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正法眼蔵 三界唯心

 釈迦牟尼仏は「三界唯一心。

心外無別法。

心仏及衆生、是三無差別」、

「三界は唯一の心である。三界は唯一の心で出来ている。

心の(ほか)に別の法は無い。

心、仏、および、生者は、三つの全く異なる別のものではない」と言った。



 この一句の言葉は、釈迦牟尼仏の一代の力を挙げた物である。

 釈迦牟尼仏の一代の力を挙げた物とは、釈迦牟尼仏の力を尽くして全てを挙げた物である。

 たとえ強引な行いであっても、行う事ができる行いなのである。

 (原文は「たとひ強為の為なりとも、云為の為なるへし」。)

 このため、如来、釈迦牟尼仏の「三界唯心」、「三界は唯一の心で出来ている」という言葉は、如来の全てが全て形成されて現されているのである。

 釈迦牟尼仏の一代の力の全てが、全て、この一句に表されているのである。

 (原文は「全一代は全一句なり」。)


 三界とは、全ての世界なのである。

 「三界のそのままが心その物なのである」と言っているわけではない。

 なぜなら、三界は、「八面」、「四方八方」に、どれだけ宝玉のように美しくても、なお三界なのである。

 三界を「三界ではない」と誤って表しても、全く表す事ができていないのである。

 三界の、内外と中間や、最初と中間と最後は皆、三界なのである。

 三界は、三界を見たままのような物なのである。

 三界についての、三界ではないかのような所見は、三界を正しく見ていないのである。

 三界では、三界の所見を古巣とするし、三界の所見を新しい物とする。

 古巣も三界の所見であるし、新しい物も三界の所見である。



 このため、釈迦牟尼仏は「不如三界、見於三界」、「(釈迦牟尼仏が見ている三界は、)三界における凡人が、三界を見るようではない」と言った。

 (「不如三界、見於三界」は意味が諸説有る。)



 この(仏が)見たままであるのが、三界なのである。

 この三界は、見たままのような物なのである。


 三界は「本有」、「(もと)から有る物」ではないし、

三界は「今有」、「今だけ有る物」ではないし、

三界は「新成」、「新しく形成されている物」ではないし、

三界は「因縁生」、「因縁によって生じている物」ではないし、

三界は「初中後」、「最初であり中間であり最後である物」ではない。


 「出離三界」、「(火事の家のように苦に満ちている)三界を出て離れる事」が有るし、

「法華経」の「譬喩品」の「今此三界(、皆是我有、其中衆生、悉是吾子)」、「今この三界(は皆、私、釈迦牟尼仏が所有していて、三界の中の生者は、ことごとく私、釈迦牟尼仏の子である事)」が有るが、

これは機関が機関と(まみ)えたのであるし、

葛藤が葛藤を生じさせ成長させているのである。


 「今この三界(は皆、私、釈迦牟尼仏が所有していて、三界の中の生者は、ことごとく私、釈迦牟尼仏の子である)」とは、釈迦牟尼仏の三界についての所見なのである。

 釈迦牟尼仏の三界についての所見とは、「釈迦牟尼仏が見ている三界は、三界における凡人が、三界を見るようではない」のである。

 「釈迦牟尼仏が見ている三界は、三界における凡人が、三界を見るようではない」とは、三界を形成させて現す事であるし、三界が形成されて現される事であるし、「公案」、「手がかり」を形成させて現す事である。

 ()く三界を「発心、修行、菩提、涅槃」、「心する事、修行、覚、寂滅」に成らせる。

 これが、「(今この三界は)皆、私、釈迦牟尼仏が所有してい(て、三界の中の生者は、ことごとく私、釈迦牟尼仏の子であ)る」なのである。



 「法華経」の「譬喩品」で釈迦牟尼仏は「今此三界、皆是我有、其中衆生、悉是吾子」、「今この三界は皆、私、釈迦牟尼仏が所有していて、三界の中の生者は、ことごとく私、釈迦牟尼仏の子である」と言った。



 「今この三界」は、「私、如来、釈迦牟尼仏が所有している」ので、(ことごと)くの世界は皆、三界なのである。

 三界とは(ことごと)くの世界であるので、「今この三界」とは過去、現在、未来なのである。

 過去、現在、未来が形成されて現されている事は、「今この三界」を(さえぎ)らない。

 「今この三界」が形成されて現されている事は、過去、現在、未来を(さえぎ)らない。

 (原文の「罣礙するなり」は誤りだと思われる。)


