第18話 若旦那、猫の通り道に敗北する
しるべが青柳屋に居着いてから、三日が経った。
たった三日。
されど三日。
猫という生き物は、三日あれば店の間取りを覚える。
そして、人間より早く、どこが一番偉そうに見える場所かを理解する。
青柳屋の店先には、すでにしるべの定位置が三つあった。
一つ目。
暖簾の下。
通りから一番よく見える場所である。
客寄せ効果はある。
ただし、本人に客寄せの自覚はない。
二つ目。
端切れ籠の上。
これは困る。
毛がつく。
しかし、端切れ籠の柔らかさが、しるべ的にはかなり高評価らしい。
三つ目。
帳場の端。
最悪である。
商家の心臓部に猫がいる。
しかも、ときどき帳面に前足を乗せる。
昨日など、藤兵衛が丁寧に書いた「しるべ布注文一件」の横に、肉球の薄い跡がついていた。
しるべ本人による承認印である。
いや、認めていない。
猫による決裁権の侵害である。
「若旦那」
藤兵衛が、静かに言った。
「しるべを帳場へ上げぬ方法を考える必要がございます」
「はい」
「帳面に毛がつきます」
「はい」
「反物にも近づきます」
「はい」
「しかも、こちらの注意を聞きません」
「猫ですから」
「猫ですな」
二人で、しるべを見た。
しるべは帳場の端に座り、こちらを見返している。
何の反省もない。
むしろ、こちらが何を騒いでいるのかわからない、という顔だ。
前世の職場でこの顔をする人間がいたら、かなり腹が立つ。
でも猫がやると、少し許される。
理不尽である。
「まず、立入禁止の札を作りましょう」
私が言うと、お鈴がぱっと顔を上げた。
「猫にですか?」
「はい」
「読めますか?」
「読めないでしょうね」
「では、なぜ」
「人間側の気持ちの整理です」
お鈴は、なるほどと言いかけて、途中で首を傾げた。
わかる。
私も自分で言っていて、少し不安になっている。
だが、前世でもそうだった。
「関係者以外立入禁止」と書いても、入る人は入る。
「ここに物を置かないでください」と書いても、置く人は置く。
それでも札を出す。
札とは、世界への祈りである。
守られるとは限らない。
しかし、書かずにはいられない。
「では、私が書きます!」
お鈴が元気よく言った。
半刻後、帳場の横に札が立った。
猫、帳場へ入るべからず。
字はきれいだった。
しかし、しるべはその札の前を通り、何の迷いもなく帳場へ上がった。
そして札の横で丸くなった。
完敗である。
早い。
試合開始から十秒である。
脳内の実況が叫んでいる。
青柳屋、初回から被弾。
猫、ルールブックを読まない。
若旦那、マウンド上で遠い目。
「若旦那」
お鈴が言った。
「札、効きません」
「そうですね」
「しるべ、字が読めないんでしょうか」
「たぶん、読めたとしても従わないと思います」
猫の強さはそこにある。
理解と服従が別である。
この世界の支配者に近い。
すると、お滝が台所から出てきた。
「そりゃ、入るなって言うから入るんだよ」
「お滝さん、それは人間の子どもと同じでは」
「猫も子どもも、だいたい同じだよ。入ってほしくない場所の代わりに、入っていい場所を作りゃいい」
また実務で殴られた。
強い。
台所の経験値は、だいたい商学より強い。
「入っていい場所」
私はしるべ布を見た。
昨日、端切れで作った猫用の敷き布。
しるべは気に入っている。
ただし、その時々で気分が変わる。
敷き布にいる時もあれば、帳場にいる時もある。
つまり、しるべ布だけでは足りない。
「では、帳場に上がらないよう、別の場所にしるべ布を置きましょう」
「どこへ?」
お鈴が聞く。
「しるべが、帳場より魅力を感じる場所です」
その言葉を言った瞬間、私は少し絶望した。
猫にとって魅力的な場所。
日当たり。
高さ。
柔らかさ。
人間が困る度合い。
最後が大きい。
猫は、人間が困る場所をよく知っている。
前世でもそうだった。
ノートパソコンの上。
畳んだ洗濯物の上。
