8.3つの火花
軟膏は夜のうちに練りあがっていた。
小さな壺の中で緑がかった軟膏が冷えて固まっている。 壺は料理番のおばさんが使っていないのをひとつくれた。
本には、冬のこわばりを少しやわらげると書いてあった。治るとは書いていなかった。 書庫の本は、まだぜんぶ読んでいない。
手紙の最後には二行書き足した。
なんこうを、つくりました。 ゆびに、すりこんでください。
橋の向こうのことは書かなかった。 書いたら、お婆ちゃんは眠れなくなる。
まだ暗いうちにリーネは裏庭へ下りた。
厩の前でバルトロが馬に鞍をのせていた。 吐く息が白い。足もとの鞄はもう口が締めてあった。
「持ってきたか」
リーネは壺と手紙を差し出した。 バルトロは壺を布でくるんで手紙と一緒に鞄の奥へしまった。
リーネは鞄の口が締まるのをじっと見ていた。
「あたしも行く」
バルトロの手が止まった。
「峠の向こうの村、魔物にやられたんでしょ。うちの村だって、峠のすぐこっち側だもん。杭の糸なら、あたしが結べる。粉屋の親父さんより、ずっと上手に」
「駄目だ」
「どうして」
バルトロは鞍の帯を締めながら言った。
「お前の婆さんは、なんのためにお前を送り出した」
リーネは口を開けた。 何も出てこなかった。 それでも鞄の革紐をつかんだ手は離さなかった。
村の坂道でお婆ちゃんは最後まで手を振っていた。 笑っていた。指がこわばって、うまく振れていなかったのに。
「見てきてやる。峠の向こうも、お前の村も。婆さんの指の具合もな」
リーネは黙って、つかんでいた革紐をゆっくり離した。
「……じゃあ、ひとつだけ」
ポケットから赤い糸を出す。
「鞄に結ばせて」
バルトロは何か言いかけて、やめた。 鞄を持ち上げてリーネの前に置いた。
リーネは鞄の革紐に糸を回した。 三回くぐらせて、きゅっと締める。 それから手を合わせた。
「赤き糸、結びて印となす」
二行目を唱えるあいだに、裏庭の向こうで鶏が鳴いた。 厨房の窓に灯りがともる。芋を洗う水の音と、厨房の女の子の鼻歌が聞こえてきた。
三行目に入っても、バルトロは急かさなかった。 腕を組んで黙って待っていた。
切られなかった。 誰にも止められなかった。
「ことごとく、主に捧ぐ」
革紐の上で糸が蛍みたいにほんのり光った。 それから、すうっと消えた。
リーネは目を開けた。 バルトロがまだそこにいた。
「……長えな」
「十五秒だって」
「知ってる。数えてた」
バルトロは鞄を鞍の後ろにくくりつけた。 赤い糸が革紐の上で小さく揺れた。
「外さないでね」
「外さねえよ」
バルトロは鐙に足をかけて馬にまたがった。 それから馬の上からリーネを見下ろした。
「お前一人じゃ、間に合わねえ。昨日でわかったろ」
リーネは唇をかんだ。
「今のは間に合った。俺が待ったからだ」
バルトロは馬の腹を軽く蹴った。
裏門の前でグレゴールがランプを提げて待っていた。 閂はもう外してあった。
バルトロは門をくぐるとき片手を上げた。 グレゴールが小さく頭を下げた。
蹄の音が石畳の向こうへ遠ざかっていった。
「行っちゃったわね」
いつの間にか隣にアデルが立っていた。 肩掛けを頭からかぶって鼻の頭を赤くしている。
「うん」
リーネは門の外を見たまま言った。
「アデル。お願いがあるの」
「なに?」
「あたしが唱えてるあいだ、止めてほしいの。魔物でも、人でも」
アデルはきょとんとした。
「わたしが? わたしの火なんて、麦粒くらいよ」
「麦粒でいい」
リーネはゆうべから考えていたことをそのまま口にした。
「きのうの路地でね。あの人、糸の前で一回止まったの。ほんのちょっとだけ。目の前に何かあると、誰だって一回は止まるんだよ」
「魔物も?」
