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第20話 若旦那、猫待ち台を犬に取られる

 茶屋の猫待ち台は、思ったより早く仕上がった。


 小春が選んだのは、紺の端切れに、少しだけ赤を足した布だった。


 茶屋の草餅の札と、古い木の色に合う。


 派手ではない。


 でも、店先に置くと、そこだけ少し息をしているように見えた。


「いいですね」


 私が言うと、小春は少しだけ頷いた。


「猫が来るかは、わかりませんけど」


「来たくなる場所にはなっています」


「それなら、よかったです」


 猫待ち台。


 名前だけ聞くと、かなり妙である。


 しかし、見てみると悪くない。


 小さな台に、端切れを縫い合わせた敷き布。


 猫が丸くなるにはちょうどいい。


 人間が荷物を置くにも、子どもが腰かけるにも、少し休むにもいい。


 つまり、猫を待つふりをして、人も少し待てる台である。


 前世の私も、こういう場所が好きだった。


 コンビニ前のベンチ。

 駅の端の椅子。

 スーパーの袋詰め台の横にある、ちょっとした荷物置き。


 長居はしない。


 でも、少し息を整えられる。


 そういう場所が、町には必要なのだと思う。


「若旦那、持っていきましょうか」


 お鈴が元気よく言った。


「はい。慎重に」


「揺らさず、濡らさず、猫に取られず、ですね」


「最後はもう取られる前提ですね」


 店先では、しるべがしるべ布の上で寝ていた。


 こちらを見もしない。


 自分由来の商品が茶屋へ納品されるというのに、本人に感慨はないらしい。


 いや、本人ではなく本猫か。


 どちらでもいい。


 猫は式典に出ない。


 テープカットもしない。


 しるべは、ただ寝ている。


 それでも商品名に名を残している。


 すごい立場である。


 前世の芸能人タイアップ商品でも、もう少し稼働する。


「しるべ、納品に行きますよ」


 お鈴が声をかけた。


 しるべは片耳だけ動かした。


 行く気はないらしい。


「自由ですね」


 小春が笑った。


「自由すぎます」


 私は猫待ち台を辰五郎と銀次に運んでもらうことにした。


 台自体は大きくない。


 だが、茶屋まで運ぶなら、やはり丁寧にしたい。


 銀次は台を見て、真面目な顔で言った。


「猫の台も、揺らさずですか」


「はい」


「猫は乗ってませんけど」


「乗る予定のものですから」


「なるほど」


 銀次は納得したように頷いた。


 成長している。


 少し前まで賭場で覆い代を増やそうとしていた男が、今は猫が乗る予定の台を丁寧に運ぼうとしている。


 人は変わる。


 いや、少しずつ戻る。


 そう思ったところで、しるべが大きなあくびをした。


 お前も少しは変われ。


 無理か。


 猫だから。


 茶屋へ向かう道は、よく晴れていた。


 昨日の雨の名残もない。


 通りには、干した布の匂いと、焼いた餅の匂いが混じっている。


 茶屋の主人は、店先で待っていた。


「おお、来た来た」


「お待たせしました」


「これが猫待ち台かい」


「はい」


 辰五郎と銀次が、店先の日当たりのいい場所へ台を置く。


 小春が布の端を整える。


 お鈴が少し離れて、全体の見え方を確認する。


 私は腕を組み、うなずいた。


 外側だけなら、完全に若旦那である。


 内側では、前世の私が「猫、来るかな。来なかったらどうしよう。納品初日で猫ゼロは気まずい」と、開店初日の飲食店オーナーみたいに震えている。


 やめろ。


 猫に集客KPIを背負わせるな。


 猫は数値目標を知らない。


「いいねえ」


 茶屋の主人は嬉しそうに言った。


「ここに猫が座ったら、絵になる」


「猫が来れば、ですが」


「来ますかね」


「わかりません」


「若旦那、ほんと正直だね」


