第13話 若旦那、こぼれ布に小さな値をつける
祭りの翌々日、青柳屋の奥には、端切れの山ができていた。
山、というほど大きくはない。
だが、存在感はある。
半纏の直しで出た紺の布。
提灯飾りに使った赤い布。
奉納布の端を整えた時に出た淡い青。
子どもの袖を詰めた時に残った小さな柄物。
ひとつひとつは、本当に小さい。
布としては、もう主役ではない。
けれど、捨てるには惜しい。
そういうものは、人間の心に妙な圧をかけてくる。
前世の私も、紙袋やリボンを捨てられない女だった。
いつか使う。
その「いつか」は、だいたい来ない。
来ないのに、引き出しだけがパンパンになる。
しかも、いざ本当に使おうとすると、微妙に長さが足りなかったり、色が合わなかったりする。
人生とは、ちょうどいいリボンがない連続である。
「若旦那」
小春が、端切れを一枚手に取った。
「これ、巾着にできます」
「昨日言っていた、祭りのこぼれ布ですね」
「はい。子ども用の小さな巾着なら、いくつか作れそうです」
小春の声は、少し楽しそうだった。
針仕事の人は、布を見る目が違う。
私には「余り」に見えるものが、小春には「何になるか」に見えている。
これはかなりすごい。
前世の私なら、冷蔵庫の余り野菜を見て、ただ静かに扉を閉じていた。
何かにはなる。
でも、それを何かにする気力がない。
結果、野菜室の奥で、きゅうりが哲学者みたいな顔になる。
「巾着、いいですね」
「ただ」
小春は少し眉を寄せた。
「売るなら、値をつけないといけません」
「そうですね」
「でも、端切れです」
「端切れでも、縫う手があります」
私が言うと、小春は少し驚いた顔をした。
いや、こちらも学んできたのだ。
半値交渉。
針仕事。
染め場。
揺れない籠。
雨の日の覆い。
賭場の降り時。
祭りのあと。
転生してからの私の研修、なかなか濃い。
新人若旦那研修としては、ブラック寄りである。
「小春さんの手は、安くしません」
「若旦那」
「ただし、子どもたちが買いやすい値にもしたい」
「難しいですね」
「はい」
難しい。
こういう時、前世の私はすぐ無料にしたくなった。
いいですよ。
大丈夫です。
余りものなので。
ついでなので。
そう言うと、その場は丸く収まる。
でも、そのあと自分の中に小さな疲れが残る。
無料は、優しそうな顔をしている。
けれど、何度も重なると、誰かの手を透明にしてしまう。
そこへ、いつものように黒瀬伊織が現れた。
もはやこの人は、話がややこしくなる匂いを嗅ぎつけて来る猫である。
いや、猫に失礼かもしれない。
猫はもう少し愛嬌がある。
「端切れなら、まとめて安く売ればよいのでは」
伊織は開口一番そう言った。
「朝から合理性ですね」
「昼です」
「時間の問題ではありません」
伊織は端切れを一枚つまんだ。
「小さな布を一つひとつ縫って売るより、端切れのまま束にして売る方が早い。客が自分で使う。青柳屋の手間も少ない」
「それも一案です」
「それ以外に何が」
「小春さんが巾着に仕立てる案です」
「手間がかかります」
「はい」
「その分、高くなります」
「はい」
「子ども向けには買いにくくなります」
「はい」
「では、矛盾しています」
相変わらず切れ味がいい。
伊織の言葉は、よく研いだ小刀みたいである。
便利だが、手元を間違えるとすぐ切れる。
小春は黙って端切れを見ていた。
私は少し考えた。
端切れのままなら安い。
巾着にすれば高くなる。
でも、手の価値は消したくない。
子どもにも届いてほしい。
こういう時こそ、選べるようにすればいい。
「では、二つに分けましょう」
「二つ?」
小春と伊織が同時にこちらを見た。
「ひとつは、端切れそのままの束。これは安く売る。自分で縫う人、家で使う人向けです」
「合理的ですね」
伊織が言った。
「もうひとつは、小春さんが仕立てる巾着。これは、きちんと手間賃を乗せる」
「子どもは買えません」
「だから、小さな仕事と交換できるようにします」
伊織の眉が少し動いた。
「交換?」
「はい。祭りの片付けを手伝う。青柳屋の店先を掃く。お滝さんの買い出しを手伝う。ただし、子どもに危ないことはさせない。働いた分を、巾着代の一部にできます」