「わかんない。でも村の魔物は、杭の前で一回鈍ったよ」
アデルは自分の指先を見下ろした。
「……目の前で、火花がはじけたら?」
「一回は、止まる」
「十五秒のあいだに、何回?」
リーネは指を折って数えた。
「最初の五つ、次の五つ、最後の五つ。一回ずつ。三回」
アデルは唇を結んだ。 それから肩掛けをはねのけた。
「やるわ」
その日から裏庭の隅で練習をした。
リーネが杭に見立てた物干しの柱に糸を結ぶ。 手を合わせて唱えはじめる。 アデルが横で数を数える。五つ数え終わったら短く一言唱えて指先を合わせる。
「火花ひとつなら、一言で出せるの。それしか出せないとも言うけど」
一日目は一つ目しか出なかった。
「指がかじかむのよ!」
アデルは手に息を吹きかけて足を踏み鳴らした。
その夕方。コレットが青い顔で裏口から駆けこんできた。アデルに帽子を貸してくれた、あの厨房の子だ。 野菜くずの桶を、空のまま抱えている。
「格子の下に、なにかいた」
通りの端の鉄格子の下で丸いものが二つ光ったのだという。 料理番のおばさんは猫だよと笑った。 コレットは裏口のかげでリーネの袖を引いた。
「旦那さまには言わないで。また嘘つきって言われたら、村に帰される」
その夜、裏の通りで犬が鳴いた。 格子のほうへ向かって、いつまでも鳴きやまなかった。
二日目の朝、リーネは一人で裏口を出た。
裏口を出るとすぐ、細い石畳の通りだった。 道の端に鉄の格子がはまっていて、その下を水が流れている。格子のまわりはこぼれた水が凍って、つるつるになっていた。
リーネはしゃがんで格子の下をのぞきこんだ。 暗い水。鼠が三匹、壁ぎわを転がるように逃げていった。
格子の縁の石に、ひっかいたような筋があった。 三本。下から、外へ向かって。
リーネは袖をまくった。 村で魔物の爪にかすめられた腕に、白い筋がまだ薄く残っている。 三本。
指を当てて比べた。 幅が同じだった。
背中がつめたくなった。
アデルと二人で角の詰め所へ行った。 槍を壁に立てかけた衛兵があくびをしながら話を聞いた。
「格子の下に、魔物?」
衛兵はリーネの手首の赤い糸に目をやって鼻で笑った。
「祈祷師の嬢ちゃん。帝都の城壁には魔法師様の守りがかかってるんだ。魔物なんざ一匹も入りゃしねえよ」
「でも、爪のあとが」
「鼠だろ。でかい鼠。去年の冬もそれで夜中にたたき起こされて、隊長にどやされたんだ」
アデルが一歩前に出た。
「わたしはサン=クレールの――」
「はいはい。隊長に伝えときますよ、お嬢様」
衛兵はもうこちらを見ていなかった。
帰り道、アデルは唇をかんでいた。
「グレゴールに言いましょう」
リーネは首を横に振った。
「言ったら、裏口に鍵がかかっておしまいだよ。あの子は嘘つきにされて、格子はそのまま」
「でも」
「あたしが結べばいい」
村でもそうしてきた。 お婆ちゃんの結び目がゆるんでいたら、夜中にこっそり結び直した。誰にも言わずに。 それで、ちゃんとうまくいった。
「じゃあ、格子に糸を結んで塞ぐの?」
「塞いだら、ほかの格子から出るよ」
リーネは通りを指さした。 道の端には同じ格子が点々と並んでいる。この通りだけで七つ。
「どこに出るか、わからなくなる。出てくる場所がわかってるのは、ここだけ」
アデルが小さく息をのんだ。
「……あなたって、ときどき怖いわ」
コレットは、毎朝あの格子のそばへ桶を空けに行く。 まだ暗いうちに、一人で。
「あしたから、桶はあたしが持っていく」
言ってから、膝が少し震えているのに気がついた。
アデルはリーネの顔を見て、それから自分の指先に目を落とした。
「……じゃあ、三つ出さなきゃ」