「嘘をつくと、あとで猫にばれそうなので」


 茶屋の主人は笑った。


 その時だった。


 通りの向こうから、元気な足音が聞こえた。


 たたたたた。


 小さな足音。


 猫ではない。


 もっと勢いがある。


 そして次の瞬間、茶屋の前に、茶色い犬が飛び込んできた。


 中型より少し小さい。


 耳がぴんと立ち、尻尾が勢いよく揺れている。


 首には赤い紐。


 明らかに飼い犬である。


「豆助!」


 後ろから子どもの声がした。


 犬、豆助。


 豆助は、まっすぐ猫待ち台へ走った。


 そして。


 乗った。


 迷いなく。


 猫待ち台に。


 犬が。


 乗った。


 沈黙。


 小春が目を丸くする。


 お鈴が口を開ける。


 銀次が「え」と言う。


 辰五郎が吹き出す。


 茶屋の主人は固まる。


 私は、静かに頭を抱えた。


 待って。


 猫待ち台。


 猫を待つ台。


 そこに犬。


 初利用者、犬。


 これは何。


 サービス設計の根幹が揺れている。


 脳内の会議室がざわつく。


 「想定利用者と異なるユーザーが初日に発生しました」

 「利用規約に犬の記載がありません」

 「名称変更の検討が必要です」

 「犬待ち台にしますか」

 「いや、それは猫側の反発を招きます」


 何の会議だ。


「豆助、降りなさい!」


 追いついてきたのは、十歳くらいの男の子だった。


 顔を真っ赤にしている。


「すみません! うちの犬が!」


 豆助は、まったく降りる気がない。


 猫待ち台の上で、満足げに座っている。


 しかも、尻尾をぶんぶん振っている。


 布が揺れる。


 揺れない籠の精神が、今、犬の尻尾で盛大に揺れている。


「大丈夫です」


 私はかろうじて言った。


「大丈夫なんですか」


 茶屋の主人が聞いた。


 わからない。


 正直、わからない。


 だが、ここで「犬は想定外なので駄目です」と言うのも違う気がする。


 豆助は、明らかに気に入っている。


 台は壊れていない。


 布も、まだ大丈夫そうだ。


 ただ、猫待ち台としての面目は、開始三秒で犬に奪われた。


 しるべがここにいなくてよかった。


 いたら、どんな顔をしただろう。


 いや、たぶん無視する。


 猫はそういうものだ。


「若旦那」


 小春が小さく言った。


「豆助、気に入っていますね」


「そうですね」


「猫待ち台なのに」


「そこは今、言わないでください」


 男の子は、豆助の首紐を引いた。


「豆助、降りて。猫の台だって」


 豆助は降りない。


 むしろ伏せた。


 完全に長期戦の姿勢である。


「すみません、本当に」


 男の子は泣きそうだった。


 私はしゃがんで、男の子に言った。


「豆助は、この台が好きなんですね」


「たぶん」


「いつも、どこで寝ていますか」


「家の土間の隅です。でも、硬いから、たまに座布団に乗って怒られてます」


 なるほど。


 犬にも、居場所がいる。


 当たり前だ。


 猫だけではない。


 人だけでもない。


 犬にも、休める場所がある方がいい。


 しかし、今ここでそれを認めると、猫待ち台の名前がまた揺れる。


 いや、揺れていいのか。


 提灯も、人の心も、揺れて戻ればいいと言ったばかりではないか。


「茶屋さん」


「へい」


「この台、猫だけではなく、犬も休めるようです」


「見りゃわかります」


「ですよね」


 茶屋の主人は豆助を見て、しばらく考えた。


 そして、ふっと笑った。


「まあ、猫が来る前に犬が来たってだけで、足は止まったねえ」


 確かに。


 すでに通りには人が数人、足を止めている。


「犬だ」


「かわいい」


「猫待ち台なのに犬が乗ってる」


 子どもたちが笑っている。


 老人も笑っている。


 女性客も足を止めている。


