第17話 若旦那、猫に店番を奪われる
翌朝、猫はまだいた。
青柳屋の店先。
暖簾の下。
日当たりのいい、いかにも自分の場所ですという顔で、白黒の猫が丸くなっている。
昨日、私を花街へ導いた疑いが濃厚な猫である。
導いたというか、誘導したというか。
少なくとも、紐屋とはまったく逆方向へ私を連れていった張本人である。
いや、張本猫である。
猫は何も悪びれていない。
むしろ、こちらを見て、ゆっくり瞬きをした。
何だその顔は。
まるで「結果的に仕事につながったでしょう」と言っているようではないか。
たしかに、花街で白菊さんと出会い、香袋の仕事につながった。
小春は、自分の手に値をつけることを少しずつ覚えた。
若葉さん用の香袋も増えた。
青柳屋の帳面には、また新しい欄が増えた。
全部、この猫のせいとも言える。
いや、功績とも言える。
判断が難しい。
前世の職場なら、こういう相手は評価面談で揉める。
成果は出している。
だが、プロセスが怪しい。
協調性はない。
報連相もしない。
猫である。
「若旦那」
お鈴が、店の奥から顔を出した。
「その子、まだいますね」
「いますね」
「飼うんですか?」
「まだ決めていません」
「でも、もうくつろいでます」
「猫の方が先に決めているようです」
猫は、片耳だけ動かした。
聞いている。
絶対に聞いている。
お滝が台所から出てきた。
「朝からそこにいるなら、腹減ってるんじゃないかい」
「お滝さん、餌をあげると居着きます」
「もう居着いてるよ」
正論。
台所の正論は、切れ味が包丁に近い。
お滝は小皿に少しだけ魚のほぐし身を乗せ、猫の前へ置いた。
猫は、すぐには食べなかった。
一度こちらを見た。
それから、ゆっくり皿に顔を近づける。
何だその間。
毒見を疑っているのか。
いや、青柳屋の若旦那を花街へ誘導した猫に、こちらが警戒される筋合いはない。
猫は少し匂いを確かめ、ようやく食べ始めた。
お鈴が嬉しそうに手を叩く。
「かわいい」
「かわいいですね」
悔しいが、かわいい。
白黒の模様で、鼻のところに小さな黒い点がある。
目つきは悪い。
しかし、そこが妙に味になっている。
前世の私は、猫動画に何度も負けた。
寝る前に一匹だけ見るつもりが、気づけば三十分消えている。
猫という存在は、時間泥棒である。
しかも反省しない。
「名前、どうしましょう」
お鈴が言った。
「飼うとはまだ」
「でも、呼ぶ名がないと不便です」
「たしかに」
藤兵衛が帳場から静かに言った。
参戦してきた。
番頭まで猫に関心を持ち始めている。
「白黒ですし、ぶち」
お鈴が言う。
「普通すぎるねえ」
お滝が言う。
「花街に案内したのだから、案内」
藤兵衛が言った。
「堅いです」
私が即答した。
猫に「案内」は堅い。
役所の窓口表示みたいである。
総合案内猫。
悪くはないが、かわいさが事務的すぎる。
「道を教える猫ですから、しるべ、はどうですか」
お鈴が言った。
「しるべ」
私は猫を見た。
猫は魚を食べ終え、前足をなめている。
道しるべ。
たしかに、道は示した。
ただし、こちらの目的地ではなかった。
だが、目的地ではない場所に、必要な仕事があったのも事実である。
「悪くありませんね」
私が言うと、猫がこちらを見た。
にゃ、と鳴いた。
まるで採用通知を受け取ったような顔だった。
「では、しるべ」
お鈴が嬉しそうに呼んだ。
「しるべちゃん」
猫は返事をしなかった。
採用された途端、勤務態度が悪い。
しかし、それが猫である。
午前中、しるべは店先に居座った。
青柳屋の暖簾の下で、丸くなったり、伸びたり、通りを見たりしている。
驚いたことに、客が少し増えた。
まず、子どもたちが来た。
「猫だ!」
「しるべって言うんだって!」
「触っていい?」
「急に触ると怒りますよ」
お鈴が慌てて止める。
おみつも来た。
淡い青の巾着を持っている。
「若旦那、この猫、花街の猫?」
「たぶん、町の猫です」
「町の猫?」
「どこか一つの店のものではなく、町を歩いている猫です」
「じゃあ、青柳屋の猫じゃないの?」
難しい質問だった。
猫は誰のものなのか。
飼えば青柳屋の猫。
だが、本人がそう思っているかは不明。
猫に所有の概念を問うのは難しい。
むしろ猫の方が、人間を自分の縄張りに置いている可能性がある。
前世のネットではよく見た。
人は猫を飼っているつもりで、猫に住まわせてもらっている説。
今の私は、その説に少し傾いている。
「青柳屋に、よく来る猫です」
私は言った。
「ふーん」
おみつは納得したような、していないような顔で、しるべを見た。
「しるべ、巾着見る?」
しるべは見なかった。
おみつは少しむっとした。
「見てよ」
