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第12話 若旦那、余りものに明日の値をつける

 祭りの翌朝、町は少しだけ静かだった。


 昨日まで通りを照らしていた提灯は外され、山車の車輪には泥がつき、店先には竹くずや紙片が残っている。


 祭りのあと。


 その言葉には、どうしても少し寂しさが混じる。


 だが、実際の祭りのあとには、寂しさだけではない。


 片付けがある。

 帳面がある。

 余りものがある。

 そして、思ったより多いゴミがある。


 情緒は夜風に乗って帰っていくが、現実は朝になっても店先に残っている。


 前世の私も、楽しいイベントの翌朝が苦手だった。


 部屋に残った紙皿。

 冷めた唐揚げ。

 洗っていないグラス。

 財布の中から消えた紙幣。


 楽しかったはずなのに、翌朝の自分が急に現実の回収係になる。


 今回も同じだった。


 青柳屋の店先には、昨日使った布、紐、油紙、半纏の端切れが置かれている。


 藤兵衛は帳場に座り、静かに筆を動かしていた。


「若旦那」


「はい」


「祭りの出入り、まとめております」


「ありがとうございます」


「思ったより、小口が多うございます」


 来た。


 小口。


 昨日も思ったが、小口支払いという名前は詐欺に近い。


 かわいらしい顔をして、集まると普通に牙をむく。


 小口支払い、集団行動を覚えた小鬼である。


「あとで確認します」


「はい」


 藤兵衛は、それ以上追ってこなかった。


 ありがたい。


 今日は、心の胃袋がまだ祭りの焼き団子を消化している。


 帳面の油ものまで受け止めるには、少し時間が必要だった。


 そこへ、小春がやって来た。


 腕には、昨日の祭りで使った半纏が何枚か抱えられている。


「若旦那、おはようございます」


「おはようございます。片付けですか」


「はい。破れたところを見ておこうと思って」


 小春は半纏を一枚広げた。


 裾が少し裂けている。


 子どもが走って転んだのだろう。


「直りますか」


「直ります」


 小春は即答した。


 その言い方がいい。


 大丈夫です、ではない。


 直ります。


 手に職がある人の言葉は、必要以上に飾らない。


 そのかわり、芯がある。


「祭りのあとも、仕事ですね」


「祭りのあとだから、仕事です」


 小春はそう言って、半纏の裏を確認した。


 その横顔を見ながら、私は思った。


 この人は、昨日の華やかさだけを見ていない。


 破れた裾も、ほどけた紐も、子どもが転んだ跡も、ちゃんと見ている。


 祭りを支える人の目だ。


 外では太鼓が鳴っていても、裏では誰かが針を持っている。


 そういう町の仕組みが、少しずつ見えてきた。


 店の外から、声がした。


「若旦那、いるかい」


 顔を出したのは、昨日、団子を売っていた屋台の女将だった。


 名はお松というらしい。


 大きなざるを抱えている。


 中には、串から外した団子がいくつも入っていた。


「お松さん。どうされました」


「いやね、昨日の団子が残っちまって」


 お松は苦い顔をした。


「夜のうちはまだ売れるかと思ったんだけど、最後の方はみんな腹いっぱいでさ。捨てるには惜しいが、今日そのまま売るにはちょいと固い」


 ざるの中の団子を見る。


 たしかに、昨日の柔らかさはない。


 しかし、食べられないほどではなさそうだった。


「焼き直して売るのは?」


「できなくはない。でも、昨日の祭りの団子だってわかったら、嫌な顔をする客もいる」


 わかる。


 売れ残り。


 昨日のもの。


 その言葉には、少し影がつく。


 前世でもそうだった。


 値引きシールの貼られた弁当を買う時、私は助かると思いながら、どこか少しだけ自分まで値引きされたような気分になる日があった。


 あれは弁当の問題ではない。


 こちらの心の問題だ。


 でも、商いはその心も相手にする。


「他にも余っている店はありますか」


「あるよ。飴屋も、魚屋も、煮物を出した茶屋も。祭りは読みが難しいからね」


 そこへ、黒瀬伊織が通りかかった。


 通りかかった、というより、たぶん聞こえていたのだろう。


 この人の登場は、いつも絶妙に間が悪くて、絶妙に役に立つ。


「売れ残りなら、値を下げて早く捌くべきです」


 伊織は涼しい顔で言った。


「朝から正論ですね」


「朝だからです。夕方まで持てば傷みます」


「それはそうです」