小春が目を丸くした。
「子どもが、仕事で?」
「お手伝い程度です。買えないから無料ではなく、少し手を動かして受け取る」
伊織は腕を組んだ。
「手間が増えます」
「増えます」
「帳面も面倒になります」
「なります」
「青柳屋は、面倒が好きなのですか」
「たぶん、嫌いです」
「では、なぜ」
私は端切れの山を見た。
「無料でもらうと、嬉しいけれど忘れやすいことがあります。でも、自分で少し手伝って受け取ったものは、たぶん大事にします」
前世の私もそうだった。
簡単にもらったものより、自分で選んで、少しだけ頑張って手に入れたものの方を、長く覚えている。
高い安いだけではない。
そこに自分の時間が少し入ると、人はその物を自分のものとして持てる。
「祭りのこぼれ布を、子どもたちの小さな仕事に変えるのですか」
小春が言った。
「はい」
「面白いです」
「面倒です」
伊織が言った。
「でしょうね」
「でも、悪くない」
出た。
黒瀬伊織の、最大級に近い褒め言葉。
悪くない。
もはや私の中では、拍手喝采くらいの扱いである。
店先に札を出すことになった。
小春が文面を考え、私が少し直し、お鈴が字を書いた。
祭りのこぼれ布、あります。
端切れの束 少し安く。
小さな巾着 少し高く。
お手伝いで、少し引けます。
最後の一行を見て、藤兵衛が目を細めた。
「若旦那」
「はい」
「また新しい欄が必要でございますな」
「はい」
「お手伝い引き、でございますか」
「名前が妙ですね」
「かなり」
藤兵衛、そこは言い切った。
私は少し傷ついた。
だが、たしかに妙だった。
「では、何と呼びましょう」
お鈴が筆を持ったまま考えた。
「こぼれ手伝い」
「かわいいですね」
小春が言った。
「かわいいですが、帳面には少し書きにくいです」
藤兵衛が言う。
帳面目線が強い。
そこへ伊織がぼそりと言った。
「手伝い札」
皆が伊織を見た。
「手伝った分だけ札を渡す。札を集めれば、巾着代から引く。計算もしやすい」
合理的。
そして、ちゃんと使える。
悔しい。
この人、性格が小石なのに、仕組みを作らせると本当に早い。
「採用しましょう」
私が言うと、伊織は少しだけ嫌そうな顔をした。
「また簡単に」
「いいものは採用します」
「警戒心が足りません」
「伊織さんに言われると、少し腹が立ちますね」
「光栄です」
「褒めていません」
小春が横で笑っていた。
その笑い声が、店先の空気を少し柔らかくした。
昼過ぎになると、子どもたちが集まり始めた。
おみつもいた。
この前、祭りで迷子になった女の子だ。
今日は母親と一緒ではなく、近所の子どもたちと並んでいる。
「若旦那、これ、本当にお手伝いしたら引いてくれるの?」
「はい。ただし、危ないことはしません」
「掃き掃除は?」
「できます」
「おつかいは?」
「近くなら」
「帳面は?」
「だめです」
即答した。
子どもに帳面を触らせるわけにはいかない。
いや、大人の私でも時々触りたくないのに。
子どもたちは、店先を掃いたり、端切れを色ごとに分けたり、紙くずを集めたりした。
もちろん、完璧ではない。
むしろ、手伝っているのか散らかしているのかわからない場面もあった。
お鈴が何度も「ああっ、そっちじゃないです」と言っている。
でも、子どもたちは楽しそうだった。
小さな手で端切れを選び、札を一枚もらう。
その顔がいい。
働いた、というほど大げさではない。
でも、何かに参加した顔だった。
おみつは、淡い青の端切れをじっと見ていた。
「それがいいのですか」
私が聞くと、おみつは頷いた。
「おっかあにあげる」
「お母さんに?」
「うん。祭りの日、泣いたから」
その言葉に、胸のあたりが少し熱くなった。
おみつは、迷子になったことを気にしているのかもしれない。
子どもは大人が思うより、いろいろ覚えている。
泣いたこと。
迷惑をかけたと思ったこと。
自分を探してくれた腕の強さ。
小さな巾着を、お母さんに渡したい。
それは、たぶんおみつなりのお礼なのだ。
「では、その布で作りましょう」
小春が優しく言った。
「でも、札まだ一枚」