しるべは、ゆっくり尻尾だけ動かした。
強い。
猫、営業対応ゼロ。
それでも子どもたちは喜んでいる。
青柳屋の店先が、少しにぎやかになった。
そこへ、小春がやって来た。
手には、若葉さん用の香袋の試し布を持っている。
「おはようございます」
「おはようございます」
「猫、まだいたんですね」
「しるべという名前になりました」
「しるべ」
小春は、猫の前にしゃがんだ。
「昨日は若旦那を迷わせたんですよね」
しるべは、小春を見た。
そして、ゆっくり瞬きをした。
小春は笑った。
「悪びれていませんね」
「全く」
「でも、仕事につながりました」
「そこが困ります」
小春は、しるべの頭をそっとなでた。
しるべは逃げなかった。
お鈴が小さく声を上げる。
「小春さん、すごい」
「猫にも手がいいんですね」
私が言うと、小春は少しだけ頬を赤くした。
「若旦那、またそういうことを」
「褒めたつもりでした」
「だから困るんです」
何度目だろう、このやり取り。
しかし、少しずつ慣れてきた。
慣れてきたのが、また少し怖い。
脳内の私が、恋愛方面の地図を広げようとする。
やめろ。
私は花街から帰ってきたばかりだ。
これ以上、心の道を間違えるな。
その時、しるべが突然立ち上がった。
そして、店の奥へ入っていく。
「あっ、しるべ!」
お鈴が追いかける。
私も慌てて続いた。
猫の足は速い。
しかも、ためらいがない。
青柳屋の中を、完全に自宅のように歩く。
反物の棚。
帳場の横。
台所の前。
藤兵衛が筆を止めた。
「若旦那」
「すみません」
「猫が帳場へ」
「すぐに」
しるべは、帳場の横に置いてあった端切れの籠へ飛び乗った。
そして、丸くなった。
そこは寝床ではない。
祭りのこぼれ布を入れている籠である。
小春の巾着用の布も入っている。
「しるべ、そこは」
お鈴が手を伸ばしかけた。
すると、しるべが鋭く鳴いた。
にゃ。
短い。
だが、圧がある。
猫の拒否は、言葉数が少ない。
前世の上司にも見習ってほしい。
「困りましたね」
私が言うと、藤兵衛が帳場から言った。
「布に毛がつきます」
「はい」
「商品にはできませんな」
「そうですね」
現実。
猫のかわいさで一瞬忘れていたが、青柳屋は呉服商である。
反物に毛がつくのは問題だ。
これは、かわいいでは済まない。
お滝が台所から顔を出した。
「じゃあ、猫用の布にすりゃいい」
「猫用の布?」
「もう売り物にならない端切れなら、敷いてやればいいだろう」
また、お滝が実務で殴ってきた。
強い。
小春が端切れを見た。
「たしかに、売れない布もあります。小さすぎるものや、傷のあるもの」
「それを縫って、猫の敷き布にするのはどうでしょう」
お鈴が言った。
「猫の敷き布」
私は繰り返した。
また新しい商品が生まれかけている。
いや、商品にするのか。
猫用の布。
この世界に、そういう需要があるのか。
前世なら、ペット用品売り場が普通にあった。
猫ベッド。
猫用毛布。
猫用おもちゃ。
猫用ちゅーる。
最後の単語を思い出した瞬間、脳内の私が少し遠い目をした。
猫の経済圏は強い。
人間は猫のために財布を開く。
たぶん異世界でも、同じ可能性がある。
「若旦那」
小春が言った。
「売り物にはしなくても、青柳屋の猫用に一枚作ってみますか」
「青柳屋の猫」
「違いましたか?」
私はしるべを見た。
しるべは端切れの籠の中で、すでに眠そうな顔をしている。
この態度。
完全に青柳屋所属である。
辞令を出した覚えはないが、本人は着任している。
「……試しに一枚」
私が言うと、お鈴がぱっと顔を明るくした。
「やった」
「ただし、反物の棚には近づけないように」
「はい」
「帳場にも」
「はい」
しるべは、その瞬間、帳場の方へ尻尾を伸ばした。
聞いていない。
いや、聞いた上で無視している。
猫。
やはり強い。
昼過ぎ、青柳屋の店先に、小さな敷き布が置かれた。
祭りのこぼれ布を縫い合わせた、猫用の布。
紺、赤、淡い青。
少しつぎはぎだが、悪くない。
むしろ、味がある。
「かわいいです」
お鈴が言った。
「売れそうですね」
私が言うと、藤兵衛の眉が動いた。
「若旦那」
「冗談です」
「冗談でございますか」
「半分」
「半分」
藤兵衛は、すでに帳面に新しい欄が増える未来を見ている顔をしていた。
その時、店先に一人の女性客が来た。
小さな女の子を連れている。
女の子は、しるべを見るなり目を輝かせた。
「猫!」
「しるべです」
お鈴がすぐに紹介する。
女の子は、しるべ用の敷き布を見た。
「これ、猫のお布団?」
「そうです」
「うちの猫にもほしい」
来た。
需要。
まさかの即日発生。
母親が困ったように笑った。
