第19話 若旦那、猫を貸してくれと言われる
しるべ布の注文が二件入った翌日、青柳屋の店先は、朝から妙ににぎやかだった。
理由は、言うまでもない。
しるべである。
白黒の猫、しるべ。
花街へ私を迷わせ、香袋の仕事を連れてきて、端切れ籠を占拠し、帳面に肉球印を押し、気づけば青柳屋の看板猫のような顔をしている猫である。
本人に看板猫の自覚はない。
ただ、そこにいる。
寝る。
伸びる。
尻尾を動かす。
たまに目を開ける。
気が向いた時だけ、にゃあと鳴く。
それだけで、通りの子どもが足を止める。
女性客が笑う。
職人が「おう、今日もいるな」と声をかける。
お鈴は毎朝、しるべ用の水皿を出すようになった。
お滝は「魚はやらないよ」と言いながら、たまに妙にきれいに骨を外した小魚を置いている。
藤兵衛は「帳場には上げぬように」と言いながら、しるべが帳場の端を歩くたびに少し道を空けている。
青柳屋、完全に猫に侵食されている。
これはもう、ゆるやかな占領である。
前世の私なら、こういう状況を見て思う。
かわいいは、統治能力が高い。
法律も規則も会議も飛び越えて、いつの間にか場所を取る。
猫、恐ろしい。
「若旦那!」
お鈴が店先から駆け込んできた。
「今度は何です」
「しるべに、お客様です!」
「しるべに?」
「はい。青柳屋ではなく、しるべに」
ついに来た。
店より猫に客がつく時代。
いや、前世でもあった。
看板犬のいる店。
看板猫のいる宿。
猫駅長。
猫が寝ているだけで経済が動く。
人間が汗水たらして会議をしている横で、猫は丸くなって地域振興をしている。
理不尽だが、実績がある。
店先へ出ると、そこには隣町の茶屋の主人が立っていた。
丸顔で、人のよさそうな男である。
だが、その目はしるべを見ている。
完全に商売人の目だった。
「青柳屋の若旦那さん」
「はい」
「その猫、少し貸してもらえませんかね」
来た。
直球。
猫レンタル依頼。
私の脳内で、役場時代の窓口ベルが鳴った。
新規相談案件です。
分類不能。
担当課、猫商工観光係。
ない。
そんな係はない。
「貸す、とは」
「うちの茶屋、最近ちょいと客足が鈍くてね。しるべが店先にいてくれたら、子どもや女衆が足を止めるだろうと思って」
なるほど。
言っていることはわかる。
しるべは確かに人の足を止める。
青柳屋の店先も、それでにぎやかになった。
だが。
猫を貸す。
その言葉に、少し引っかかった。
しるべは商品ではない。
いや、商いにはなっている。
しるべ布も生まれた。
客も増えた。
しかし、しるべ自身を貸し出すとなると、何かが違う気がする。
「しるべ本人の意思が」
言いかけて、自分で止まった。
本人。
猫に本人。
間違ってはいない。
間違ってはいないが、言葉が急に重い。
茶屋の主人は笑った。
「猫の意思ですかい」
「猫にも、行きたい場所と行きたくない場所があるでしょう」
「そりゃまあ、そうでしょうが」
お鈴が横で力強く頷いている。
「しるべは自由です」
お鈴、猫側の弁護士みたいになっている。
すると、お滝が台所から顔を出した。
「無理に連れてったって、逃げるだけだよ」
正論。
猫は連れて行けるものではない。
こちらが連れて行ったと思っても、猫がそう思っていなければ終わりである。
藤兵衛も帳場から静かに言った。
「それに、他所様の店先で粗相があっても困ります」
現実。
番頭は強い。
かわいいの先にある実務を忘れない。
茶屋の主人は困ったように頭をかいた。
「いや、無理ならいいんです。ただ、うちにも何か人が足を止めるものが欲しくてね」
その声には、少し疲れがあった。
客足が鈍い。
それは商人には堪える。
売れない日が続くと、店先の空気まで薄くなる。
人が来ない店は、店そのものが少し寂しそうに見えてくる。
前世でも、シャッターの降りた商店街を見ると、胸の奥が少し沈んだ。
人の気配がない場所は、建物より先に空気が老ける。
「茶屋さん」
「へい」
「しるべを貸すことは、少し考えさせてください」
「やっぱり駄目ですか」
「駄目というより、しるべは貸し物ではありません」
しるべは店先で、大きくあくびをした。
まるで自分の権利が守られて当然、という顔である。
腹が立つ。
少し。
でも正しい。
「ただ」
私は続けた。
「茶屋さんの店先に、人が足を止める理由を作ることはできるかもしれません」
「理由?」
「はい。しるべそのものではなく、しるべ布を置くのはどうでしょう」
茶屋の主人が首を傾げた。
