第15話 若旦那、噂に足をすくわれる
翌朝、青柳屋の空気は、いつもより少しだけ妙だった。
お滝の朝粥は、いつも通りうまい。
湯気も、いつも通りやさしい。
藤兵衛の眉も、いつも通り険しい。
だが、お鈴がやけにこちらを見ている。
ちらり。
また、ちらり。
そして目が合うと、すぐに台所の方へ逃げる。
これは何かある。
前世の職場でも、こういう空気はあった。
朝、出勤したら妙にみんなが優しい。
誰かが自分の名前を出した瞬間、会話が止まる。
給湯室の方向から、うっすら自分の気配が聞こえる。
だいたい、何かが漏れている。
情報漏洩である。
個人情報保護の観点から、非常によろしくない。
「お鈴さん」
「はいっ」
声が裏返った。
「何かありましたか」
「いえ、何も」
「その何も、ずいぶん形がありますね」
「ええと」
お鈴は困った顔で、ちらりと藤兵衛を見た。
藤兵衛は静かに湯呑みを置いた。
「若旦那」
「はい」
「昨日、花街の方へ行かれたとか」
来た。
やはり来た。
噂、足が速すぎる。
町の噂というものは、籠より速い。
しかも揺れる。
揺れた分だけ尾ひれが増える。
「行ったのではありません」
私は言った。
「道を間違えました」
「はい。そう伺っております」
「本当に?」
「はい」
藤兵衛は淡々としている。
だが、その淡々の奥に、若干の笑いを我慢している気配がある。
やめてほしい。
堅物番頭の笑いの気配は、普通の笑いより堪える。
「町では何と?」
聞きたくない。
でも、聞かないといけない。
こういうものは、放置すると育つ。
育った噂は、盆栽と違って風情がない。
伸びるだけ伸びて、変なところに根を張る。
「青柳屋の若旦那、巾着の紐を探して花街まで行った、と」
「おおむね事実ですね」
「加えて」
「加えて?」
「花街の白菊殿に、子犬のようだったと言われたとか」
お鈴が奥で吹き出した。
終わった。
完全に終わった。
若旦那、町の花街で子犬判定。
商家の跡取りとしての威厳が、朝粥の湯気と一緒に天井へ消えていく。
「白菊さんは、そういう意味で言ったのでは」
「では、どういう意味で?」
藤兵衛が聞いた。
この番頭、今日は少し意地が悪い。
「迷子として、です」
「なるほど。迷子の子犬」
「まとめないでください」
お鈴が、もう我慢できないという顔で笑っている。
お滝まで台所から顔を出した。
「若旦那、次から紐屋に行く時は、首に鈴でもつけるかい」
「お滝さんまで」
「迷子札もいるねえ」
やめて。
青柳屋の若旦那、迷子札導入。
新サービスではない。
本人用である。
「とにかく」
私は咳払いをした。
「昨日は、本当に道を間違えただけです」
「承知しております」
藤兵衛は真面目な顔に戻った。
「ただ、噂は事実だけで動くものではございません」
その言葉に、私は黙った。
そうだ。
噂は、事実の形をした別の生き物だ。
事実を食べて、面白さで太り、人の口で遠くまで歩く。
そして時に、人の仕事の値まで勝手に決めてしまう。
昨日、白菊が言っていた。
花街に来る人は、迷ったふりをする。
足はまっすぐ向かっているのに、口だけが「つい」と言う。
私は本当に迷った。
でも、町に広がる頃には、本当かどうかなど関係なくなる。
青柳屋の若旦那が花街へ。
それだけで、人は勝手に絵を足す。
私は朝粥を食べ終え、羽織を整えた。
「少し、町へ出ます」
「どちらへ」
藤兵衛がすぐ聞いた。
「紐屋ではありません」
「花街でも?」
「違います」
「道順は」
「わかります」
「本当に?」
「本当に」
信用がない。
完全にない。
すると、店先に小春がやって来た。
手には、昨日買った淡い青の紐で仕上げた小さな巾着がある。
「若旦那、おはようございます」
「おはようございます」
小春は私を見るなり、少しだけ笑った。
その笑い方。
知っている顔だ。
これは全部知っている顔だ。
「小春さんも、聞きましたか」
「はい」
「どこまで」
「巾着の紐を買いに行って、猫について行ったら花街に出て、白菊さんに子犬のようだと言われたところまで」
「詳細すぎませんか」
「町は狭いですから」
「狭すぎます」
前世のSNSより狭い。
しかも検索しなくても勝手に届く。
通知を切りたい。
