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白百合の静寂

 アリシアが起きてきたのはずいぶん遅い時間だった。

 昨夜、共に話をしていた弟フェルナンは、いつもと同じ時間に起き、今日も仕事に向かっていた。

 アリシアはレティシアに今日の夕方には帰ると告げ、世話になったことに礼を言った。そして昔と同じように世間話に花を咲かせながらも、レティシアの日常に差し障らない程度で切り上げた。


 午後も少し遅めの時間に散歩に行くと言って、アリシアはフェルディと共に屋敷を出た。

 東屋につくと、アリシアは自分とフェルディの、見た目は同じ指輪を確認した。

 いつしかすり替えられた指輪。ずっと昔に壊れたはずの…。

 アリシアは、フェルディと少し距離をとりながら、屋敷から少し離れた丘を目指して歩きだした。


 夕暮れが近づいてくる。

 息を荒らしながら歩いたその先に、かつて自分がこっそりと植えた白い百合の花が、その数を増やして咲き誇っていた。もうずいぶん昔、まだ黒い森に行くこともなく、王城で侍女をするために家を出るよりもまだ前。

 自分にはふさわしい場所だと、そう思った。かつて自分の体が消えた場所にも近い。

「アリシア」

 銀の髪の、黒い者が現れた。

「迎えに来た」

 普段通りの表情だった。

 その目の前で、アリシアは崩れるように座り込み、地面に両手をつけてかろうじて体を起こしていた。

 アリシアの目は、黒い森の館の主を見なかった。

 起こそうと近づこうとした館の主に

「お別れの時が来たわ」

 そう告げるや否や、アリシアの周りに薄い緑色の透明な膜が張り、館の主と隔てた。

 そのまま腕から力がなくなり、ゆっくりと地面に横たわる。きらりと光る粒が、体の外に少しづつ押し出されていく。

 緑色の膜の中にはフェルディが立っていた。にもかかわらず、アリシアに生きるための力は供給されていない。

「何故だ」

 館の主の言葉が揺れた。

「アリシアの死は、お前の報いだ」

 フェルディの声をした何かが言った。

「今更死せる魂を生き永らえようとしても、苦しむだけだ」

 館の主は呪言の玉を手に出したが、それが形を成す前に爆ぜて消えた。何度出しても同じだった。

 フェルディの顔をしたものが、冷たい目で見つめていた。

「私を閉じ込めないで」

 アリシアが、目から涙をこぼしながら館の主を見ていた。

「もう嫌なの。歩けないのも、話せないのも、あなたを抱きしめることもできないのも」

 体から出る光が、ゆっくりとまとまり、小さな光の塊になろうとしている。

「誰かの体を奪って生きる必要なんてない。私は、きっと生まれ変わる」

「それは君ではない」

「生まれ変わった私は、自分の足で立って、走って、そして、きっとまたあなたを好きになるわ」

 アリシアは、今日初めて館の主に笑みを見せた。手がその姿を追う。

「でもあなたは、きっと私に気が付かない。1度だけ、チャンスをあげるわ。もしあなたが気が付かなかったら、私は次に好きになった人と、普通に暮らし、普通に生きる。…きっとそうするわ」

 やがて笑みは消えた。館の主に向かって伸ばされていた手も、地面に落ちた。


「お前はアリシアを助けると言った」

 フェルディの声をした者が、近寄ろうとする館の主の足元に、牽制の雷を落とした。

「お前は我が祝福の指輪をすり替えた。自分の力こそアリシアを守れると驕り、魔をはじくだけの子供じみた魔具を渡し、人の世に向かわせた。だから瘴気もろくに払えず、指から抜け落ち、魔物を引き寄せ、アリシアを砕いたのだ」