読んでいる本の上。
今まさに必要な書類の上。
猫はそこに乗る。
なぜなら、そこに人間の注意が集まっているから。
猫は、人間の注意の上に寝る生き物である。
「帳場の近くで、帳面から離れた場所」
小春が言った。
いつの間にか来ていた。
手には、若葉さん用の香袋の包みがある。
「おはようございます」
「おはようございます」
「猫会議ですか」
「猫会議です」
小春はしるべを見て、少し笑った。
「しるべ、また帳場にいますね」
「ええ。商家の秩序を試してきます」
「では、ここはどうでしょう」
小春は店先の少し高い台を指した。
反物の見本を置く台である。
通りからよく見える。
日も当たる。
人の気配もある。
「そこは、見本布を置く台です」
藤兵衛が言った。
「でも、今日使う見本を少し横にずらせば、しるべ布を置けます」
「猫を店先の見本台に?」
「はい。看板猫なら、店先にいた方がいいのでは」
看板猫。
言ってしまった。
小春が言ってしまった。
お鈴の目が輝く。
「看板猫!」
「お鈴さん、声が大きいです」
「だって、かわいいです!」
しるべは、帳場の端で片目だけ開けた。
自分の話だとわかっているのかもしれない。
それにしても、看板猫。
青柳屋は呉服屋である。
しかし、ここ最近の商いは、揺れない籠、あと祭り市、香袋、しるべ布と、かなり横へ広がっている。
ここで看板猫が加わっても、もはや驚くべきではないのかもしれない。
いや、驚こう。
一応、驚く感性は持っていたい。
「試しに置いてみましょう」
私が言うと、小春がしるべ布を台の上に敷いた。
しるべは、すぐには動かなかった。
猫は、人間が期待している時ほど動かない。
こちらが期待をやめた頃、急に動く。
そして、まるで自分の意思だけで決めたような顔をする。
しばらくして、しるべはゆっくり立ち上がった。
帳場から降りる。
札の前を通る。
店先へ向かう。
お鈴が息を止める。
小春も静かに見守る。
藤兵衛も筆を止めている。
何だこれは。
猫一匹の移動に、青柳屋総出である。
しるべは店先の台へ飛び乗った。
しるべ布の上に乗り、くるりと一周して、丸くなる。
成功。
成功である。
脳内の私が、思わずファンファーレを鳴らした。
いや、まだ早い。
猫は気まぐれ。
勝ったと思った瞬間が一番危ない。
競艇で言えば、最終ターンを回って独走かと思ったら、後ろから差しが来るやつである。
油断するな。
猫の逆転劇は、いつも突然だ。
「かわいい……」
お鈴がつぶやいた。
その声につられて、通りの子どもが足を止めた。
「しるべだ!」
「あ、ほんとだ!」
「今日、店番してる!」
あっという間に、子どもたちが集まった。
おみつも来た。
隣には、知らない男の子もいる。
「しるべ、店番?」
「そうです」
お鈴が胸を張って答えた。
「ただし、急に触ってはいけません」
「なんで?」
「しるべにも気分があります」
「猫なのに?」
「猫だからです」
お鈴、成長している。
猫対応係として、かなり板についてきた。
すると、通りがかりの女性客が足を止めた。
「まあ、かわいい猫だこと」
「しるべと申します」
私が言うと、女性客は笑った。
「青柳屋さん、猫まで店に出すようになったのね」
「出しているというより、出られています」
「ふふ。面白い若旦那さん」
まただ。
また「面白い若旦那」評価が積み上がっている。
このままでは、青柳屋の若旦那像が、町の中でどんどん柔らかくなっていく。
いや、それが悪いわけではない。
だが、老舗の若旦那としての威厳はどこへ。
脳内の私が、威厳を探して棚を開けている。
ない。
ここにもない。
帳場にもない。
しるべ布の下にもない。
たぶん猫が持っていった。
女性客は、店先の端切れを見た。
「この猫ちゃんの敷いている布、かわいいわね」
「しるべ布と申します」
お鈴がすかさず言った。
早い。
営業が早い。
「しるべ布?」