 茶屋の主人は、その人たちへ向かって声を上げた。


「草餅、ありますよ。猫も犬も待ってる茶屋ですよ」


 うまい。


 切り替えが早い。


 商売人である。


 母親らしき女性が笑って、草餅を二つ買った。


 職人が茶を一杯頼んだ。


 男の子は、まだ申し訳なさそうにしている。


「若旦那、本当にいいんですか」


「はい」


「猫の台なのに」


「使ったのが犬なら、犬にも意味があったのでしょう」


「意味?」


「豆助が座ったことで、人が足を止めました」


 男の子は豆助を見た。


 豆助は得意げである。


 いや、たぶん何も考えていない。


 ただ座っているだけだ。


 だが、ただ座っているだけで、茶屋に客を呼んだ。


 猫と同じである。


 かわいいは、種族を問わず統治能力が高い。


「ただし」


 私は小春を見た。


「犬が乗るなら、布は少し丈夫にした方がいいですね」


「はい。爪が当たりますから」


「洗いやすさも必要です」


「猫より汚れやすいかもしれません」


 小春が冷静に言った。


 豆助の足を見る。


 少し泥がついている。


 なるほど。


 犬用は犬用で、仕様が違う。


 前世の私の中の事務担当が、また書式を作り始めようとしている。


 やめろ。


 でも必要だ。


 猫用と犬用。


 大きさ、厚み、洗いやすさ、爪への強さ。


 商品設計が勝手に広がっている。


 怖い。


 布の世界、思ったより深い。


「では、これは試作品ということで」


 私が言うと、茶屋の主人が笑った。


「猫待ち台、初日は犬に取られたって、いい宣伝になりますね」


「そこを宣伝にしますか」


「しますよ。面白いから」


 強い。


 商人は転んでも札を立てる。


 小春が少し考えた。


「名前、変えますか?」


「猫待ち台のままでいいと思います」


 私が言った。


「いいのですか」


「猫を待っていたら、犬が来た。それも含めて猫待ち台です」


「だいぶ広いですね」


「日常は、だいたい予定より広いので」


 言ってから、少しだけ自分で照れた。


 うまいことを言おうとした若旦那が出た。


 脳内の私が、座布団を一枚出そうとしている。


 やめなさい。


 ここは茶屋の前。


 しかも犬が主役である。


 その時、通りの向こうから、しるべが現れた。


 遅れて登場。


 まるで真打ちである。


 しるべは茶屋の前まで来て、猫待ち台の上の豆助を見た。


 豆助も、しるべを見た。


 通りが、静かになった。


 猫。


 犬。


 猫待ち台。


 緊張が走る。


 私の脳内では、なぜか西部劇の口笛が鳴り始めた。


 いや、ここは小江戸だ。


 でも空気は決闘である。


 豆助は尻尾を振った。


 しるべは、まったく動かない。


 見ている。


 じっと見ている。


 豆助が「わん」と小さく吠えた。


 しるべは、ゆっくり瞬きをした。


 そして。


 台には上がらなかった。


 隣の日なたへ行き、そこに座った。


 豆助は台の上。


 しるべはその隣。


 同じ日なたに、犬と猫。


 茶屋の主人が、ぽかんとした顔で言った。


「これは……いいねえ」


 いい。


 かなりいい。


 人が足を止める。


 子どもが笑う。


 茶を頼む人が増える。


 犬と猫は、互いに干渉しすぎず、同じ日なたにいる。


 理想的である。


 前世の職場の人間関係も、これくらいでよかった。


 同じ日なたにいる。


 でも、無理に仲良くしない。


 必要以上に踏み込まない。


 たまに同じ方向を見る。


 それで十分な関係がある。


「若旦那」


 小春が言った。


「もう一枚、横に敷いた方がいいですね」


「しるべ用ですか」


「はい。猫待ち台の横に、猫休み布を」


「増えましたね」


「増えました」


 茶屋の主人が笑った。


「じゃあ、それもお願いしようかな」


