第14話 若旦那、道を間違えて花街に出る
その日、私は一人で外へ出た。
珍しいことである。
いつもなら藤兵衛がついてくるか、お鈴が用を聞くか、小春が何かしらの包みを持って現れるか、辰五郎と銀次が通りのどこかにいる。
だが、その日は違った。
藤兵衛は帳場。
小春は仕立て。
お鈴はお滝に台所へ連れていかれた。
辰五郎と銀次は、朝から西町の荷運び。
つまり、青柳屋の若旦那、単独行動である。
外側の私は、涼しい顔で羽織を整えた。
「少し、紐屋まで行ってまいります」
「お一人で大丈夫でございますか」
藤兵衛が言った。
「大丈夫です」
即答した。
この町にも、だいぶ慣れてきた。
朝市へも行った。
湯屋にも行った。
神社にも行った。
賭場にも行った。
最後のひとつは慣れてはいけない気もするが、とにかく道は少しずつ覚えている。
紐屋くらい、一人で行ける。
前世の私は、駅ビルの中で目的の店を見失い、同じエスカレーターを三回乗ったことがある。
でも今は違う。
私は若旦那。
老舗呉服商の跡取り。
町を歩けば、誰かが「青柳屋さん」と声をかけてくれる。
つまり、迷子になっても身元確認が早い。
いや、迷子になる前提で考えるな。
私は青柳屋を出た。
目的は、祭りのこぼれ布で作る巾着用の紐だった。
小春が言うには、端切れに合う色の細い紐が足りないらしい。
紺、赤、淡い青。
その三色を見に行く。
簡単な用事である。
簡単な用事ほど、人生は油断する。
町は昼下がりで、通りにはほどよい人の流れがあった。
魚屋が桶を洗い、茶屋の女将が暖簾を叩き、子どもたちが手伝い札を見せ合いながら走っている。
「若旦那!」
おみつが手を振ってきた。
「こんにちは」
「おっかあの巾着、まだ?」
「小春さんが丁寧に作っています」
「ていねい?」
「揺らさず、濡らさず、急がず、です」
「ふーん」
おみつはわかったような、わからないような顔で頷いた。
かわいい。
だが、子どもは納期に厳しい。
前世の取引先より、目がまっすぐである分、逃げ場がない。
私はおみつに手を振り、紐屋へ向かった。
つもりだった。
途中までは、たしかに合っていた。
茶屋を右。
井戸のある角を左。
木札屋の前を通って、細い路地を抜ける。
そのはずだった。
しかし、木札屋の前で、猫がいた。
白と黒のぶち猫。
やけに堂々としている。
私の前を横切り、細い路地へ入っていく。
ここで無視すればよかった。
でも、猫という生き物は、人間の「ちょっとだけ見てみよう」を引き出す天才である。
猫の後ろ姿には、地図アプリにはない説得力がある。
私は何となく、その路地へ入った。
そして、すぐにわからなくなった。
あれ。
ここ、こんなに曲がったか。
右へ曲がる。
細い橋を渡る。
小さな鳥居を抜ける。
また路地。
町というものは、表通りでは親切な顔をしているのに、裏に入ると急に謎解きダンジョンになる。
ここで宝箱が出ても、私はもう驚かない。
いや、驚く。
できれば地図が出てほしい。
脳内の渡辺真知子が、静かに「迷い道」の看板を出してくる。
違う。
歌っている場合ではない。
私は今、リアルに迷っている。
そのうち、通りの空気が変わった。
まず、匂いが違う。
白粉。
香。
甘い酒。
少し濃い花の匂い。
軒先の灯りも、昼なのに妙に艶っぽい。
格子戸。
きれいに掃かれた石畳。
赤い暖簾。
奥から聞こえる三味線の音。
私は足を止めた。
待って。
待って待って待って。
ここ、どこ。
いや、知っている。
知識として知っている。
でも来るつもりはなかった。
花街である。
花街。
文字からして強い。
前世の私は、そういう場所に縁がなかった。
夜の繁華街を歩く時も、できるだけ呼び込みと目を合わせないようにしていた女である。
なのに今。
私は若旦那の姿で、昼下がりの花街に、単独で立っている。
事故である。
これは交通事故ではない。
導線事故である。
花街側から見れば、青柳屋の若旦那が一人で来たように見える。
違います。
私は迷子です。