その日の練習では二つ目が遅れた。 三つ目の火花はリーネの前掛けに飛んで、二人であわてて叩き消した。
二階の窓からグレゴールが見ていた。 咳払いが一度だけ聞こえた。止めには来なかった。
練習の合間にリーネは何度も裏口の外を歩いた。 氷のいちばん滑るところ。乾いた縁。格子から戸口まで、走って九歩。 格子のすぐ手前の氷で転ばせる。 糸の端は最初から指に巻いておくことにした。
三日目の夕方。
「いち、に、さん、し、ご」
ぱちっ。
「いち、に、さん、し、ご」
ぱちっ。
「いち、に、さん、し、ご」
ぱちっ。
小さな火花が柱の前ではじけた。
「ことごとく、主に捧ぐ」
リーネは目を開けた。 アデルは自分の指先を見つめたまま、笑わなかった。
「……もう一回」
もう一回やった。三つ目は出なかった。 その次も出なかった。
「まぐれね」
「一回出たなら、出るよ」
アデルは答えなかった。 かじかんだ指先に何度も息を吹きかけていた。
四日目の朝。
まだ暗かった。 リーネは野菜くずの桶を抱えて裏口を出た。糸の端は指に巻いてある。 戸口の内側にアデルが立っている。来ないでと言ったのに、コレットもその後ろで前掛けをにぎっていた。
格子の手前で桶を傾ける。 野菜くずが凍った石畳に散らばった。
水の音が、止まった。
鉄の格子が下からゆっくり持ち上がった。
黒いものが這い出してくる。
狼に似ている。 でも大きい。仔牛ほどもある。 濡れた黒い毛並みの中で、目だけがガラス玉みたいに光っていた。
知っている。 村に出たのと同じ種類の魔物だった。
ガラス玉の目が、戸口のほうを向いた。 アデルと、その後ろのコレットのほうを。
「こっち!」
リーネは桶を放りだして叫んだ。 魔物の首がこちらへ戻る。
リーネは乾いた縁を後ずさった。一歩、二歩。 自分と魔物のあいだに、凍った石畳をはさむように。
バルトロは、いない。
魔物が跳んだ。 着いた足が氷を踏んだ。
ずるりと滑った。 大きな体が横倒しになって石畳に肩を打ちつけた。
狙ったとおりだった。
今だ。
リーネは飛びついた。 前足に糸を回す。 爪が袖を裂いた。腕が焼けるように熱い。 かまわず三回くぐらせてきゅっと締める。
結べた。
魔物が跳ね起きた。 リーネは尻もちをついたまま手を合わせた。
「赤き糸、結びて印となす」
魔物が口を開けた。
戸口の前にアデルが出ていた。 片手を前に突き出してかすれた声で数えている。
「……さん、し、ご」
数え終わりに、唇が短く動いた。
ぱちっ。
鼻先で橙色の火花がはじけた。 魔物の頭がびくりと引いた。
「主よ、この災いを遠ざけたまえ」
魔物がまた踏みこんでくる。 糸を結ばれた前足が重そうに石畳を引きずった。
ぱちっ。
二つ目。 魔物が首を振って半歩さがった。
リーネは唱えつづけた。 声が震える。喉が詰まりそうになる。 でも、やめない。途中でやめたら届かない。
「わが祈り、わが息、わが日々を」
魔物が低くうなって身を沈めた。 跳ぶ。
三つ目が来ない。 ゆうべ一度しか出なかった、三つ目。
「出てよ……!」
アデルの声が裏返った。 指先が、もう一度合わさる。
ぱちっ。
小さかった。 二つ目よりずっと小さい、麦粒の半分くらいの火花。
それでも魔物の目の前ではじけた。 光る目が一度揺れて、跳びかけた足が石畳を掻いた。
一回は、止まる。
「ことごとく、主に捧ぐ!」
赤い糸が白く燃えて、何十本もの光の筋になった。 筋が魔物をぐるぐると巻いていく。 お婆ちゃんの結び方と同じだった。光が三回くぐって、きゅっと締まる。
まばゆい光が弾けた。
目を開けたとき、通りには何もいなかった。
持ち上がったままの鉄の格子。 ひっくり返った桶と、散らばった野菜くず。
リーネはその場にへたりこんだ。