 追加受注。


 犬による仕様変更。


 猫による拡張。


 青柳屋の商い、現場でどんどん変わっていく。


 前世の私なら、仕様変更に悲鳴を上げていた。


 でも今は、少しだけ思う。


 現場で使われて、初めてわかることがある。


 作った側の想定通りに使われるとは限らない。


 でも、想定外に使われたからこそ、次の形が見える。


 猫待ち台は、犬に取られて、むしろ完成に近づいたのかもしれない。


 青柳屋へ戻る頃には、豆助の件はすでに町に広がっていた。


「猫待ち台に犬が乗ったんだって?」


「青柳屋さん、犬用も作るのかい?」


「うちの兎にも敷けるかね」


 待って。


 兎。


 新キャラを増やさないで。


 商品展開が広がりすぎる。


 猫、犬、兎。


 次は何だ。


 鶏か。


 鶏用の敷き布はさすがに違う。


 いや、わからない。


 この町なら誰か言い出すかもしれない。


 店に戻ると、藤兵衛が帳場で待っていた。


「若旦那」


「はい」


「犬用も、でございますか」


「まだ仮です」


「兎用の問い合わせも来ております」


「早い」


「町は狭いので」


 またそれだ。


 町、狭すぎる。


 お鈴は楽しそうに言った。


「動物布、ですかね」


「広げすぎです」


 私は即答した。


「では、休み布?」


 小春が言った。


 休み布。


 猫でも犬でも、人でも。


 少し休むための布。


 悪くない。


「しるべ布は、しるべ布のまま。茶屋の台に置くものは、休み布にしましょう」


「いいですね」


 小春が頷いた。


 藤兵衛が帳面に書く。


 休み布。


 その文字を見て、少し胸が落ち着いた。


 誰かを呼び込むためだけのものではない。


 誰かを利用するためだけでもない。


 来たものが、少し休める布。


 猫でも、犬でも、人でも。


 青柳屋の布は、少しずつそういう場所を作っている。


 夜、私は帳場で今日の出来事を書いた。


 茶屋、猫待ち台納品。

 初利用者、犬の豆助。

 しるべ、遅れて自主来店。

 犬猫、同じ日なたにて休む。

 猫休み布、追加。

 休み布、検討。


 何の帳面だ。


 もはや呉服屋というより、小さな動物園の業務日誌である。


 しかし、不思議と嫌ではなかった。


 予定した使い方と、実際の使われ方は違う。


 人も店も、そうなのかもしれない。


 私は若旦那として生まれ直した。


 けれど、私の中身は元喪女で、帳面に怯え、猫に振り回され、道を間違える。


 予定された若旦那像とは、かなり違う。


 でも、違うからこそ見えることもある。


 どうせ一度死んだ身だ。


 今度は、予定外の使われ方を、すぐに失敗と決めつけない人でいたい。


 犬が乗ったなら、犬の足跡を見ればいい。


 猫が隣に座ったなら、もう一枚布を敷けばいい。


 そうやって、町は少しずつ広がっていく。


 その時、しるべが帳場の前を横切った。


 口に何かくわえている。


「しるべ?」


 よく見ると、それは小さな紙だった。


 茶屋の草餅の包み紙。


 しるべは、それを私の前に置いた。


 まるで、今日の報告書である。


 私は紙を見た。


 しるべを見る。


 しるべは得意げだった。


「あなた、茶屋から持ってきましたね」


 にゃ。


「持ち出しは駄目です」


 にゃ。


 会話にならない。


 でも、どこか通じている気もする。


 私は草餅の包み紙を拾い、帳面の横へ置いた。


 藤兵衛が静かに言った。


「若旦那」


「はい」


「証拠品でございますな」


「事件にしないでください」


 私は帳面を閉じた。


 逃げたのではない。


 今日は、猫と犬と草餅に、商いの予定表をぐちゃぐちゃにされたのである。

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