 「今この三界は皆、私、釈迦牟尼仏が所有している」とは、「尽十方界は真実の人の体である」事なのであるし、「尽十方界は『沙門』、『僧』の一つの単眼である」事なのである。


 「三界の中の生者」とは、「尽十方界は真の実体である」事なのである。

 各々の生者は生の集まりであるので生者なのである。

 (原文は「一一衆生の生衆なるゆえに衆生なり」。)


 「三界の中の生者は、ことごとく私、釈迦牟尼仏の子である」とは、(仏の)子の全ての機関が現れている道理なのである。

 ただし、「私、釈迦牟尼仏の子」は必ず身体髪膚を、慈悲深い父(である仏)によって受け、破壊せず、欠損させないのを、「(仏の)子として形成されて現されている」とする。

 今は、父が前で子が後ではなく、子が先で父が後ではなく、父と子を並べないのを「私、釈迦牟尼仏の子」の道理と言うのである。

 与えられるわけではないが(仏の)子としての身体髪膚を受けるし、

奪うわけではないが(仏の)子としての身体髪膚を得る。

 過去や未来の相ではなく、大小の量ではなく、老いている、若い、の論理ではなく、老いている、若いを仏祖の「法華経」の「従地涌出品」の「父少而子老」、「父は若く、子は老いている」のように保持し任せるべきである。

 父は若く、子は老いている事が有るし、

父は老い、子は若い事が有るし、

父も老い、子も老いている事が有るし、

父も若く、子も若い事が有る。

 父の老いを学ぶのは(仏の)子ではない。

 子の若さを経ていないのは父(である仏)ではない。

 子の老いている、若いと、父の老いている、若いを必ず明確に詳細に鍛錬して参入して究めるべきである。軽率であるべきではない。

 同時に生じて現れる父と子がいる。

 同時に現れて滅ぶ父と子がいる。

 同時にではなく生じて現れる父と子がいる。

 同時にではなく現れて滅ぶ父と子がいる。

 慈悲深い父(である仏)を(さえぎ)らず「私、釈迦牟尼仏の子」として形成されて現される。

 「私、釈迦牟尼仏の子」を(さえぎ)らず慈悲深い父(である仏)は形成されて現される。

 心ある生者がいるし、心無い生者がいる。

 心ある「私、釈迦牟尼仏の子」がいるし、心無い「私、釈迦牟尼仏の子」がいる。

 このように、「私、釈迦牟尼仏の子」、「釈迦牟尼仏の子である私」は(ことごと)く釈迦牟尼仏という慈悲深い父の後継者である。

 十方の(ことごと)くの世界の、あらゆる過去、現在、未来の諸々の生者は、十方の(ことごと)くの世界の過去、現在、未来の諸仏なのである。

 「私、諸仏の子」は生者なのである。

 生者の慈悲深い父は諸仏なのである。

 そのため、「百草」、「森羅万象」の華と果実は「私、諸仏が所有している」のである。

 大小の岩石は「私、諸仏が所有している」のである。

 諸仏が「安らぐ場所」は「森林と野原」なのであるし、

諸仏は森林と野原を「既に離れている」のである。

 (

 「法華経」の「譬喩品」には「安所林野」、「如来は、森林と野原を安らぐ場所としている」と記されている。

 「法華経」の「譬喩品」には「如来已離、三界火宅」、「如来は三界という火事の家を既に離れている」と記されている。

 )

 しかも、このようであっても、如来、釈迦牟尼仏の言葉の主旨は「(三界の中の生者は、ことごとく)私、釈迦牟尼仏の子である」という言葉のみなのであり、父である釈迦牟尼仏についての言葉は未だ無いのである、と参入して究めるべきである。



 釈迦牟尼仏は「諸仏、応、化、法身、亦不出三界。

三界外無衆生。

仏何所化?

是故我言、『三界外別有一衆生界蔵者、外道大有経中説、非七仏之所説』」、

「諸仏の法身、応身、化身もまた三界を出ない。

三界の外に生者はいない。

仏は何を化して導くのか? 仏は生者を化して導くのである!

