第16話 若旦那、香袋に強すぎない気遣いを入れる
白菊さんから頼まれた香袋は、小春の手で静かに形になっていった。
祭りのこぼれ布。
淡い青。
少し深い紺。
赤というより、夕方の灯りに近い朱。
それらの端切れが、小さな袋になっていく。
大きさは、手のひらに乗るほど。
派手ではない。
だが、ちゃんと目を留めると、布の表情がある。
小春は縫い目を見ながら言った。
「座敷の隅に置くなら、あまり目立たない方がいいと思うんです」
「そうですね」
「でも、雑に見えてもいけない」
「難しいですね」
「はい」
難しい。
目立たないけれど、手は抜かない。
それは、青柳屋が最近ずっと考えていることに近かった。
揺れない籠もそうだった。
雨の日の覆いもそうだった。
あと祭り粥も、祭りのこぼれ布もそうだった。
大きな看板にはならない。
でも、ないと困る。
そういう仕事に、どう値をつけるか。
前世の私は、そういうものをよく見落としていた気がする。
職場の誰かが補充してくれていたコピー用紙。
いつの間にか片づいていた会議室。
誰かが作っていた共有フォルダの名前の整い方。
切れていなかったトイレットペーパー。
人は、ある時は気づかない。
なくなった時だけ騒ぐ。
見えない仕事というものは、だいたい消えてから初めて存在を証明される。
「若旦那」
小春が顔を上げた。
「香は、どうしましょう」
「香」
私は小さな器に入った香を見た。
白檀。
丁子。
沈香の欠片。
あと、名前を聞いてもよくわからない粉。
前世の私は、香りに詳しくなかった。
柔軟剤の匂いが強すぎる人とエレベーターで一緒になると、静かに息を止める程度の知識である。
香水も、ほぼわからない。
脳内で、あの香水の歌が一瞬だけ玄関先に立った。
いや、今日は入ってこなくていい。
ドルチェでも何でもない。
ここは白檀と丁子と、青柳屋の帳場である。
「強すぎない方がよいのでは」
私が言うと、小春は頷いた。
「白菊さんも、部屋が落ち着くものを、と言っていました」
「香りは、残ればいいわけではないのですね」
「たぶん」
小春は少し考えた。
「香りって、相手の場所に入っていくものですから」
その言葉に、私は少し黙った。
相手の場所に入っていくもの。
たしかにそうだ。
言葉も、香りも、親切も。
強すぎると、相手の居場所を奪う。
こちらはよかれと思っても、相手には逃げ場がなくなることがある。
親切の香水、つけすぎ注意。
脳内の私が、急に生活情報番組のテロップを出した。
やめなさい。
いい話をしている時に、急に朝のワイドショーに寄せるな。
「では、控えめにしましょう」
「はい」
小春は慎重に香を調合した。
調合と言っても、専門の香師ではない。
だが、小春の手つきは丁寧だった。
少し入れる。
香りを確かめる。
布との相性を見る。
また少し入れる。
足しすぎない。
その我慢が、意外と難しい。
前世の私は、料理でよくやった。
少し薄いかな。
じゃあ醤油を足そう。
まだいけるかな。
もう少し。
そして、気づけばただの塩分になる。
優しさも香りも、足せばいいというものではない。
夕方、香袋は三つ仕上がった。
淡い青の袋。
紺の袋。
朱の袋。
それぞれ少しずつ香りが違う。
「持っていきましょうか」
小春が言った。
「はい」
「道は、覚えましたか」
「……たぶん」
「では、一緒に行きます」
当然のように言われた。
若旦那、花街への道、まだ単独許可下りず。
免許制なのか。
藤兵衛が帳場から顔を上げた。
「若旦那」
「はい」
「道順表はお持ちで?」
「持ちました」
「小春さんもご一緒で?」
「はい」
「それなら安心でございます」
安心の基準が完全に小春さん側へ移っている。
青柳屋の若旦那、信用残高が低い。
いや、自業自得である。
猫について行って花街に迷い込んだ男に、単独運転を任せられないのはわかる。
私と小春は、香袋を包んで花街へ向かった。
今回は猫を見ても追わなかった。
猫はいた。
いたが、見ないふりをした。
猫はちらりとこちらを見て、少し不満そうに尻尾を揺らした。
やめろ。
誘うな。
お前の案内は信用できない。
花街は、夕方前の支度の時間だった。
灯りはまだ少なく、人の動きは静かだ。
女たちは髪を整え、若い衆が水を運び、座敷では畳を拭く音がしている。
昨日よりも、花街の裏側が見えた。
華やかさは、急に生えてくるものではない。
誰かが掃く。
誰かが拭く。
誰かが結う。
誰かが香を置く。
祭りと同じだ。
始まる前に、仕事がある。
白菊さんは、店の奥で待っていた。
「若旦那、小春さん。ありがとうございます」
