魔王とアリシア
現リーヴェ家の当主・フェルナン・リーヴェの姉、アリシアは、父の命により隣国の公爵家の次男の元へ嫁ぐために馬車で移動中、魔物に襲われた。国境に近い、薄暗い森の中だった。
護衛の半分が殺され、自身も深い傷を負い、死を覚悟したとき、たまたま通りすがったヴィットリオが魔物を蹴散らし、一行を自身の館に迎え入れた。
人間とかかわることを良しとしないヴィットリオは、傷が治り次第立ち去ることを求めたが、アリシアは傷が癒えても帰りたくない、と言った。
アリシアは、自分の婚約者がろくでもない人間であることを知っていた。
妻をめとる前から複数の女を侍らせ、ギャンブルで公爵家の財を食い荒らす。ずっと父に婚約を見直すよう説得し、母も弟も何度も説得を試みたが、王と父の心を変えるに至らず、またその二人の決めたことを覆せるものはこの国にはいなかった。
気の進まない結婚へ向かう道中の事故。救われたのは、魔物からだけではなかった。
侍女でいいので、この屋敷に残してほしい。
懇願する女に、ヴィットリオは好きにするといいと返事をした。
生き残れど、おびえる従者達には襲われた記憶を消し、それぞれの故郷に帰らせた。残ったのはアリシア一人だった。
王宮で侍女の経験があったアリシアは、働き手の少ない「黒い森の館」でてきぱきと仕事をこなした。
同僚の魔族や時々庭に出る魔物に、はじめは恐怖を感じていたが、すぐに慣れ、何匹かは「友」になっていた。
魔力が小さいため、瘴気にのまれ体調を悪くすることもあったが、ヴィットリオが瘴気を払う魔法をかけると生気を取り戻し、またにこやかに働く。
ヴィットリオは何十年ぶりかに人間に興味を持った自分に気が付いた。
自分の手間を省くため、と瘴気を消す指輪を与え、外れないよう魔法を付した後で、アリシアから左手の薬指には特別な意味がある、と聞かされた。
しっかりと封印をしたので外して付け直すには1年以上は待つしかないと告げると、頬を赤らめたアリシアを、愛しいと思った。
間もなく二人はその恋を実らせた。
魔力の差を考え、子供はいないほうがいい、とヴィットリオは思っていた。しかし、5年が過ぎ、子供ができたと喜ぶ妻。あきらめることをほのめかすと、あなたとの子供が欲しい、とめったに言わないわがままを口にされ、どうしても反対できなかった。
瘴気を消す指輪は抗魔の指輪でもあり、魔族の血を引く子供の事を考えるとつけておく訳にはいかなかった。
瘴気を排除した特別な部屋で過ごし、難産ながらも何とか無事に生まれた娘に、ヴィットリオは「テレシア」と名付けた。
せっかく女の子に生まれながら、自分に似すぎていたのを残念だ、と言ったが、妻はだからこそ愛しくて仕方がないと言った。
テレシアが生まれて2年と半年が過ぎる頃、魔物討伐に来た一行がたまたま庭で遊んでいたアリシアとテレシアを見つけた。
それ以降、王から何度も召喚状が来るようになった。
人が魔王と呼ぶ存在に命ぜられるものなどないとヴィットリオは言ったが、国と諍いを起こすことを心配したアリシアは、父に挨拶をする、すぐに戻る、と、テレシアを連れて森の屋敷を後にした。
あまりよくない「予感」じみたもので、胸がざわついた。
長くこの屋敷に住んでいたので、瘴気が思わぬところに残っている。瘴気は瘴気を呼ぶ。
決して指輪は外さないよう伝えた。
無事だった娘アリシアを嬉々として迎えた先代リーヴェ侯は、一緒についてきた、娘とは似ても似つかない孫をあまりかわいいと思えなかった。
しかし、その中に潜む魔力を確かめた時、魔王を欺くことを企んだ。
姉の夫が時々様子を見に来るのを、弟であるフェルナンは気が付いていた。
はじめはいけ好かない奴だと思ったが、姉の嬉しそうな姿を幾度か見るうちに、二人の敵になるのをやめた。知らぬふりをして客室に招き入れ、姉と会わせたことも何度かあった。
そのたびに美しい姉はますます美しくなり、魔族と呼ばれはしていても、魔王であっても、姉を幸せにできるのはこの男しかいないのだ、と敗北を認めた。
しかし、父は、姉も孫娘も、魔王の元に戻すことを渋り続ける。
このままでは王国の安全を揺るがすかもしれないと説得を試みても、魔王に屈するわけにはいかない、と子供じみた言い訳を繰り返す。
あまり感情を表に出さないヴィットリオが、家にたまる瘴気を気にし、フェルナンにも忠告した。
指輪は外さないように。
それを耳にした父が、あの指輪のせいでアリシアは心を乗っ取られている、騙されていると言い始めた。
何を言われようと、アリシアはその指輪を外すことはなかった。