「でも」
小春は巾着をそっと台に置いた。
「白菊さん、嫌なふうには言っていませんでしたよ」
「会ったのですか」
「今朝、花街の使いの方が来ました」
「使いの方?」
「はい。白菊さんから、青柳屋にお願いがあるそうです」
嫌な予感と、少し別の予感が同時に来た。
こういう時、人生はだいたい面倒な方へ曲がる。
「お願いとは」
「座敷で使う小さな香袋を、青柳屋で見てもらえないかと」
「香袋」
「はい。お客様に渡すものではなく、部屋の隅に置く小さなものだそうです。香りがきつすぎず、布も上品なものがいいと」
なるほど。
花街の仕事にも、布がある。
着物だけではない。
場の匂い。
灯り。
座布団。
香袋。
見えないところの手間。
昨日、私はそれを少し見た。
「行きましょう」
私が言うと、藤兵衛が即座に顔を上げた。
「どちらへ」
「花街へ」
「若旦那」
「今回は道を間違えるのではありません。仕事です」
言った瞬間、自分でも少し怖くなった。
言い訳が成立しているようで、成立していないような気がする。
仕事で花街へ行く。
字面が強い。
前世の私なら、領収書の但し書きで手が止まるやつである。
「私も行きます」
小春が言った。
私は思わず小春を見た。
「小春さんも?」
「香袋なら、針仕事も関わりますから」
「それはそうですが」
「それに」
小春はにこりと笑った。
「若旦那がまた迷うといけませんので」
終わった。
完全に保護者同伴である。
老舗呉服商の若旦那、花街への道で仕立て屋の娘に引率される。
新しい威厳の落とし方である。
花街へ向かう道中、小春は迷わなかった。
当然のように角を曲がり、細い橋を渡り、白い壁の路地へ入る。
「小春さん、道をご存じだったのですか」
「何度か直し物で来ています」
「そうでしたか」
「若旦那より、私の方が花街に詳しいかもしれません」
「その情報、少し処理に困ります」
小春は笑った。
昨日はあれほど異界に見えた花街も、昼に小春と歩くと少し違って見えた。
格子戸の奥では、女たちが髪を整えている。
若い男が水を運び、年配の女性が座布団を干している。
三味線の稽古の音が聞こえる。
華やかさの裏に、普通の準備がある。
それは祭りと同じだった。
始まる前に、誰かが掃き、干し、直し、運ぶ。
どんな場所にも、表と裏がある。
白菊は、昨日と同じ店の前にいた。
「まあ、若旦那。今日は迷わず来られたのですね」
「小春さんのおかげで」
「それはようございました」
白菊は小春を見ると、丁寧に頭を下げた。
「仕立て屋の小春さんですね。お噂は」
「噂ですか」
「手が良いと」
小春の表情が少し変わった。
嬉しそうで、少し恥ずかしそうだった。
私は内心で頷いた。
その噂は、よい噂だ。
人の仕事を軽くする噂ではない。
仕事の手をちゃんと町へ渡す噂。
そういう噂なら、悪くない。
白菊は私たちを奥の小さな部屋へ通した。
華やかな座敷ではなく、道具を置く部屋だった。
棚には香、扇、座布団の替え、布袋が並んでいる。
「座敷で使う香袋を新しくしたいのです」
白菊は小さな袋を出した。
古くなった香袋だった。
布は擦れて、紐は少し緩んでいる。
「見えるところに置くものではありません。でも、ないと部屋の空気が違います」
「なるほど」
「派手な布はいりません。お客様の目を引くためではないので。ただ、部屋が落ち着くものを」
私は香袋を手に取った。
小さい。
とても小さい。
だが、たしかに仕事がある。
見えないところで、場を整える仕事。
小春が袋の縫い目を見た。
「この大きさなら、祭りのこぼれ布も使えます。ただ、香りが強いものを入れるなら、布は少し厚めがいいです」
「お任せできますか」
「はい。ただ」
小春は少しだけ言葉を止めた。
「時間はいただきます。手を抜くと、すぐ形が崩れます」
白菊は静かに笑った。
「もちろんです。急ぎません」
その言葉が、少し気持ちよかった。
急がない。
安くしない。
でも、必要なところにちゃんと置く。
香袋は、揺れない籠に少し似ている。
目立たないけれど、場を守るものだ。
「値は、どういたしましょう」
白菊が聞いた。
私は小春を見た。
小春は、私を見返した。
ここで私が全部決めるのは違う。