「こちらこそ」
小春が香袋を包みから出した。
白菊さんは、ひとつずつ手に取った。
まず、淡い青。
袖に近づけ、そっと香りを確かめる。
その所作だけで、こちらの背筋が少し伸びた。
「いいですね」
白菊さんは静かに言った。
「強すぎません」
小春の肩が、少しだけ下りた。
緊張していたのだろう。
「座敷に置いて、少し試してもよろしいですか」
「もちろんです」
私たちは、小さな座敷へ通された。
派手ではないが、よく整った部屋だった。
畳はきれいに拭かれ、座布団は角が揃っている。
床の間には、季節の花。
部屋の隅に、古い香袋が置かれていた。
白菊さんはそれを下げ、新しい淡い青の香袋を置いた。
すぐに、部屋の空気が変わった。
大げさではない。
香りが押してくるわけではない。
でも、座った時に、少し息がしやすくなる。
前世で言えば、やたら主張する芳香剤ではなく、窓を少し開けた時の風に近い。
「これは、いいです」
白菊さんが言った。
その声には、仕事を受け取った人の確かさがあった。
「小春さん」
「はい」
「追加でお願いできますか」
小春の目が少し大きくなった。
「はい。ありがとうございます」
「ただ、ひとつだけ」
白菊さんは香袋を見た。
「若い子の部屋には、もう少し軽い香りがよいかもしれません」
「若い子」
「うちに、若葉という子がいます。香に少し弱くて」
その時、廊下の向こうから小さなくしゃみが聞こえた。
続けて、もう一回。
白菊さんが苦笑した。
「噂をすれば」
現れたのは、まだ十代の終わりくらいに見える若い女の子だった。
名は若葉。
華やかというより、まだ少しあどけなさが残っている。
目元は整っているが、鼻の先が少し赤い。
「白菊姉さん、その香、また替えたんですか」
「青柳屋さんに作っていただいたの」
若葉は香袋を見た。
それから、少し警戒した顔で近づく。
「強いのは苦手です」
「わかっています」
白菊さんは淡い青の香袋を若葉に渡した。
若葉はおそるおそる香りを確かめた。
くしゃみは出なかった。
「あ」
「どう?」
「これは、平気です」
その言葉に、小春の顔が明るくなった。
白菊さんも、ほっとしたように笑う。
「前のは、少しきつかったので」
若葉は正直に言った。
「でも、お客様が『香りがあった方が花街らしい』って言うから」
花街らしい。
その言葉に、私は少し引っかかった。
人はよく、他人の仕事に「らしさ」を求める。
商家らしく。
職人らしく。
女らしく。
若旦那らしく。
花街らしく。
その「らしさ」が、相手を助ける時もある。
でも時々、人を窮屈にする。
若葉は、花街らしい香りの中で、くしゃみを我慢していたのかもしれない。
笑って、座って、平気な顔をしながら。
「若葉さん」
私は言った。
「香りが弱いと、花街らしくないですか」
若葉は少し驚いた顔をした。
「え?」
「私は、今日こちらへ来て思いました。花街らしさは、香りの強さだけではないのではと」
言ってから、私は内心で焦った。
また何か語り始めた。
若旦那、急に花街論。
危ない。
だが、言いかけたものは戻らない。
「部屋が整っていること。人を迎える支度があること。相手に合わせて香りを弱くすること。それも、十分に花街の仕事ではないでしょうか」
白菊さんが静かに私を見た。
若葉は香袋を手にしたまま、少し黙った。
「弱くても、いいんですかね」
「弱いのではなく、合っているのだと思います」
小春がそう言った。
その声は、やわらかかった。
「布も同じです。目立つ柄が合う人もいれば、静かな色が似合う人もいます。強い方が上、ということではないと思います」
若葉は、香袋をもう一度鼻に近づけた。
「これ、私の部屋にも置きたいです」
「では、若葉さん用に少し軽い香りで作りましょう」
小春が言った。
「値は同じですか」
若葉が聞いた。
白菊さんがたしなめようとしたが、小春は首を振った。
「香を少し変えるので、少しだけ手間が増えます。でも、布は小さくて足ります。なので、同じくらいにできます」
小春が、自分で値の話をしている。
私は少し感動した。
大げさではない。
あの小春が、手を無料にしないまま、相手に合わせた値を考えている。
青柳屋の若旦那研修、効果が出ている。
いや、先生面するな。
小春は自分で進んでいる。
「お願いします」
若葉は嬉しそうに頭を下げた。
白菊さんは、少し目を細めた。
「よかったわね」
「はい」
その瞬間、私は思った。
強すぎない気遣いというものがある。
目立たないけれど、相手の息を楽にするもの。
無理に変えようとしない。
ただ、その人が座れるように場所を整える。
