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幕間.雪の来る前に

帝都を発って四日目の昼。 バルトロは丘の上で手綱を引いていた。


下に杭の村が見える。 村をぐるりと囲む杭の一本一本に赤い糸が結んである。


鞍の後ろで鞄の革紐が揺れた。 そこにも同じ糸が一本。出がけに、あの祈祷師が結んでいったものだ。


村の入り口で小さな背中がかがんでいた。 隣で粉屋の親父が糸と格闘している。親父の結び目は団子みたいにふくれていた。


「婆さん、これで合ってるか」


「合ってるよ。もう少し締めたら、もっといい」


婆さんは顔を上げて、馬の上のバルトロを見た。 目がまるくなった。それから、すぐにこわばった。


「あの子に、何か」


「何もねえ。手紙と土産を届けに来ただけだ」


婆さんの肩から力が抜けた。


バルトロは鞄から小さな壺と手紙を出した。 婆さんは手紙を開かずに前掛けの内側へしまった。 それから壺のふたを取って、鼻を近づけた。


「……あの子が練ったのかい」


「書庫の本を読んで、ひと晩でな。寝てねえ」


婆さんは軟膏を指先にすくった。 曲がりにくい指の節にすりこむ。 一本ずつ、ていねいに。


「……あったかいね。朝が、少し楽になりそうだ」


「ちゃんと食べてるかい」


「食ってる。屋敷の飯を、おかわりまでな」


婆さんは笑った。 笑ったまま目の端を指でぬぐった。


「危ないことは、してないかい」


「してねえ」


バルトロは鞄の口を締めた。


「俺がいるあいだはな」


婆さんはバルトロの顔をじっと見た。 それからゆっくりうなずいた。


その晩、粉屋の卓でバルトロは峠を越えると言った。


親父が匙を置いた。


「やめとけ。峠はもうじき雪で閉じる。閉じたら春まで戻れねえぞ」


「頼まれたんだ」


「誰に」


バルトロは顎で婆さんを指した。


「この婆さんの孫にだ」


婆さんは黙って匙を動かしていた。 しばらくして小さく言った。


「峠の向こうの村には、この村から嫁に行った若い娘が四人いるんだよ。……見てきてやっておくれ」


寝る前に、バルトロは屋敷あての手紙を書いた。 字を書くのは何年ぶりか分からない。 三行で手が止まった。少し考えて、もう一行足した。


手紙は粉屋の親父が預かった。本街道へ出る荷馬車に託すという。


次の朝、バルトロは峠を登った。


道は細い。登るほどに風が冷たくなった。 昼すぎに最初の雪が落ちてきた。 馬の息が白く煙る。


峠を越えて少し下ったところにその村はあった。


戸が外れて傾いた家。 屋根の落ちた納屋。 井戸の桶は縄が切れて底に転がっていた。


人の声はしなかった。


バルトロは村の入り口で馬を止めた。 目が勝手に何かを探していた。


杭だ。


きのう、あの村の杭の列を見てきたばかりだった。 ここには一本もなかった。 戸口にも柵にも、糸を結んだあとはなかった。


馬の首を叩いて通りへ入った。


戸はどれも内側へ倒れていた。 板に残った爪のあとは大人の胸の高さだった。