紐を買いに来ただけです。
巾着の紐です。
心の紐ではありません。
脳内が一瞬で大混雑した。
前世の私が非常ベルを鳴らす。
若旦那の外面が涼しい顔を保とうとする。
帳場の藤兵衛が幻で眉をひそめる。
小春が「若旦那?」と首を傾げる。
お滝が「何やってんだい」と包丁を置く。
そして猫が、どこかで知らん顔をしている。
猫、お前。
絶対に確信犯だろう。
「まあ」
格子戸の向こうから声がした。
女の人だった。
年は二十代後半か、三十代か。
美しい。
ただ、若いだけの美しさではない。
目に、こちらを見透かすような落ち着きがある。
薄紫の着物に、白い襟。
髪はきれいに結われている。
「青柳屋の若旦那じゃありませんか」
知っているのですか。
いや、町だから知っているのか。
それとも若旦那、前からここに来ていたのか。
やめて。
前任者の交友関係、急にログイン画面で出さないで。
「こんにちは」
外側の私は、かろうじて会釈した。
内側の私は、完全にフリーズしていた。
エラー。
予期しない花街です。
再起動しますか。
はい。
はいしかない。
「珍しいですね。お一人で」
「ええ。少し、道を」
道を。
そこまで言って止まった。
道を間違えました、と正直に言うのは簡単だ。
しかし、ここで「迷いました」と言うと、若旦那の威厳が、道端の団子の串くらい細くなる。
だが、嘘をついても仕方がない。
「道を、間違えまして」
女は一瞬きょとんとした後、ころころと笑った。
「まあ。花街に来る方で、その言い訳を一番まっすぐ言った人は初めてです」
「言い訳ではなく、事実で」
「そういう顔をしています」
見抜かれている。
早い。
花街の人、観察力が怖い。
役場の窓口にいたら、五分でこちらの昼休みの疲労度まで見抜きそうである。
「私は白菊と申します」
「青柳屋の千景です」
「存じています。最近、町でよくお名前を聞きますから」
「何か、よくない噂でしょうか」
「いえ」
白菊は口元を袖で隠した。
「変わった若旦那だと」
はい。
また来た。
変わった若旦那。
最近この評価、町内会の回覧板くらい回っている気がする。
「紐屋を探しておりまして」
「紐屋?」
「巾着用の紐です」
「花街で紐を探すとは、なかなか粋な迷い方ですね」
「粋ではありません。迷子です」
白菊はまた笑った。
その笑い方は、小春の笑いとは違う。
小春の笑いが、朝の縁側に置いた湯呑みなら、白菊の笑いは、夜の障子越しに揺れる灯りだった。
わかるようで、わからない。
近づくと火傷しそうな温度がある。
私の脳内は、また別の方向で騒ぎ始めた。
待って。
色気。
大人の色気。
しかも私は今、男の身体。
外側は若旦那。
内側は元喪女。
処理落ちする。
グラフィックボードが悲鳴を上げている。
この場面、どう立てばいい。
目を見すぎても失礼。
見なさすぎても不自然。
視線の置き場所がない。
男湯に続き、また目のやり場問題である。
この世界、定期的に私の視線管理能力を試してくる。
「若旦那」
「はい」
「そんなに固まらなくても、食べたりしませんよ」
「はい」
返事が硬い。
石か。
自分でもわかる。
「ただ、このあたりは昼でも迷いやすいです。表通りまでご案内しましょうか」
「助かります」
私は即答した。
威厳より安全。
これは大事である。
白菊は格子戸の奥へ何か声をかけ、外へ出てきた。
歩く所作が静かだった。
履物の音も、袖の揺れも、余計なものがない。
小春の手が布を整える手なら、白菊の所作は場の空気を整える手だった。
花街という場所は、ただ華やかなだけではない。
客の顔色。
酒の進み方。
言わない事情。
帰りたくない人の背中。
帰らなければならない人の言い訳。
そういうものを、たぶん毎晩見ている。
「若旦那は、本当に紐屋へ?」
「本当に紐屋へ」
「おもしろい方ですね」
「最近、それもよく言われます」
「花街へ来る殿方は、たいてい迷って来たふりをします」
「ふり」
「ええ。足はまっすぐこちらへ向かっているのに、口だけが『いや、つい』と言うのです」