 誰も知り得なかった、アリシアの指輪のことを知っている。

「…アリシアの使い魔か」

「使い魔ではないわ。あなたはずっとそう呼んだけれど」

 アリシアの声が、悲しみに満ちる。

「私の友達。白百合の王、…リーフィ」

 フェルディに重なるように、薄緑色の髪に、濃い緑の瞳が光った。

 白百合の王。

 北の魔女が作った指輪の中でも最も力を秘めた、かつて一度はアリシアに与えた『白百合の静寂』。

「もしこの者の手に誠の指輪があったなら、魔物を退け、魔法を使う人間を払い、アリシアも、テレシアも、どちらも助け得ただろう」

 言葉は淡々と語られ、表情も崩さなかったが、怒りに満ちていることはありありとわかった。

 リーフィはアリシアの指につけられた、ただの魔具、偽の『白百合の静寂』を指から抜くと、館の主に向けた。

「しかも、指輪の名を騙り、下賤な魔法使いと娘の命の取引に使おうとは、この私を愚弄するにも程がある」

 言葉の力で、魔王とまで呼ばれる魔族の男が作った魔具の指輪は、ひとかけらの破片も残さず粉々に砕け散り、消えた。

「お前はアリシアが襲われた時、出遅れた。お前はどこにいた? この国の王と会い、娘と引き換えにアリシアを見逃す取引に応じていた。そうだろう」

 リーフィの言葉は、まさにその通りだった。

 アリシアさえ無事であれば、他はどうでもよかった。

「私の願いは、あなたとテレシアと、共に生きることだったのに…。私は遠くで暮らしてもよかった。あなたとテレシアがいれば。父が森を燃やすというなら、森を離れ、テレシアを守り、あなたと生きることを選びたかった。あなたがテレシアを渡そうとしなければ」

 アリシアは、知っていた。

 アリシアを守るために、魔王と呼ばれた自分が取引に応じようとしたことを。アリシアの父とも、かの国の王とも、そして他国のものとも。皆求めたものは、自分と似た力を持つ娘だった。

 そしてそれこそが、アリシアの守りたいものであったにもかかわらず、守るということを考えたこともなかった。

 その自分の意志が、今ここに形になっている。

 魂を抜かれた娘の体と、それを守り、入れ替わることを望まず、消えていこうとする最愛のアリシア。

 アリシアの言葉を受け入れ、テレシアを守っていれば、アリシアは父との交渉のため家に戻ることはなかったのか。

 そんな考えに及ぶことはなかった。

 精霊の加護があれど、北の魔女ごときが作った指輪より自分の作った指輪の方が多くの力を蓄え、守りが強いと思わなければ、アリシアは…。

 アリシアが命を落としたのは、自分のせいなのか?

 今までたどり着かなかった答えに、館の主、ヴィットリオは打ち震えた。

 テレシアの体から抜け出した光が集まる。

 ヴィットリオは呪言の玉を取り出すが、またすぐにはじけ飛んだ。

 光がくるくると回りながら、さらにまとまっていく。

 それを狙うように、どこからか魔物が飛び出す。あの時のように。

 リーフィの作ったバリアに魔物が体当たりし、ひびが走る。

 別の魔物が現れる。

 次々と現れる魔物は魔王の味方をすることはなく、欲望のまま、ただ光の塊を、むき出しの心を狙う。あの時と同じように…

 緑の精霊がその手に古き霊樹で作られた杖を出し、人には聞こえない呪文を唱える。

 その精霊とは違う声が、壊れかけたバリアの中でゆっくりと呪文を紡ぐ。

 「陽は陰り

  月は満ち

  月の影こそ光なり

  闇が降り

  冥を裂き

  もれし光は満つる星」

 呪言に、術者の指にはめられた指輪が光を増した。

 光を浴びた魔物がその光に影を失い、砕け、消えた。

 なお光は力を増し、目が眩むほどの威力となる。

 一瞬怯みそうになったフェルディの左手に、後ろから手が添えられた、そう感じた。

 耳元に聞こえる声なき声。

  迷うな、…行け

 添えられた力は、よく知っているものだった。

 その声に、頷きで答えた。

 衝撃はなく、ただまぶしいだけの光が、指輪を中心に、半径1キロにわたって広がった。


 ゆっくりと緩まっていく光に、アリシアの光は重なり、溶け、

  ありがとう

を意味する音を残して、消えていった。

 ――見事だ。

 白百合の王も、ゆっくりと姿を消す。

 魔王もまた、いなくなっていた。

 残ったのは、横たわったままの、空っぽのテレシアと、立ったまま息を荒げるフェルディの二人だけだった。

 遠くに赤い月が昇ろうとしていた。


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