「端切れを縫い合わせた、猫用の敷き布です。猫の大きさや好みに合わせて作れます」
待って。
説明が仕上がっている。
お鈴さん、いつの間に販売文句を。
私は横で少し焦った。
まだ値段も安定していない。
納期も決まっていない。
品質基準もない。
前世の私の中の事務担当が、頭を抱えている。
商品化前に営業が走るな。
チラシも約款もない。
返品規定どうする。
猫が気に入らなかった場合、誰が責任を取る。
責任。
猫相手に。
無理である。
「うちにも猫がいるの。作っていただけるかしら」
女性客が言った。
受注二件目。
早い。
しるべ、店先で寝ているだけで営業成績を上げている。
どういうことだ。
人間の努力とは。
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
「ただ、端切れを使うので、同じ柄は作れません。猫によって好みもありますから、もしよければ、普段その子が好きな布の厚さや色を教えてください」
「まあ、そんなことまで」
「猫にも好みがありますので」
言った瞬間、自分で思った。
何を真面目に語っているのか。
猫の好みに寄り添う若旦那。
でも、商いとはそういうことなのかもしれない。
相手を見る。
相手の使い方を見る。
使う本人が猫でも、それは同じなのかもしれない。
女性客は嬉しそうに頷いた。
「では、明日、うちの猫がよく寝ている布を持ってくるわ」
「お待ちしております」
女性客が去ったあと、藤兵衛が静かに言った。
「若旦那」
「はい」
「猫にも問診が必要になるとは」
「問診と言わないでください」
「では、聞き取り」
「それも急に役場感が出ます」
猫用敷き布制作に係る事前聞き取り票。
やめよう。
絶対にやめよう。
私は異世界に来てまで様式を増やしたくない。
だが、帳面には必要だ。
猫の大きさ。
好きな寝場所。
布の厚さ。
洗いやすさ。
書き出すと、普通に項目ができてしまう。
脳内の役場職員が、にこやかに書式を整え始めた。
やめろ。
フォントを揃えるな。
「若旦那、顔が遠いです」
小春が言った。
「少し、前世の事務仕事が」
「ぜんせ?」
「いえ、以前の事務仕事が」
危ない。
猫のせいで口が緩んでいる。
昼になる頃には、しるべの周りに人が集まりすぎた。
子ども。
女性客。
職人。
通りすがりの老人。
しるべは、動じない。
寝ている。
たまに尻尾を動かす。
それだけで、人が笑う。
すごい。
存在だけで場を作っている。
前世の私なら、会議で一時間話しても場を温められないことがあったのに。
猫、五秒。
この差は何なのか。
「若旦那」
お鈴が慌てた声を出した。
「今度はしるべがいません!」
「え」
見ると、店先のしるべ布は空だった。
まただ。
猫、突然の離席。
勤務態度が自由すぎる。
「どこへ」
「さっきまでここに」
「反物の棚は?」
「いません」
「帳場は?」
「いません」
「台所は?」
お滝が顔を出した。
「魚の匂いにつられて来たけど、追い返したよ」
「追い返したんですか」
「魚は渡さないよ」
お滝、強い。
猫にも媚びない。
その時、店の奥から悲鳴が聞こえた。
「きゃっ!」
小春の声だった。
私は慌てて奥へ走った。
そこは、香袋用の布と香を置いている小部屋だった。
小春が立ち尽くしている。
床には、淡い青の布。
紺の布。
そして、しるべ。
しるべは、香袋用の布の上で、うっとりした顔をしていた。
「しるべ!」
私が声を上げると、しるべは顔を上げた。
にゃ。
違う。
にゃ、ではない。
ここは香袋用の布である。
猫用ではない。
「毛が……」
小春が小さく言った。
布には、しるべの毛が少しついていた。
商品にはできない。
少なくとも、白菊さんに納める香袋には使えない。
「すみません」
私は小春に頭を下げた。
「若旦那が謝ることでは」
「いえ、青柳屋の猫ですので」
言ってしまった。
青柳屋の猫。
口に出した瞬間、しるべが少し得意そうな顔をした。