私は何も言えなかった。
深い。
道の話をしているようで、人の欲の話をしている。
「でも若旦那は、足も顔も本当に迷っていました」
「そんなに」
「はい。少し、子犬のようでした」
子犬。
若旦那、花街で子犬判定。
これはどう受け止めればいいのか。
前世の私なら、褒められたのか、なめられたのか、三日くらい考えるやつである。
すると、細い路地の先で、男が一人立っていた。
身なりのいい商人風。
顔に見覚えがある。
たしか、あと祭り市の時に、余りものを安く買い叩こうとしていた男だ。
男は白菊を見るなり、にやりと笑った。
「白菊さん、今日もお美しい」
「ありがとうございます」
白菊の声は、涼しかった。
「今夜、座敷を頼もうかと思ってね。だが、少し値をまけてもらえないか。祭り明けで客も少ないだろう」
私は足を止めた。
値をまける。
まただ。
この町では、どこへ行っても、値の話にぶつかる。
布。
針仕事。
籠。
団子。
端切れ。
そして、花街の座敷。
白菊は笑顔を崩さなかった。
「うちの座敷は、祭り明けでも値は変わりません」
「強気だねえ」
「手間は変わりませんので」
「少し飲んで話すだけじゃないか」
その言い方に、胸の奥がざらりとした。
少し縫うだけ。
少し運ぶだけ。
少し話すだけ。
この「少しだけ」は、人の仕事を軽く見る時に便利すぎる。
男はさらに言った。
「若旦那もそう思うだろう? 花街の女は、客を楽しませてなんぼだ。客が来るだけありがたいんじゃないか」
巻き込むな。
私は紐を買いに行く途中の迷子である。
しかし、ここで黙って通り過ぎるのは、少し違う気がした。
白菊は困っていないかもしれない。
むしろ、自分で返せる人だ。
それでも、この言葉を青柳屋の若旦那として聞き流すのは嫌だった。
「お客様」
私は言った。
外側の若旦那が、ようやく仕事を始めた。
「楽しませる仕事ほど、見えない手間が多いものではないでしょうか」
男がこちらを見た。
「何だい、急に」
「布も同じです。見えるのは一反でも、そこには染める手、織る手、仕立てる手があります。座敷も、ただ話すだけではないはずです」
白菊が少しだけこちらを見た。
男は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「青柳屋の若旦那は、花街の値まで語るのか」
「いえ。私は道を間違えただけです」
白菊が、横で小さく吹き出した。
しまった。
そこは言わなくてもよかったかもしれない。
でも、事実である。
「ただ、仕事の値を軽く見る言葉は、どこで聞いてもあまり気持ちよくありません」
男はしばらく私を見ていたが、やがて肩をすくめた。
「つまらん若旦那だ」
「よく言われます」
「では、また考える」
男はそう言って去っていった。
路地に、少しだけ静けさが戻る。
私は内心でへたり込んでいた。
怖かった。
めちゃくちゃ怖かった。
花街の路地で見知らぬ商人に意見する若旦那。
字面が重い。
今日、私は紐を買いに出ただけである。
なぜ、こうなる。
「若旦那」
白菊が言った。
「はい」
「本当に、変わった方ですね」
「それは、褒めていますか」
「保留です」
待って。
その返し、黒瀬伊織と同じ。
この町の美形および切れ者は、褒め言葉を保留にしがちなのか。
脳内の私は、軽く頭を抱えた。
「でも」
白菊は少しだけ真面目な顔になった。
「ありがとうございます」
「いえ。余計なことを言いました」
「余計でも、助かる余計があります」
その言葉は、少し胸に残った。
善意の余計なことは厄介だ。
けれど、助かる余計もある。
その境目は、きっと難しい。
押しつければ迷惑になる。
見過ごせば冷たくなる。
差し出すだけなら、助かることもある。
白菊は表通りへ続く角で足を止めた。
「紐屋なら、この先をまっすぐ行って、井戸の角を右です」
「ありがとうございます」
「若旦那」
「はい」
「花街へ来たことは、内緒にしておきましょうか」
私は固まった。