通りのまん中に獣が一匹横倒しのまま凍っていた。 狼よりひとまわり大きい。腹に鍬の刃のあとがある。 井戸の陰にもう一匹。どちらも鴉につつかれて片目がなかった。


ひと月、いや、もっと前だ。


村はずれの地面に轍が残っていた。 荷車が何台も、凍った泥を深くえぐって谷のほうへ下りている。 バルトロはそれを追った。


半日下ると川に出た。 この川が帝国の端だ。橋の向こうはもう別の国になる。 轍は橋の上で途切れていた。 槍を持った男に銅貨を二枚払って渡った。


町はずれの古い倉に峠の村の人たちはいた。 二十人もいなかった。藁を敷いた床に鍋がひとつ。火のそばに年寄りと女たちが固まっている。


「杭の村から嫁に来た娘は、いるか」


火のそばで若い女が顔を上げた。


「四人のうち残ったのは、あたしともう一人だけだよ。あとの二人は」


その先は言わなかった。


その晩、バルトロは火のそばで話を聞いた。


犬がいっせいに鳴きやんだ夜だったという。 それから戸が破られた。 男たちは鍬や斧で向かっていって、二匹は倒した。それでも足りなかった。


「帝国の兵隊さんは来なかったよ。峠のこっちまでは、来やしない。だから川を渡ったのさ」


鍋の中で豆が煮えていた。


「村に、祈祷師はいなかったのか」


女は火に手をかざしたまま答えた。


「昔は、お婆さんが一人いたよ。あたしが嫁に来て何年かで亡くなってね。それからは誰も」


女の目が火の中の一点で止まった。


「あたしなんか、杭の村の生まれなのにさ。……一度も結ばなかった」


バルトロは何も言わなかった。


女は前掛けの端をほどいた。 出てきたのは色のあせた赤い糸だった。嫁に来るとき、母親に持たされたものだという。 女はそれをバルトロの手のひらにのせた。


倉の外で風の音が変わった。 戸の隙間から白いものが吹きこんでくる。


その夜のうちに雪が峠を閉じた。


バルトロは糸を鞄の内側にしまった。 革紐の糸と並べて指で一度だけ押さえた。


◇◇◇


バルトロが発って七日目の帝都では、まだ格子が開けられていた。


格子の上に男の人が三人しゃがんでいる。 鉄の棒で格子をこじ開けて、下の暗い水をランプでのぞきこんでいた。 きのうは隣の通りだった。おとといは、そのまた隣。


リーネは裏口の戸のかげからそれを見ていた。 腕に巻いた布の下で三本の傷がまだずきずきする。


「こっちも、ただのどぶだ」


ひとりが格子の下から顔を出した。


「爪のあとひとつねえ。城壁の水門も北の取り入れ口も見たが、守りは切れてねえ」


「じゃあ、あの一匹はどこから来たんだよ」


「知るか」


男たちは格子を戻して、次の通りへ移っていった。


アデルが隣に来て、肩掛けをかき寄せた。


「お祖父さま、ゆうべも夕飯を半分残したのよ」


リーネは黙って格子の縁の石を見た。 下から外へ向かう三本の線。


ゆうべ、リーネはそれを見ていた。 夜中に目がさめて窓をのぞくと、裏の格子の前にランプがひとつ置いてあった。 学園長が一人でしゃがんでいた。 三本の線に指をそろえて当てては、離す。また当てる。 それから立ち上がって、長いあいだ城壁のほうを向いていた。