いや、気のせいかもしれない。
でもたぶん、気のせいではない。
小春は布を拾い上げた。
「これは香袋には使えませんね」
「弁償します」
「大丈夫です。端切れなので」
「小春さん」
私は少し強めに言った。
「端切れでも、小春さんの仕事のための布です」
小春は黙った。
それから、小さく頷いた。
「では、別の形で使いましょう」
「別の形?」
「しるべの香り布」
「しるべの香り布」
また新しい何かが生まれようとしている。
小春は少し考えながら言った。
「猫が好む香りはわかりませんが、人の香りが強すぎる布は嫌がるかもしれません。これは、香袋用の布だったから、少し香が移っています。でも、しるべは気に入ったようです」
たしかに。
しるべは、香の移った布の上で満足げに座っている。
「猫用の敷き布にも、強すぎない香りを少しだけ移すのはどうでしょう」
「猫に香りは強すぎませんか」
「だから、ほんの少し。人間用ではなく、部屋の匂いを整える程度に」
私は少し考えた。
猫が寝る場所。
人が通る店先。
そこに、強すぎない香り。
白菊さんの香袋と、しるべ布がつながる。
これは、ありかもしれない。
ただし、猫の体に悪くないかは注意が必要だ。
この世界に獣医の香料基準があるかはわからない。
前世の知識でも、猫に強い香りはよくなさそうだ。
「まずは、人間の部屋用にしましょう」
私は言った。
「猫用ではなく、店先用の小さな香り布。猫が寝ている近くに置くのではなく、店の隅に置く」
「なるほど」
「しるべが乗った布は、見本にはできませんが、発想の元にはなりました」
小春は笑った。
「しるべ、また仕事を増やしましたね」
「増やされました」
私はしるべを見た。
「あなたは本当に、何もしないのに仕事だけ増やしますね」
しるべは目を細めた。
その顔は、完全に上司だった。
夕方、青柳屋の店先には、しるべ布の注文札が出た。
小さく、こう書かれている。
しるべ布、承ります。
端切れで作る、猫のための小さな敷き布。
同じ柄は、できません。
猫の好みは、できるだけ聞きます。
最後の一行を見て、藤兵衛が言った。
「若旦那」
「はい」
「猫の好みを聞く店になりましたな」
「なりましたね」
「青柳屋は、どこへ向かっているのでしょう」
「私にも、時々わかりません」
でも、悪くない。
反物だけを見る店ではなく、布の行き先を見る店になっている。
晴れ着。
巾着。
香袋。
しるべ布。
布は、人だけでなく猫の下にも行く。
それもまた、布の役目なのだろう。
夜、私は帳面に今日の出来事を書いた。
猫、帳場侵入。
立入禁止札、効果なし。
しるべ布、店先へ移動。
注文二件。
香袋用布に毛。
しるべ、決裁権に続き商品開発にも介入。
書いている途中で、頭が痛くなってきた。
商品開発に介入する猫。
そんな文言を帳面に書く日が来るとは思わなかった。
前世の私も、まさか転生先で猫用品の導線設計をするとは思っていなかった。
人生は本当に読めない。
猫の動線は、もっと読めない。
だが、読めないからこそ、見えることもある。
人間が作った通り道だけが、正しい道ではない。
猫が勝手に歩いたあとに、新しい商いが落ちていることもある。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、少しくらい予定外の足跡にも、目を向けてみたい。
ただし。
帳面の上だけは、やめてほしい。
そう思った瞬間、しるべが帳場に飛び乗った。
「しるべ」
私が低い声を出す。
しるべは私を見た。
そして、帳面ではなく、道順表の上に座った。
藤兵衛が静かに言った。
「若旦那、明日の道順表が」
「……今日は、そこですか」
しるべは尻尾をゆらした。
私の脳内で、渡辺真知子がまた「迷い道」の看板を持って立ち上がった。
やめて。
明日も迷う気がする。
私は静かに帳面を閉じた。
逃げたのではない。
今日は、猫に道を塞がれたのである。