「残りは、少しずつでいいですよ」
「あとで?」
「はい。青柳屋は、逃げません」
私が言うと、おみつは真剣な顔で頷いた。
「わかった。あしたも掃く」
その覚悟の顔があまりに立派で、私は少し笑いそうになった。
いや、笑ってはいけない。
子どもの真剣は、ちゃんと真剣として受け取るべきだ。
小春は、淡い青の端切れを大事そうに畳んだ。
「お母さん用なら、少し丈夫にしましょう」
「小春さん」
「はい」
「その分の手間は」
「きちんといただきます」
小春が先に言った。
私は少し驚いた。
小春は静かに続けた。
「でも、少しずつでいいです」
よかった。
小春も、もう自分の手を無料にしなかった。
やさしくすることと、手を安くすることは違う。
その境目を、小春自身が少しずつ持ち始めている。
私はそれが嬉しかった。
夕方、店先には小さな巾着がいくつか並んだ。
同じ形でも、布が違うと表情が違う。
紺色のものは少し大人びて見える。
赤いものは祭りの名残がある。
淡い青は、朝の空みたいだった。
お鈴がひとつ手に取り、目を輝かせた。
「かわいいです」
「お鈴さんも買いますか」
「お給金日前です」
「では、手伝い札を」
「私もですか?」
「冗談です」
お鈴は口を尖らせた。
「若旦那、時々いじわるです」
「すみません」
そこへ、お滝が顔を出した。
「私にもひとつおくれ」
「お滝さんが?」
「針と糸を入れるのにちょうどよさそうだ」
小春は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
「ちゃんと払うよ」
「はい」
その「ちゃんと払うよ」が、妙にあたたかかった。
お金の話なのに、冷たくない。
むしろ、小春の手を認めている言葉だった。
代金を渡すことが、相手を大事にする形になる時がある。
前世の私は、それをあまり知らなかった。
好意なら無料。
助け合いなら無料。
身内なら無料。
そう思いがちだった。
でも、近い相手ほど、きちんと払うことで守れるものもある。
青柳屋に来てから、私はそれを何度も学んでいる。
夜、帳場で手伝い札の枚数をまとめた。
子どもたちは、よく働いた。
いや、よく散らかし、よく笑い、結果として少し働いた。
それでいい。
町の商いは、完璧な効率だけで回っているわけではない。
少しの面倒。
少しの笑い声。
少しの手間。
それらが混じって、店先はただの売り場ではなくなる。
私は帳面の端に書いた。
祭りのこぼれ布。
端切れ束、売上少々。
巾着、予約あり。
手伝い札、発行。
発行。
急に制度っぽい。
心の中の役場職員が、番号管理を始めそうになった。
やめて。
ここで様式第一号を作り出したら終わりである。
異世界まで来て、手伝い札交付申請書を作るな。
私は筆を置いた。
その時、小春が仕上げ途中の淡い青の巾着を持ってきた。
「若旦那」
「はい」
「これ、明日おみつちゃんに渡せそうです」
まだ紐は通っていない。
でも、小さな形はできていた。
祭りのあとに残った、ほんの小さな布。
それが、母親へのお礼になる。
余りものではない。
こぼれたものが、別の誰かの手の中で役目を持つ。
そういう瞬間を、私は少しずつ好きになっている。
「いいですね」
「はい」
「とても」
小春は少し照れたように笑った。
私は巾着を見ながら思った。
人も、きっと同じだ。
主役になれなかった日。
余ったように感じる時間。
うまく使えなかった気持ち。
それらにも、別の役目があるのかもしれない。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、こぼれたものをすぐ捨てずに、少し眺めてみたい。
何かになるかもしれない。
誰かの小さな袋くらいには。
そう思ったところで、藤兵衛が静かに言った。
「若旦那」
「はい」
「手伝い札の管理方法でございますが」
来た。
現実が、きっちり草履をそろえて入ってきた。
私は深く息を吸った。
「明日、考えましょう」
「本日ではなく?」
「はい」
私は帳面をそっと閉じた。
逃げたのではない。
今日は、こぼれ布が巾着になるところまで見届けたのである。