リーネが寝床に戻っても、ランプはまだそこにあった。


厨房の戸口でコレットが野菜くずの桶を抱えて立っていた。 リーネと目が合うと、桶を少し持ち上げてみせた。


「格子のとこには行かないよ。裏庭の穴に空けるの。グレゴールさんが掘ってくれた」


「うん」


コレットはそれだけ言って、ぱたぱたと走っていった。 あの朝からコレットは、リーネの顔を見るたびに何か一言いってから行く。


バルトロが発って十日目の朝、リーネは裏庭の物干しの柱の前に立っていた。


「数えて」


「何を?」


「結ぶほう」


アデルが目をぱちぱちさせてから数えはじめた。


「いち、に、さん、し、ご」


三回くぐらせて、きゅっと締める。


「五つ」


リーネは手を合わせて唱えはじめた。 横でアデルが指先をこすった。


ぱちっ、ぱちっ、ぱちっ。 三つ目は、もうまぐれではなかった。


「ことごとく、主に捧ぐ」


光が糸をひとめぐりして、消えた。


「三つなら、もう毎回出るわ」


「じゃあ、次は火花四つ」


「四つ目なんて、いつ使うのよ」


「あたしが詰まったとき」


アデルは口をとがらせた。 それでも、もう一度指先をこすり合わせた。


リーネは柱の糸を見つめた。


十五秒。 アデルが三つ出しても、十五秒は十五秒のままだ。


次の一回は、二行目と三行目を飛ばして唱えてみた。


「赤き糸、結びて印となす。……ことごとく、主に捧ぐ」


糸は光らなかった。 ただの赤い糸のまま柱に巻きついていた。


アデルが首をかしげた。


「今の、短すぎない?」


「短くしたかったの」


リーネは糸をほどいた。


「……だめみたい。削ったら、届かない」


ほどいた糸を指に巻きつけて、しばらく黙っていた。


唱えるほうは削れない。


あの朝、魔物の前足に糸をかけているあいだに、爪が袖ごと腕を裂いた。 結ぶのに五つかかった。 あと一つ早ければ、爪は空を切っていた。


指が曲がる前のお婆ちゃんなら、三つで済んでいた。


「アデル、もう一回数えて。今度は、結ぶのに四つ」


「今度はって、何回やる気?」


「三つになるまで」


アデルはため息をついた。 それから数えはじめた。


腕の布が引きつれて、傷がちくりとした。 それでも昼まで続けた。 四つで締まったのは、昼までに二回だけだった。


手紙が屋敷に届いたのは、帝都に初めて雪が積もった朝だった。


グレゴールが銀の盆にのせて持ってきた。 宛名の字は大きい。ところどころ傾いていた。


リーネは厨房の隅でそれを開いた。 アデルが肩ごしにのぞきこむ。


峠を越える。雪が来たら、ひと冬戻れねえかもしれん。 婆さんは元気だ。軟膏は効いてる。


外してねえ。


リーネは最後の一行を指でなぞった。 何度も、なぞった。


「……ひと冬って、春まで?」


アデルが小さく言った。


リーネはうなずいた。


グレゴールが盆を持ったまま言った。


「村へ回るお許しは、出がけに旦那様からいただいておりました。……峠までとは、うかがっておりませんが」


それから小さく咳払いをした。


「春までの給金の扱いを、伺っておかねばなりませんな」


声はいつもどおりだった。 でも盆を持つ手が、しばらく下りなかった。


お婆ちゃんは元気。 軟膏は効いてる。 それだけで、胸がいっぱいになるはずだった。


でも、峠の向こうのことは何も書いてない。


アデルがリーネの手をにぎった。 指先はまだ少し荒れていた。


「迎えに行く、なんて言わないでよ」


「言わない」


リーネは首を横に振った。


あの朝、バルトロは言った。 お前の婆さんは、なんのためにお前を送り出した。


「あたしは、ここで待つ。帰ってきたら、結ぶのが速くなったとこを見せる」


リーネは手紙をたたんで前掛けのポケットにしまった。 それから裏口を出た。


裏庭はまっ白だった。 物干しの柱にも雪が積もっていた。


リーネは柱の雪を手で払った。 指がかじかんで、糸の端がうまくつまめない。 息を吹きかけてから、赤い糸をかけた。


いち、に、さん、し、ご。


結び目がゆるんだ。 すぐにほどいた。もう一度かける。


いち、に、さん。


自分で数えた。


し。


締まった。


戸口でアデルが息をのんだ。


「……四つ」


リーネは振り向かずに手を合わせた。 最初から最後まで、一行も飛ばさずに唱えた。


「ことごとく、主に捧ぐ」


糸がほんのり光って、すうっと消えた。


「峠の向こうの村にも、祈祷師さん、いるよね」


アデルは少し考えてから言った。


「いるでしょ。村なんだもの」


リーネはうなずいた。


峠の向こうは、もう雪で見えなかった。

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