このため、私、釈迦牟尼仏は『三界の(ほか)に別に生者を内蔵する一つの世界が有る、と言ってしまうのは、外道の大有経の中の説であり、過去七仏の所説ではない』と言う」と言った。



 明らかに参入して究めるべきである。

 諸仏の法身、応身、化身は皆、三界なのである。

 三界は(ほか)に無いのである。

 例えば、如来、釈迦牟尼仏が(ほか)にいないような物であるし、牆壁が(ほか)に無いような物である。

 三界が(ほか)に無いように、生者は(ほか)にいないのである。

 生者がいない場所で、「仏は何を化して導くのか?」。

 仏が化して導くのは必ず生者なのである。

 知るべきである。

 三界の(ほか)に生者を内蔵する一つの世界が有る、と言ってしまうのは、外道の大有経であり、過去七仏の経ではないのである。

 「唯心」、「唯一の心」とは、一つや二つの心ではないし、

(そのまま、)三界ではないし、

三界を出ているものではないし、

誤りが無いし、

慮知念覚が有る事が有るし、慮知念覚が無い事が有るし、(原文は「有慮知念覚なり、無慮知念覚なり」。)

牆壁や瓦礫であるし、

山や河や大地である。

 心とは「皮肉骨髄」、「理解」であるし、

心とは釈迦牟尼仏の「拈華瞬目」と初祖の摩訶迦葉の「破顔微笑」であるし、

心ある事が有るし、心無い事が有るし、(原文は「有心あり、無心あり」。)

身が有る心が有るし、身が無い心が有るし、

身より先の心が有るし、身より後の心が有る。


 身を生じるのに胎卵湿化といった種類が有るし、心を生じるのにも胎卵湿化といった種類が有る。


 青、黄、赤、白は心である。

 長短や、角ばっている、丸い、は心である。

 生と死が来たり去ったりするのは心なのである。

 年月、日時は心である。

 夢幻、空華は心である。

 水しぶき、泡、「火」は心である。

 春花秋月は心である。

 一時は心である。

 けれども、心は破壊できない。

 このため、諸法の実の相である心なのであるし、「仏と仏だけ(が能く究め尽せる、諸法の実の相)」である心なのである。



 宗一大師と呼ばれる玄沙師備は、地蔵院の、真応大師と呼ばれる羅漢桂琛に、「『三界唯心』、『三界は唯一の心で出来ている』という釈迦牟尼仏の言葉をあなたは、どのように理解しているのですか?」と質問した。

 羅漢桂琛は、椅子(イス)を指して、「和尚様、玄沙師備様は、これを何と呼んで何と()しますか?」と言った。

 玄沙師備は、「『椅子(イス)』と呼んで『椅子(イス)』と()します」と言った。

 羅漢桂琛は、「和尚様、玄沙師備様は、『三界唯心』、『三界は唯一の心で出来ている』という釈迦牟尼仏の言葉を理解していません」と言った。

 玄沙師備は、「(『椅子』は『竹や木』で出来ているので、)私は、これを『竹や木』と呼んで『竹や木』と()します。あなたは何と呼んで何と()しますか?」と言った。

 羅漢桂琛は、「羅漢桂琛もまた、これを『竹や木』と呼んで『竹や木』と()します」と言った。

 玄沙師備は、「尽大地で一人の仏法を理解している人を求めても得る事は不可能である」と言った。



 玄沙師備の「『三界唯心』、『三界は唯一の心で出来ている』という釈迦牟尼仏の言葉をあなたは、どのように理解しているのか?」という質問では、どのように理解していても、どのようにも未だ理解していなくても、同じく、「三界唯心」なのである。

 このため、未だ「三界唯心」ではないのである。


 このため、羅漢桂琛は、椅子(イス)を指して、「和尚、玄沙師備は、これを何と呼んで何と()すのか?」と言った。

 知るべきである。

 「『三界唯心』、『三界は唯一の心で出来ている』という釈迦牟尼仏の言葉をあなたは、どのように理解しているのか?」という質問は、「これを何と呼んで何と()すのか?」という質問に成るのである。


 玄沙師備は、「『椅子(イス)』と呼んで『椅子(イス)』と()す」と言ったが、三界を理解して言っているのか?

 三界を理解しないで言っているのか?

 三界を言っているのか?

 三界そのままではない唯一の心を言っているのか?