「祭りの余りもの市でも開けばいい。安く売る。理由も明記する。今日中に食べるものだけ」


 私は少し黙った。


 悔しい。


 かなり悔しい。


 いい案だった。


 黒瀬伊織、性格は小石なのに、商いの判断が早い。


 またこれである。


 こういう人が職場にいると、会議では少し嫌なのに、締切前になると急に救世主の顔をする。


「余りもの市」


 小春がつぶやいた。


「名前が少し寂しくありませんか」


「事実です」


 伊織が言う。


「事実でも、言い方はあります」


 小春が静かに返した。


 おお。


 小春、強い。


 やわらかい声で、しっかり刺す。


 針仕事だけに。


 いや、今のは脳内で言っただけだ。


 口に出していたら、場が一瞬で冷えるところだった。


「では、何と呼ぶのです」


 伊織が聞く。


 小春は少し考えた。


「あと祭り市、はどうでしょう」


「あと祭り市」


 私は繰り返した。


 悪くない。


 祭りの余りものではなく、祭りの続き。


 昨日の楽しさを、今日の朝に少し持ち帰る。


 値を下げる理由もある。


 でも、捨てるためではない。


 明日の飯にするためだ。


「いいですね」


 私が言うと、小春は少し照れたように笑った。


 伊織は腕を組んだ。


「名前は悪くない」


「褒めていますか」


「保留です」


「またですか」


「ただし、条件があります」


 伊織はざるの団子を見た。


「傷んだものは出さない。今日中に食べると札に書く。値下げの理由を隠さない。飢えた人につけ込む値ではなく、無駄を減らす値にする」


 やっぱり、いいことを言う。


 言い方は硬い。


 でも、芯は通っている。


「では、青柳屋の店先を使いましょう」


 藤兵衛の筆が止まった。


「若旦那」


「はい」


「また店先で何かを始めるのでございますか」


「はい」


「帳面に欄が増えますな」


「増えますね」


「承知いたしました」


 藤兵衛は、静かに新しい紙を出した。


 この人、諦めが早くなってきている。


 いや、順応と言うべきか。


 青柳屋の帳場が、若旦那の思いつきに対する耐性を獲得しつつある。


 人間も店も、アップデートするのだ。


 お松は不安そうに言った。


「でも、売れるかねえ」


「売れるかどうかは、やってみなければわかりません」


「若旦那、最近そればっかりだね」


「便利な言葉なので」


 小春がまた笑った。


 昼前には、青柳屋の店先に小さな札が立った。


 あと祭り市。

 昨日の祭りの余りものを、今日の朝餉と昼餉に。

 今日中にお召し上がりください。


 団子は焼き直した。


 飴は少し安く並べた。


 魚屋は、昨日の残りの小魚を干物にできる分と、今日中に煮る分に分けた。


 茶屋の煮物は、お滝が状態を見て、青柳屋の台所で温め直すことになった。


 お滝は強い。


「これは今日中。これは汁に入れりゃいける。これは駄目だね」


 ばっさりだった。


 駄目なものは駄目。


 商いに情はいるが、腹を壊したら元も子もない。


 お滝の判断には、台所の現場の重みがあった。


 前世の私なら、消費期限を見ながら一人で迷っていた。


 いけるか。

 いけないか。

 においはどうか。

 いや、怖い。

 でも捨てるのは罪悪感。


 そうやって冷蔵庫の前で、現代の小さな裁判を開いていた。


 お滝は違う。


「腹に入れるもんは、迷ったら出さない」


 名言である。


 脳内の食品衛生講習会が、静かに拍手している。


 あと祭り市は、最初こそ人が遠巻きに見ていた。


 だが、お松が焼き直した団子の匂いが通りに出ると、子どもたちが寄ってきた。


「昨日の団子?」


「今日の団子だよ。昨日より少し固いから、安い」


 お松がはっきり言った。


 その言い方がよかった。


 ごまかさない。


 だから買いやすい。


 子どもが一串買い、それを見た母親が飴を買い、通りがかりの職人が煮物を買った。


 大きく儲かる商いではない。


 だが、捨てるはずだったものが、誰かの昼餉になっていく。


 それは、見ていて悪くない光景だった。


 銀次もやって来た。


 昨日までより、少し明るい顔をしている。


「若旦那、何か運びますか」


「では、この煮物を西町の長屋まで」


「へい」


「ただし、急ぎすぎずに」


「揺らさず、濡らさず、こぼさず、ですね」


「増えましたね」


「増えました」


 銀次は笑った。


 笑えるようになった。


 それだけで、少し胸が軽くなる。