「猫はいないのに、猫の布?」
「猫の布というより、猫が好きな布です。店先に置いておけば、近所の猫が寄るかもしれません」
「寄りますかね」
「わかりません」
「若旦那、正直ですね」
「わからないことは、わからないので」
でも、猫が来なくても、布は置ける。
しるべ布の見本。
端切れを使った小さな敷き布。
茶屋の色に合わせて作る。
そこに、小さな札をつける。
猫も休める茶屋。
悪くない。
「それと」
小春が、いつの間にか店先に来ていた。
手には香袋の包みを持っている。
「茶屋なら、座布団の端切れや、湯呑みを置く小さな敷き布もできます」
「湯呑みの敷き布?」
茶屋の主人が目を丸くした。
「はい。店の色に合わせて、小さなものを」
小春が続ける。
「お茶を置いた時に、少しきれいに見えると思います」
なるほど。
猫を貸すのではなく、猫から生まれた布の使い方を、茶屋の店先へ移す。
猫そのものではなく、猫が止めた足を、布が少し受け継ぐ。
「いいですね」
私が言うと、小春は少しだけ笑った。
「しるべのおかげで、布の行き先が増えましたね」
「本人は何もしていませんけどね」
しるべは、またあくびをした。
絶対に聞いている。
「じゃあ、うち用に作ってもらえますか」
茶屋の主人が言った。
「もちろんです。ただ、しるべを貸すのとは違って、布には布の値がつきます」
「そりゃそうだ。作ってもらうんだから」
その返事は、思ったよりあっさりしていた。
少し安心した。
最近、値をつけることに前より慣れてきた気がする。
でも慣れすぎるのは怖い。
値を言う時には、少しだけ緊張が残っていた方がいい。
相手の財布も、こちらの手間も、両方を忘れないために。
「では、茶屋の色を見に伺います」
小春が言った。
「今からでも?」
「はい」
茶屋の主人は嬉しそうに頷いた。
私は少し迷った。
小春と茶屋へ。
しるべはどうする。
店番。
いや、猫に店番を任せるわけにはいかない。
前回、それで店番を奪われたばかりだ。
すると、お鈴が胸を張った。
「若旦那、しるべは私が見ています」
「見ていられますか」
「たぶん」
「たぶん」
「猫なので」
最強の言い訳である。
猫なので。
だいたいのことが、それで片づく。
私と小春は、茶屋へ向かった。
今回は道を間違えなかった。
藤兵衛作の道順表も持っている。
花街ではない。
茶屋である。
安全。
たぶん安全。
茶屋は、青柳屋から少し離れた通りの角にあった。
古いが、悪い店ではない。
軒先には草餅の札。
奥に小さな座敷。
ただ、たしかに少し寂しい。
店の前を人は通る。
だが、足を止めない。
通り過ぎる店になっている。
「昔は、ここももう少しにぎわっていたんですがね」
茶屋の主人が言った。
「祭りの時は忙しい。でも普段の日が、どうにも」
普段の日。
それは難しい。
祭りのような派手な理由があれば、人は来る。
けれど日常に足を止めてもらうには、小さな理由が必要だ。
しるべのような猫がいれば、確かに理由になる。
でも、猫を無理に置くのは違う。
「ここ、日当たりがいいですね」
小春が店先を見て言った。
午後の光が、斜めに入る場所。
たしかに、猫が好きそうだ。
「ここに、小さな台を置いて、しるべ布を敷くのはどうでしょう」
「猫が来るかな」
「来なかったとしても」
小春は少し考えた。
「お客様が荷物を置いたり、子どもが腰かけたりできます」
「猫用なのに?」
「猫も人も、少し休める場所です」
いい。
それはいい。
しるべそのものを連れてくるのではなく、しるべが青柳屋にもたらした「足を止める感じ」を移す。
私は店先を見た。
「名前をつけましょう」
茶屋の主人が少し笑った。
「また名前ですか」
「名前があると、選びやすくなります」
「では、猫休み台?」
「そのまますぎます」
「猫待ち台」
小春が言った。
「猫を待つ台ですか」
「はい。でも、人も待てる」
猫待ち台。
悪くない。
少し間が抜けていて、少しやさしい。
「採用しましょう」
私が言うと、小春は嬉しそうに笑った。
茶屋の主人も頷いた。
「じゃあ、うちは猫待ち台で」
決まった。
青柳屋、猫待ち台を受注。
何屋なのか。
呉服屋である。
たぶん。
いや、布が関わっているから、まだ大丈夫。
脳内の私が、営業品目の欄を見ている。
反物。
仕立て。
巾着。
香袋。
しるべ布。
猫待ち台。
増えすぎである。
しかし、全部つながっている。
布が、人や猫の居場所を少し作っている。
小春は、茶屋の座布団の色を見た。