 椅子(イス)を言っているのか?

 玄沙師備の心を言っているのか?

 このように試しに言ってみて言葉を究めるべきである。

 試しに理解しようとしてみる、理解して取る方法が有るし、

試しに参入してみる、参入して究める方法が有る。


 羅漢桂琛は、「和尚、玄沙師備は、『三界唯心』、『三界は唯一の心で出来ている』という釈迦牟尼仏の言葉を理解していない」と言った。

 この言葉は、例えば、趙州真際大師に言った言葉の中の「東門」や「南門」が有っても、さらに「西門」や「北門」が有る。

 (原文は「たとへは道趙州するなかの東門、南門なりといへとも、さらに西門、北門あるへし」。)

 さらに、東の趙州真際大師や、南の趙州真際大師がいる。

 たとえ「三界は唯一の心で出来ている」についての理解が有っても、さらに「三界は唯一の心で出来ている」について理解していない所に参入して究めるべきである。

 さらに、また、理解している、理解していない、ではない「三界唯心」が有る。


 玄沙師備は、「私は、これを『竹や木』と呼んで『竹や木』と()す」と言った。

 この言葉は、必ず、言葉に成る前を照らし、言葉に成った後を絶つ、「節目」、「区切り」に参入し(とお)すべきである。

 (

 原文は「この道取かならす声前句後に光前絶後の節目を参徹すへし」。

 「声前句後」は「声に成る前と句に成った後」を意味する。

 「光前絶後」は「前を照らし後を絶つ」を意味する。

 )

 「私は、これを『竹や木』と呼んで『竹や木』と()す」と言うが、今「竹や木」と呼んで「竹や木」と()すより前は、どういった物であると呼んで、どういった物であると()していたのか?

 従来の、「八面」、「四方八方」に、宝玉のように美しい、「最初も中間も最後も」竹や木であるとするのか?

 今「『竹や木』と呼んで『竹や木』と()す」と言っているのは、「三界は唯一の心で出来ている」と言っている、とするのか? 「三界は唯一の心で出来ている」とは言っていない、とするのか?

 知るべきである。

 朝に「三界は唯一の心で出来ている」と言った時には、たとえ「椅子(イス)」であっても、たとえ「唯心」、「唯一の心」であっても、たとえ「三界」であっても、夕暮れに「三界は唯一の心で出来ている」と言う時には、「私は、これを『竹や木』と呼んで『竹や木』と()す」と言う事ができるのである。


 羅漢桂琛は、「羅漢桂琛もまた、これを『竹や木』と呼んで『竹や木』と()す」と言った。

 知るべきである。

 玄沙師備と羅漢桂琛、師弟が対面して言っているのであるが、釈迦牟尼仏の「三界唯心」という言葉に同じく参入した事による「頭が正しいので尾も正しい」なのである。

 ただし、玄沙師備の「私は、これを『竹や木』と呼んで『竹や木』と()す」という言葉と、羅漢桂琛の「羅漢桂琛もまた、これを『竹や木』と呼んで『竹や木』と()す」という言葉は、同じであるのか? 異なるのか? 正しいのか? 正しくないのか? と参入して究めるべきである。


 玄沙師備は、「尽大地で一人の仏法を理解している人を求めても得る事は不可能である」と言った。

 この言葉をも明確に詳細に、わきまえて受け入れるべきである。

 知るべきである。

 玄沙師備も「『竹や木』と呼んで『竹や木』と()す」だけなのであるし、羅漢桂琛も「『竹や木』と呼んで『竹や木』と()す」だけなのである。

 さらに釈迦牟尼仏の「三界唯心」という言葉を理解して取らなかったが、釈迦牟尼仏の「三界唯心」という言葉を理解して取らなかったわけではない。

 さらに釈迦牟尼仏の「三界唯心」という言葉について言わなかったが、釈迦牟尼仏の「三界唯心」という言葉について言わなかったわけではない。

 次のように、玄沙師備に質問するべきである。

「『尽大地で一人の仏法を理解している人を求めても得る事は不可能である』と言ったが、試しに言ってみてください。何を『尽大地』と呼んで何を『尽大地』と()すのか?」

 このように参入して究めて鍛錬するべきである。



 正法眼蔵 三界唯心


 その時、千二百四十三年、越宇の禅師峰の頂上にいて僧達に示した。

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