で見ている。
「若旦那、見ているだけですか」
小春が言った。
「私が握ると、米が団子になります」
「やってみないとわかりません」
「わかります。前世から」
「ぜんせ?」
「以前から」
危ない。
食べものを前にすると、口が緩む。
私は試しに米を少し取って握った。
結果。
おにぎりの赤ちゃんみたいなものができた。
寿司ではない。
小さな米の塊である。
お滝がそれを見て、豪快に笑った。
「若旦那、力が入りすぎだ」
「難しいです」
「握るってのは、押しつぶすことじゃないんだよ」
深い。
寿司だけの話ではない気がする。
人も仕事も、強く握りすぎると潰れる。
ゆるすぎると崩れる。
ちょうどよく形にする。
青柳屋、最近何をしても人生訓になる。
私は何度か練習した。
少しずつ、米が寿司らしくなっていく。
そこへ、お滝が薄く切った腹身をのせた。
さらに、表面を軽く炙る。
じゅ、と小さな音がした。
脂が光る。
香りが立つ。
私は、思わず息を止めた。
これは。
これは、いけない。
人を駄目にする匂いである。
「食べてみな」
お滝が言った。
私はひとつ、つまんだ。
醤油を少し。
口に入れる。
米がほどける。
脂が溶ける。
酢の酸味が、脂を受け止める。
うまい。
うまい。
うまい。
脳内のシブがき隊が、完全にステージへ出てきた。
待って。
これは寿司食いねえ案件。
いや、歌うな。
でも踊りたい。
この脂、捨てていたの?
本当に?
この町、大丈夫?
私は目を閉じた。
前世の半額寿司の記憶が、走馬灯のように蘇る。
会社帰り。
疲れた足。
スーパーの蛍光灯。
少し乾いたシャリ。
それでも嬉しかった、あの寿司。
今、異世界の青柳屋の台所で、私はトロらしきものを食べている。
人生、どう転ぶかわからない。
いや、一回死んでいる。
転び方が激しい。
「若旦那?」
小春が心配そうに見ている。
「おいしいです」
「そんなに?」
「はい」
小春も一つ食べた。
目が少し大きくなった。
「……おいしい」
「でしょう」
「脂が強いけれど、酢飯と合います」
「そうなんです」
「でも、たくさんは食べられませんね」
「そこも含めて正しいです」
お滝も食べた。
「なるほどねえ。これは米と酢がないと重い。魚だけで食べようとするから余るんだ」
その言葉に、私は頷いた。
使い方を知らないから、値がつかない。
扱い方を間違えるから、捨てられる。
でも、組み合わせが変わると、急に光る。
トロだけでは重い。
酢飯と合うと、ごちそうになる。
人も、仕事も、そういうことがあるのかもしれない。
合う場所に置かれていないだけで、余りもの扱いされる。
でも、合う相手や場が見つかると、急に価値が立ち上がる。
腹身は、余っていたのではない。
寿司を待っていたのだ。
いや、さすがに言いすぎか。
でも、うまい。
うまいものを食べた人間は、少し大げさになる。
そこへ、しるべが現れた。
台所の入り口に座り、こちらを見ている。
匂いを嗅ぎつけたのだ。
猫の嗅覚、強い。
「しるべ、これは駄目です」
私が言うと、しるべは一歩前に出た。
「駄目です」
もう一歩。
「駄目です」
にゃ。
圧がある。
しかし、トロ寿司を猫に渡すわけにはいかない。
いや、魚ではある。
だが、酢飯と醤油がある。
猫に良いとは思えない。
お滝が小皿に、火を通した腹身の端を少しだけ置いた。
「こっちだよ」
しるべはそれを食べた。
そして、目を細めた。
気に入ったらしい。
また仕事が増える気配がした。
猫用炙り腹身。
いや、やめよう。
青柳屋は呉服屋である。
寿司屋でも猫飯屋でもない。
ないはずだ。
夕方、魚屋の親父が青柳屋へ呼ばれた。
試作品を食べてもらうためである。
「若旦那、これが腹身の寿司かい」
「はい」
「ほんとにうまいのかね」
「食べてみてください」
親父は半信半疑で口に入れた。
そして、黙った。
少し目を見開く。
「……うめえな」
「でしょう」
「脂がくどくねえ」
「酢飯と合わせると、ほどけます」
「こりゃ驚いた」
魚屋の親父は、もう一つ食べた。
「これ、売れるかもしれねえ」
「ただし、扱いは慎重に。日持ちしないなら、今日中に食べる分だけ。量も少なく」
「そうだな。欲張ると腹を壊す」
お滝が横から言った。
「腹を壊したら、全部台無しだよ」
「わかってるって」
親父は笑った。
私は少し考えた。
青柳屋が寿司を売るわけにはいかない。
呉服屋である。
でも、魚屋と茶屋をつなぐことはできる。
茶屋には猫待ち台がある。
人が足を止める。
そこで、昼だけ少し、腹身寿司を出す。
魚屋は余っていた腹身に値がつく。
茶屋は新しい客を呼べる。
青柳屋は、布の商いではないが、町の仕事をつなぐことで信用を得る。
そして私は、寿司を食べられる。
最後が大きい。
かなり大きい。
「茶屋さんに相談しましょう」
私は言った。
「茶屋で寿司かい?」
「草餅とお茶だけでなく、昼の小さな品として。量は少なく、今日の魚だけ」
「なるほどねえ」
魚屋の親父は腕を組んだ。
「名前は?」
名前。
また名前である。
名前がないと、商いは立ち上がりにくい。
でも、トロと呼ぶには、この町ではまだ意味がない。
腹身寿司。
そのまますぎる。
脂鮨。
少し重い。
とろり鮨。
悪くないが、少し甘い。
「とろけ腹身」
お鈴が横から言った。
皆が黙った。
「だめですか?」
「いや」
私は考えた。
わかりやすい。
少し間が抜けている。
だが、食べた感じは伝わる。
「採用しましょう」
「え、本当に?」
「はい。とろけ腹身」
小春が小さく笑った。
「かわいいですね」
魚屋の親父も頷いた。
「いいじゃねえか。とろけ腹身」
こうして、トロになる前のトロは、この町で「とろけ腹身」と呼ばれることになった。
前世の私の中の寿司好きが、静かに手を合わせている。
トロ、異世界で再就職。
よかった。
夜、私は帳面に今日の出来事を書いた。
鮪もどき腹身、魚屋では余りがち。
お滝、酢飯と炙りを提案。
小春、試食。
魚屋、驚く。
茶屋へ昼の品として相談予定。
名、とろけ腹身。
書いていて、お腹が鳴った。
もう食べたのに。
寿司というものは、記憶でもう一度腹を鳴らす。
罪深い。
でも、今日はよかった。
捨てられそうだったものに、別の道が見えた。
脂が強すぎるものも、受け止める米と酢があれば、ちゃんとごちそうになる。
強すぎる個性も、場所が合えば値になる。
人も、たぶん同じだ。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、誰かが「これは捨てるしかない」と言ったものを、すぐに信じないでいたい。
使い方を変えれば、口の中でほどける日が来るかもしれない。
そう思ったところで、台所からお滝の声がした。
「若旦那、腹身の残り、明日の朝まで持たないよ!」
現実。
鮮度。
寿司は待ってくれない。
私は帳面を閉じ、立ち上がった。
逃げたのではない。
今日は、とろけ腹身が傷む前に、もう一貫食べる必要があるのである。