そこ。
そこ大事。
とても大事。
小春に変な誤解をされたら、私は社会的に詰む。
いや、何もしていない。
本当に何もしていない。
だが、説明すればするほど怪しくなる種類の無実がある。
前世でもそうだった。
「違うんです」と言い始めた瞬間、違わなく聞こえる現象。
「できれば」
私は慎重に言った。
「紐屋への道を間違えたことだけ、町の笑い話程度に」
「承知しました。青柳屋の若旦那は、巾着の紐を探して花街まで来た、と」
「それもなかなか強い話ですね」
「かわいらしいですよ」
かわいらしい。
若旦那、二度目の子犬方面評価。
この方向で町に認知されてよいのだろうか。
白菊は笑いながら、花街の奥へ戻っていった。
その背中は、きれいだった。
華やかな場所で働く人の、まっすぐな背中だった。
私はしばらくそれを見送ってから、ようやく紐屋へ向かった。
紐屋では、紺、赤、淡い青の紐を無事に買えた。
店主が言った。
「若旦那、ずいぶん遠回りでしたね」
なぜ知っている。
町の情報網、速すぎないか。
「少し、道を確認していました」
「花街の方まで?」
終わった。
もう漏れている。
白菊さん、内緒とは。
いや、花街で見られた時点で、内緒の難易度が高い。
この町、噂が風より早い。
私は紐を抱えて青柳屋へ戻った。
店に着くと、小春が待っていた。
「若旦那」
「はい」
「紐屋へ行っていたんですよね」
「はい」
「ずいぶん、香の匂いがします」
終わった。
完全に終わった。
脳内の私が、畳の上で土下座の姿勢に入った。
違うんです。
本当に違うんです。
紐です。
紐屋です。
途中で猫が。
猫が全部悪いんです。
だが、猫のせいにする若旦那はかなり弱い。
「道を、間違えました」
私は正直に言った。
小春は少し目を丸くした。
「どこへ?」
「花街へ」
沈黙。
お鈴が奥で何かを落とした音がした。
藤兵衛の筆が止まった気配がした。
終わった。
青柳屋、ただいま若旦那の社会的信用が揺れております。
ところが、小春はしばらく私を見たあと、くすりと笑った。
「若旦那らしいですね」
「らしいですか」
「はい。花街へ遊びに行ったというより、花街に迷い込んで困っていた顔です」
「そんなに顔に出ていますか」
「出ています」
小春は紐の束を受け取った。
「でも、いい紐です」
「それはよかった」
「次からは、私も一緒に行きます」
え。
それは。
紐屋へ、ですよね。
花街へ、ではないですよね。
私の脳内がまた大混雑を起こした。
小春は何も気づいていないような顔で、淡い青の紐を選んでいる。
「この色、おみつちゃんの巾着に合います」
「はい」
「若旦那」
「はい」
「道を間違えるのも、たまには役に立ちますね」
「できれば、もう少し安全な道で間違えたいです」
小春は笑った。
その笑い声で、ようやく少し息が戻った。
夜、私は帳場で今日の出来事を書きつけた。
巾着用紐、購入。
紺、赤、淡青。
道を間違える。
花街に出る。
白菊という女性に案内される。
仕事の値について、少し考える。
書いてみると、何の報告書かわからない。
前世の職場でこんな出張報告を出したら、上司に呼び出される。
しかし、今日もまたひとつ見えた。
華やかに見える仕事ほど、見えない手間がある。
笑っている人ほど、値切られやすいことがある。
道を間違えなければ、見えなかった場所がある。
もちろん、だからといって毎回花街に迷い込むのは困る。
困るどころではない。
心臓に悪い。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、道を間違えても、自分を見失わないくらいにはなりたい。
そう思ったところで、奥から藤兵衛の声がした。
「若旦那」
「はい」
「明日から、お一人での外出には道順を紙に書いてお渡しいたします」
信用がない。
完全にない。
私は静かに帳面を閉じた。
逃げたのではない。
今日は、道を間違えすぎたので、これ以上どこにも進まないことにしたのである。