「この茶色に、紺の端切れを合わせると落ち着きます」
「赤は派手ですかね」
「少しだけ入れると、草餅の札と合うと思います」
「なるほどねえ」
茶屋の主人は、楽しそうに聞いている。
店の色を誰かと考えるだけで、少し店が息を吹き返すように見えた。
前世でも、部屋の模様替えをすると少し気分が変わった。
何も解決していない。
でも、座る場所や置くものが少し変わると、明日を迎える気持ちが少し変わる。
店も、たぶん同じだ。
そこへ、近所の老人が通りかかった。
「お、茶屋の旦那。何してんだ」
「猫待ち台を作ってもらうんだ」
「猫待ち台?」
「猫も人も休める台だとよ」
老人は笑った。
「そりゃいい。俺も休めるか」
「猫より先なら」
「じゃあ、猫に譲らにゃな」
そのやり取りで、通りの空気が少し緩んだ。
これだ。
店先に必要なのは、ただ目立つものではない。
会話のきっかけだ。
人が一言を置いていける場所。
猫待ち台は、そうなるかもしれない。
青柳屋へ戻ると、事件が起きていた。
店先に、子どもたちが集まっている。
お鈴が慌てている。
藤兵衛が眉を押さえている。
お滝が笑っている。
そして、しるべはいない。
「しるべは?」
私が聞くと、お鈴が半泣きで言った。
「茶屋の方へ行きました!」
「茶屋?」
「はい。若旦那たちが行った方へ、あとから」
遅い。
なぜ今。
しるべ、結局茶屋へ行ったのか。
私たちが猫待ち台の話をして戻った後に。
完全に自由行動である。
いや、もしかして。
しるべは、貸されるのは嫌だが、自分で行くのはよいのか。
猫の意思、強い。
私はすぐに茶屋へ戻った。
すると、茶屋の店先にしるべがいた。
まだ台はない。
なのに、ちょうど日当たりのいい敷居の上で丸くなっている。
茶屋の主人は、ぽかんとしていた。
近所の老人も笑っている。
「若旦那さん」
茶屋の主人が言った。
「来ました」
「来ましたね」
「貸してもらったわけじゃない」
「はい」
「勝手に来ました」
「それが、いちばんしるべらしいです」
しるべは、こちらを見た。
またあの顔だ。
まるで「段取りが遅い」とでも言いたげな顔。
腹が立つ。
少し。
でも、完敗である。
茶屋の前で、子どもが一人、足を止めた。
「猫だ」
続けて、母親も足を止める。
「あら、かわいい」
茶屋の主人が、慌てて言った。
「草餅、ありますよ」
母親が笑った。
「じゃあ、ひとつ」
売れた。
しるべ、茶屋でも即成果。
営業部長、出張先でも強い。
私は心の中で白旗を上げた。
猫を貸すのではない。
猫が行きたい場所へ行く。
人間は、その場所に布を敷き、少し居やすくする。
それくらいが、ちょうどいいのかもしれない。
「茶屋さん」
「へい」
「猫待ち台、やはり作りましょう」
「お願いします」
「ただし、しるべが来る保証はありません」
「わかってます」
茶屋の主人は笑った。
「でも、来たくなる場所にはしたい」
その言葉に、私は頷いた。
来させるのではなく、来たくなる場所にする。
人も猫も、たぶんそこは同じだ。
夜、青柳屋へ戻ると、しるべは何食わぬ顔で店先に戻っていた。
出張を終えたような顔で、しるべ布の上に丸くなっている。
私は帳面を開いた。
茶屋、猫待ち台一件。
しるべ布応用。
しるべ、茶屋へ自主出張。
草餅、一つ売れる。
書いていて、途中で手が止まった。
自主出張。
猫が。
意味がわからない。
だが、今日はそれでいい気がした。
商いは、全部をこちらの思い通りに動かすことではない。
来たいと思える場所を作ること。
足を止めてもらう理由を、無理なく置くこと。
その結果、猫が来るかもしれない。
人も来るかもしれない。
何も来ない日もあるかもしれない。
でも、場所を整えることには値がある。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、誰かを無理に連れてくるより、来たくなる場所を作れる人でありたい。
そう思ったところで、しるべが帳場へ上がった。
「しるべ」
私が言うと、しるべは帳面の上ではなく、今日届いた茶屋の草餅の包みの上に座った。
「それは食べ物です」
しるべは動かない。
お滝が後ろで笑った。
「若旦那、猫に先に席を取られたね」
脳内のスピッツが、猫になりたい看板をそっと出してくる。
いや、なりたくない。
今は人間として草餅を食べたい。
私は静かに包みを見つめた。
逃げたのではない。
今日は、猫におやつの優先権を奪われたのである。