しかし、ある日。父は隣国の王家との縁談を持って家に戻った。
子供がいることを承知の上で、娘ごとアリシアを引き取ってやる、その言い様は魔王夫人であることを嘲り、傷物を救ってやるかのようだった。
アリシアは拒否した。いつもは父に同調する王でさえ、留保するよう促した。
そうしないうちに、何の約束もなく隣国から来た魔法使いが3人がかりでアリシアの手から指輪を取った。
皆、指輪が価値あるものだと気が付いていた。外した後は持ち帰る算段だった。
指輪は、アリシアの身を案じて魔力が増され、その分抜けない魔法が弱まっていた。
魔法で揺るがされた指輪は、心労でやせた指からすぽりと簡単に抜けた。
あっという間に瘴気がアリシアを襲った。
屋敷に溜まっていた瘴気も、外の世界の瘴気も、その全てが指輪の持ち主、そしてその娘に集まった。
アリシアの傍には友だった使い魔がいたが、友の願いで友ではなく娘を守った。
欲にまみれた魔法使いの攻撃。指輪を狙っていたのは人間だけではない。魔物もまた、その中にある魔力を狙い、一斉にとびかかった。
魔物がさらに瘴気を連れてくる。
事態に気が付いたヴィットリオが向かったその目の前で、瘴気に弱り、魔物の爪に傷ついたアリシアの流れ出す命を止めることができなかった。
間もなく、ヴィットリオの腕の中でアリシアは息を引き取った。
ヴィットリオは、こんな時なのに自分は冷静だと思った。
人ははかない。人は長く生きられない。
そんなのは当たり前だ。
アリシアがいつか自分を置いていなくなる。そんなことはわかっていた。わかっていたから人を寄せなかったのに、それでも、たとえ短くともそばにいたいと、共に生きたいと願わせる人だった。
花のように儚く、散ってしまったアリシア…
冷静だと思い込んでいた自分を我に返らせたのは、アリシアの弟、フェルナンだった。
魔物も、隣国の魔法使いも、アリシアの父も、瘴気も、すべてなくなっていた。この場所から遠く離れたこの国の王を含め、アリシアを害したすべてが消え去り、沈黙が広がっていた。
アリシアの体を胸に抱き、生まれてからほぼ記憶にない、目からこぼれるものに戸惑いながら、ヴィットリオは侯爵邸から立ち去った。
父の葬儀を終え、侯爵の爵位はフェルナンが引き継いだ。
魔王が連れて行かなかった姉の娘を、フェルナンは自身の娘として育てることにした。
その後もフェルナンとヴィットリオは時々会っていた。
姉の命日に花を添えるため、黒き森の館に行くことも許された。
娘の話には当初あまり関心を見せなかったが、ちゃんと聞いていて、時々様子を見に来ているのも知っていた。
あの事件以降笑わなくなったこと、魔力が強すぎて他の子となじめないこと、人との関係をうまく作れず、引きこもりがちになっていると聞いて、少し渋い顔をしたが、特に口出しはしなかった。
魔物討伐に興味をもつようになり、屋敷を抜け出す話をしたら、
「魔族は魔物とは関わらぬものだ。統治も討伐も意味はない」
とやんわりと反対しながらも、仇なすものを間引く程度ならやむを得まい、と悪い笑顔を見せた。
ようやく見せた感情の破片だった。
それ以上にヴィットリオの心を揺るがせたのは、実の娘以上にそっくりな、妻と同じ名を持つ姪アリシアが美しく着飾り、その誉をたたえられ、微笑む姿だった。
あれはアリシアではない、とわかっていたが、かつてときめいた思いが胸に広がり、その姿をもう一度見るには四聖としての功績が必要だと知り、娘が影の四聖として活躍することを放任した。
やがて、自分のアリシアではないアリシアが別の男に恋をしていることに気が付いた魔王は、邪魔することなく、短い夢を見せてくれた礼に若い二人を祝福することにした。
それには、アリシアの引退が必要だった。アリシアの引退は、娘テレシアの引退をも意味する。一石二鳥だった。
引退ついでに、数日間、二人きりの世界を楽しむといい。
軽い気持ちでかけた呪いは、気持ちは軽かろうと優秀な魔女の習作をもとに魔王が呪した呪いだった。
天空狼の心臓に仕込んだ呪いは、アリシアの思い人である四聖の男が受け、真実の口づけであっという間に解呪されるはずだったのだが、もう一人、テレシア・「アリシア」・リーヴェは自らを犠牲に、的確に呪われた。
ヴィットリオはこの成り行きに驚かなかった。こういう結末もいいとさえ思った。
娘が過ぎた魔力を持ち続けるより、魔力を削ぎ落し、いっそなくしてしまった方が人の世界では生きやすい。
魔力がなくとも、あの微笑みの力でいとも簡単に魔王を虜にした、アリシアのように。
しかし、娘は魔王似だった。