 小春は、余った端切れを子ども向けの小さな巾着にできないか見ていた。


「これも、捨てるには惜しいです」


「巾着に?」


「はい。祭りの半纏の端切れで作った巾着なら、子どもたちも喜ぶかもしれません」


「あと祭り巾着」


「そのままですね」


「名前を考えるのは難しいのです」


 すると伊織が横から言った。


「祭りのこぼれ布」


 私と小春は同時に伊織を見た。


 意外と詩的な名前を出してきた。


 黒瀬伊織、たまに変なところで情緒を見せる。


「……いいですね」


 小春が言った。


 伊織は少しだけ視線をそらした。


「思いつきです」


「採用しましょう」


 私が言うと、伊織は眉を寄せた。


「簡単に採用しすぎでは」


「いいものは採用します」


「軽いですね」


「早いと言ってください」


 伊織は何も言わなかったが、少しだけ口元が緩んだ気がした。


 あと祭り市は、昼過ぎにはほとんど売り切れた。


 お松の団子も、飴屋の飴も、魚屋の小魚も、茶屋の煮物も、それぞれ誰かの腹に収まった。


 もちろん、大儲けではない。


 むしろ手間を考えれば、帳面上は微妙かもしれない。


 だが、店主たちの顔は、朝より少し明るかった。


 捨てずに済んだ。


 安くても、ちゃんと理由をつけて渡せた。


 それだけで、人は少し救われることがある。


「若旦那、助かったよ」


 お松が団子のざるを抱えて言った。


「いえ、小春さんの名前と、伊織さんの条件と、お滝さんの判断です」


「でも、店先を出してくれたのは若旦那だ」


「青柳屋も、少し売上をいただいていますから」


「そこを言うのが若旦那らしいね」


 そうか。


 らしいのか。


 自分ではまだ、若旦那らしさがよくわからない。


 けれど、前世の私なら、ここで「いえいえ、そんな」と全部無償のような顔をしていた気がする。


 そしてあとで一人になって、少し疲れていた。


 今は違う。


 助ける。


 でも、青柳屋も潰さない。


 情と算盤を、同じ帳面に置く。


 それが少しずつ、私の若旦那らしさになっているのかもしれない。


 夕方、あと祭り市の片付けをしていると、お滝が小さな椀を持ってきた。


「若旦那、食べな」


「これは?」


「あと祭り粥だよ」


 椀の中には、昨日の残りの野菜と、今日の小魚が入った粥があった。


 湯気が立っている。


 いい匂いだった。


「残りものですか」


「言い方」


「すみません」


「明日の腹に入れば、残りものじゃない。ごはんだよ」


 お滝はそう言った。


 私は椀を受け取った。


 一口食べる。


 やさしい味がした。


 祭りの派手な味ではない。


 焼き団子や飴や酒の匂いとは違う。


 でも、身体の奥にゆっくり戻ってくる味だった。


 ああ。


 これだ。


 祭りのあとに必要なのは、こういう味なのかもしれない。


 浮かれた町を、いつもの朝へ戻す味。


 昨日の余りものを、明日の力へ変える味。


 前世の私も、こういう粥がほしかった日があった。


 疲れたイベントの翌朝。


 失敗した日の夜。


 楽しかったのに寂しくなった帰り道。


 誰かが何も聞かずに、温かいものを出してくれたら、それだけで少し戻れたかもしれない。


「おいしいです」


 私が言うと、お滝は満足そうに笑った。


「そりゃよかった」


 その時、脳内のウルフルズが、明日がある方向へ拳を上げかけた。


 いや、今日はそこまで元気にいかなくていい。


 まだ胃が祭りのあとである。


 でも、明日はある。


 あるから、今日の余りものを捨てずに、少し形を変えて食べる。


 それくらいの明日でいい。


 いきなり人生を変えなくてもいい。


 粥を一杯食べて、暖簾を上げる。


 それで十分な朝もある。


 夜、私は帳場で今日のあと祭り市を書きつけた。


 団子、売上少々。

 飴、売上少々。

 煮物、配達あり。

 端切れ、祭りのこぼれ布として保留。

 あと祭り粥、非売品。


 非売品。


 その三文字を見て、少し笑った。


 売らないものにも、値がある。


 売れ残りにも、明日の役目がある。


 失敗した仕事にも、戻る道がある。


 祭りのあとに残るものは、寂しさだけではない。


 次の朝を作る材料でもある。


 私は帳面を閉じた。


 逃げたのではない。


 今日は、明日の朝に少しだけ腹を残しておくために、閉じたのである。

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