「すみません。この子、猫が好きで」
「いえ」
私は敷き布を見た。
売るのか。
売らないのか。
端切れを使えばできる。
だが、手間はかかる。
小春の手も、お鈴の手も必要になる。
安易に安くすると、また手を安くすることになる。
しかし、高すぎると、ただの猫布である。
いや、ただの猫布ではない。
猫にとっては寝床。
子どもにとっては、自分の猫を大事にするための布。
人間とは、時に自分のものより猫のものにお金を出す。
前世の私はそれを知っている。
恐ろしいほど知っている。
「小春さん」
私は言った。
「はい」
「この布、作るのにどのくらい手間がかかりますか」
小春は少し考えた。
「端切れを選んで、縫い合わせて、縁を整えて……小さな巾着ほどではありませんが、手間はあります」
「では、値をつけましょう」
女の子の母親が少し驚いた。
「あの、無理に売っていただかなくても」
「いえ。もし作るなら、きちんと値をつけます」
私は女の子に向かってしゃがんだ。
「すぐにはできません。猫の布も、ちゃんと縫わないといけませんから」
「ちゃんと?」
「はい。すぐ破れたら、猫も困ります」
「うん」
「色は選べます。ただし、端切れなので、同じものはできません」
「じゃあ、うちの猫だけの?」
「そうです」
女の子は、ぱっと顔を明るくした。
「ほしい!」
母親も笑った。
「では、お願いできますか」
「ありがとうございます」
決まってしまった。
猫用敷き布、初受注。
青柳屋の商い、またよくわからない方向へ広がっている。
呉服屋である。
しかし、猫布も布である。
布の仕事には違いない。
藤兵衛が帳場で、静かに新しい紙を出した。
諦めが早い。
いや、対応が早い。
「名をどうしますか」
藤兵衛が言った。
「猫用敷き布」
「そのままでございますな」
「では、しるべ布」
お鈴が言った。
皆がしるべを見る。
しるべは、店先の敷き布の上で、すでに眠っている。
見本として完璧だった。
営業部長である。
勤務態度は寝ているだけ。
それなのに売上につながる。
理不尽な才能だ。
「しるべ布でよいのでは」
小春が言った。
「いいですね」
私も頷いた。
「しるべ布、注文一件」
藤兵衛が帳面に書く。
書かれてしまった。
猫が商いになった。
夕方、白菊さんの使いが香袋の追加分について来た。
しるべを見るなり、使いの若い衆が笑った。
「ああ、この猫。白菊姉さんが探してましたよ」
「白菊さんが?」
「花街にもよく来るんです。名前はなかったけど、みんなで白黒って呼んでました」
しるべ、花街にも出入りしていた。
やはり町の猫である。
「返した方がよいでしょうか」
私が言うと、若い衆は笑った。
「いや、猫は行きたいところへ行きますから。白菊姉さんも、青柳屋にいるならそれでいいって言うと思います」
「そうですか」
「ただ、たまには顔を見せに来いって言っておいてください」
猫に伝言。
難易度が高い。
しるべは起きる気配もない。
私は猫を見た。
「聞いていましたか」
しるべは目を閉じたまま、尻尾だけ動かした。
聞いている。
たぶん。
夜、私は帳場に座り、今日の出来事を書きつけた。
白黒猫、しるべと命名。
店先に居着く。
端切れ籠を占拠。
猫用敷き布、試作。
しるべ布、注文一件。
白菊殿より、猫への伝言あり。
何を書いているのだろう。
これは呉服屋の帳面なのか。
それとも猫日記なのか。
だが、不思議と悪くなかった。
役に立つから置くのか。
いるだけで場が整うから置くのか。
その境目は、思ったより曖昧だ。
しるべは、帳面を書かない。
反物を売らない。
接客もしない。
むしろ端切れに毛をつける。
それでも、子どもが笑い、客が足を止め、小春が新しい布の使い道を考えた。
猫には猫の商いがあるのかもしれない。
売らない。
勧めない。
ただ、そこにいる。
それだけで、人の足を少し止める。
青柳屋も、そういう店でありたいのかもしれない。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、役に立つかどうかだけで、誰かの居場所を決めない人でいたい。
そう思ったところで、しるべが帳場の上に飛び乗った。
「こら」
私が言う前に、しるべは帳面の端に前足を置いた。
肉球の跡が、うっすらついた。
藤兵衛が、静かに息を吸った。
お鈴が口を押さえた。
お滝が遠くで笑っている。
小春は肩を震わせていた。
私は帳面を見た。
しるべ布、注文一件。
その横に、猫の足跡。
印鑑か。
いや、印鑑なのか。
しるべ本人による承認印。
もう逃げられない。
私は静かに帳面を閉じた。
逃げたのではない。
今日は、猫に決裁されたのである。