この香袋には、小春の手が入る。
「小春さん」
「はい」
「小春さんの手間で、値を出してください」
小春は一瞬、驚いた顔をした。
それから、少し緊張したように頷いた。
「では、布代と香を入れる袋の仕立て代で……」
小春は指で小さく計算した。
白菊は黙って待っている。
その沈黙がよかった。
早く言え、という圧がない。
小春は、ゆっくり値を告げた。
白菊は頷いた。
「その値でお願いします」
決まった。
あまりにも静かに、仕事の値が決まった。
誰も値切らない。
誰も遠慮で無料にしない。
誰も「少しだけ」と軽く言わない。
それだけのことが、こんなに清々しい。
前世の私なら、この場面で少し泣きそうになっていたかもしれない。
大げさではなく。
自分の仕事に、自分で値を言う。
相手がそれを受け取る。
それは、人によってはとても怖いことなのだ。
部屋を出る時、白菊が言った。
「若旦那」
「はい」
「昨日のこと、町では少し面白がられているようですが」
「はい」
「噂というのは、困ったものです。でも、悪いことばかりでもありません」
「と、言いますと」
「若旦那が本当に紐を買いに来て迷ったらしい、と聞いて、うちの若い子たちが笑っていました」
「はい」
その情報、傷が深い。
「でも、そのあとに言ったのです。青柳屋の若旦那は、仕事の値を軽く見ない人らしい、と」
私は黙った。
「だから、お願いしてみようと思いました」
噂が、仕事を連れてきた。
笑い話が、信頼の種も連れてきた。
不思議なものだ。
人の口は、時に怖い。
でも、そこに何を乗せるかで、誰かの仕事を運ぶこともある。
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
「こちらこそ」
白菊は小春を見た。
「小春さん、楽しみにしております」
「はい」
小春の返事は、少しだけ強かった。
帰り道、小春は淡い青の端切れを手の中で確かめていた。
「若旦那」
「はい」
「自分で値を言うの、少し怖かったです」
「そうでしょうね」
「でも、言ってよかったです」
「はい」
「白菊さん、ちゃんと待ってくれました」
「いい方ですね」
「はい」
小春は少し考えてから言った。
「噂で怖い思いをする人もいるけれど、噂で仕事が届くこともあるんですね」
「そうですね」
「なら、いい噂を増やしたいですね」
その言葉に、私は胸の中で頷いた。
いい噂。
それは、ただ褒めることではない。
誰かの手を、ちゃんと届く形で人に伝えることだ。
小春の手が良い。
辰五郎と銀次は揺らさない。
お滝の判断は腹を守る。
白菊は場を整える。
そういう噂なら、町を少し丈夫にする。
青柳屋へ戻ると、お鈴が待ち構えていた。
「若旦那、どうでしたか」
「仕事になりました」
「本当に仕事だったんですね」
「本当に」
「つまらないです」
「お鈴さん」
「すみません」
素直でよろしい。
藤兵衛は帳場で、すでに新しい欄を用意していた。
香袋。
その文字が帳面に加わる。
また青柳屋の商いが、少しだけ広がった。
夜、私は帳面に今日のことを書いた。
白菊殿より香袋の依頼。
小春、仕立て代を自ら告げる。
値切りなし。
噂は笑いにもなるが、仕事を運ぶこともある。
書きながら、私は思った。
昨日の私は、花街に迷い込んで内心大騒ぎだった。
今日の私は、その場所で仕事の値を決める場に立っていた。
一日で、見えるものが変わることがある。
道を間違えたことさえ、次の日には別の道につながることがある。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、噂に足をすくわれても、そこから何かを拾える人でありたい。
そう思ったところで、藤兵衛が静かに言った。
「若旦那」
「はい」
「明日からの外出道順表、作っておきました」
机の上に、きれいな道順が置かれている。
紐屋まで。
神社まで。
湯屋まで。
黒瀬屋まで。
そして、一番下に小さく。
花街まで。
「藤兵衛さん」
「仕事で必要になるかと」
「……ありがとうございます」
私は道順表を畳んだ。
逃げたのではない。
今日は、迷わず帰るための道を、ひとつ増やしたのである。