香袋は、小さい。
けれど、そういう仕事をしている。
帰り際、白菊さんが代金を渡してくれた。
きちんと包まれている。
小春は両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。よい仕事でした」
その言葉に、小春は少しだけ頬を赤くした。
私は内心でガッツポーズをした。
だが、顔には出さない。
ここは花街である。
若旦那が急に拳を握ったら、また変な噂になる。
ただでさえ、子犬の件がある。
帰り道、小春は包みを大事そうに持っていた。
「若旦那」
「はい」
「値を受け取るの、少し慣れてきました」
「よかったです」
「でも、まだ少し怖いです」
「怖いくらいで、ちょうどいいのかもしれません」
「どうしてですか」
「怖くなくなると、今度は相手の怖さを忘れる気がします」
小春は少し考えて、頷いた。
「たしかに」
商いは、慣れすぎると乱暴になる。
値をつけることも。
受け取ることも。
断ることも。
お願いすることも。
慣れてうまくなるのは大事だ。
でも、少しだけ怖さを残していた方が、相手の手を見失わないで済むのかもしれない。
「若旦那」
「はい」
「今日の香袋、青柳屋の仕事になりますか」
「なります」
「小さな仕事ですけど」
「小さな仕事ほど、店の匂いになる気がします」
言ってから、自分で少し恥ずかしくなった。
うまいことを言ったつもりなのか。
脳内の私が、自分で自分に座布団を出そうとしている。
やめなさい。
まだ早い。
「店の匂い」
小春はつぶやいた。
「いいですね」
そう言われると、余計に照れる。
青柳屋へ戻ると、藤兵衛が帳場で待っていた。
「若旦那、お帰りなさいませ」
「戻りました」
「迷われませんでしたか」
「迷いませんでした」
「それは何よりでございます」
褒める基準が低い。
だが、今日は甘んじて受けよう。
藤兵衛は香袋の代金を帳面に記した。
白菊殿、香袋三つ。
若葉殿用、追加予定。
香り弱め。
香り弱め。
帳面に書くと、妙にかわいい。
「若旦那」
「はい」
「これは、今後も続く仕事になりそうでございますな」
「はい」
「小さな仕事ですが」
「はい」
「青柳屋らしい」
藤兵衛がそう言った。
私は少し驚いた。
藤兵衛から、青柳屋らしいと言われると、なんだか重い。
でも、うれしい。
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「香の仕入れも必要になります」
来た。
当然だ。
香袋を作るなら、香がいる。
香がいるなら、仕入れがいる。
仕入れがいるなら、帳面が増える。
現実というものは、余韻の後ろから必ずそろばんを持ってくる。
私は深く息を吸った。
「明日、考えましょう」
「本日ではなく?」
「本日は、香りを味わう日にします」
藤兵衛は少しだけ笑った。
「承知いたしました」
夜、私は帳面の端に今日のことを書いた。
香袋。
強すぎない香り。
若葉、くしゃみせず。
小春、自分で値を受け取る。
白菊、よい仕事と言う。
書き終えて、私は筆を置いた。
見えない仕事にも、香りがある。
強すぎると、人の居場所を奪う。
弱すぎると、届かない。
ちょうどよく届いて、少し楽に息ができる。
そんな仕事を、青柳屋は少しずつ増やしているのかもしれない。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、誰かの息が少し楽になるくらいの仕事をしてみたい。
香りが残りすぎないように。
でも、あったことだけは、どこかでわかるように。
そう思ったところで、廊下の向こうからお鈴が声を上げた。
「若旦那、猫が店先にいます!」
私は固まった。
あの猫か。
あの、私を花街へ導いた、信用ならない白黒の猫か。
店先へ出ると、猫は青柳屋の前で丸くなっていた。
こちらを見て、にゃあと鳴く。
何だその顔は。
まるで「今日の仕事につながっただろう」と言っているようではないか。
私は猫を見下ろした。
「あなたの案内は、もう信用しません」
猫は、もう一度にゃあと鳴いた。
お滝が横から言った。
「若旦那、その猫、うちで飼うかい?」
「え」
待って。
待って待って。
青柳屋に、猫?
花街へ導いた猫を?
導線事故の犯人を?
でも、猫は丸い。
かなり丸い。
そして、少しだけかわいい。
脳内の私が、早くも負け始めている。
これはまずい。
猫という存在は、丁半より危ない。
勝ち目がない。
私は静かに帳面を閉じた。
逃げたのではない。
今日は、猫の件を明日の議題に回したのである。