最後まで、唱えられた。 喉は一度も詰まらなかった。 村のときは、お婆ちゃんの声が重なっていた。まぶしくて目をつぶってしまった。 今日は光が消えるまで目を開けていた。
アデルがリーネの横にすとんと座った。 指先が真っ赤になっていた。
「……三つ」
アデルが言った。
「三つ、出たわよ。まぐれじゃ、なかった」
「うん。三つ」
リーネは笑おうとした。 口の端がふるえて、うまく笑えなかった。アデルも同じ顔をしていた。
通りのあちこちで窓が開いた。
「なんだ、今の光は」
「魔物だ。格子の下から出てきたんだ。見たぞ、おれは」
角のほうから足音が駆けてきた。 角の詰め所であくびをしていた衛兵だった。槍を握って息を切らして通りを見まわす。
「どこだ。魔物はどこだ」
「もういねえよ。あの子が消しちまった」
窓の男が言った。 衛兵は格子の縁の爪あとに目を落として黙った。顔から血の気が引いていくのが暗がりでもわかった。
アデルが立ち上がって肩掛けの裾を払った。
「隊長に、伝えておいてくださる?」
衛兵は歯を食いしばった。
「……鼠だと思ったんだよ」
槍の石突きで、石畳をこつんと叩く。
「伝えりゃいいんだろ、伝えりゃ」
人だかりをかき分けて、背の高い女の人が出てきた。 くたびれた革の胴着を着ている。 片手に野菜の籠。もう片方の手には石をつがえた革紐。
「撃つ前に片づいちまったね」
女の人は石を腰の袋に放りこんで、リーネの裂けた袖を見た。
「あの魔物、動きが鈍かったろう」
跳びかかってきた姿を思い出す。 村で見たのより、遅かった。
「……はい」
「腹を空かせてたか、どこかで弱ってたか。鈍くても、あの爪だよ」
女の人は首筋の古い傷あとを指でなぞった。 三本あった。
「あんなに近くで結ぶのは、死にに行くのと同じだ」
女の人は口を開けて笑うと、リーネの手に炒り豆を一粒落とした。 籠をゆすり上げて人だかりの外へ帰っていった。
豆は、まだ温かかった。
戸口からコレットが飛び出してきた。 目にいっぱい涙をためて、そのままリーネに抱きついた。
グレゴールが火かき棒を握って駆けてきたのは、そのあとだった。 グレゴールが走るのを、リーネははじめて見た。
グレゴールは二人を見て、空の桶を見て、格子を見た。 それからリーネの裂けた袖を見た。
「……なぜ、言わなかったのです」
アデルが口を開きかけた。 リーネが先に言った。
「あたしが、言わないって決めたの。言ったら、鍵をかけると思って」
「かけていたでしょうね」
グレゴールは火かき棒を下ろした。
「それでも、言っていただきたかった」
リーネは裂けた袖をにぎった。 戸口のほうを向いたガラス玉の目を思い出した。あそこには、アデルとコレットがいた。
村では、うまくいった。 でも、ここは村じゃない。
料理番のおばさんがリーネの腕の傷を湯で洗って、きれいな布を巻いてくれた。涙が出た。
その晩、グレゴールの知らせで学園長が来た。
学園長は一人で格子の前にしゃがんだ。 指で石畳をなぞる。濡れた石の上には、毛の一本も落ちていなかった。
「いつから気づいていた」
「三日前です。厨房のコレットが、目を見たって。それから、その爪のあと」
「誰かに言ったか」
「角の衛兵さんに。……それだけです」
学園長は角の詰め所のほうへ一度だけ目をやった。 それからアデルの手に目を移した。指先にはまだ赤みが残っていた。
「火花で止めたそうだな」
「……三つ、です」
「そうか」
学園長の手がアデルの頭の上で止まった。 しばらくそのまま動かなかった。 それから、そっとのった。 アデルは目を見開いたまま動かなかった。
学園長はリーネに目を移した。
「十五秒、唱えきったか」
「……ふたりで、です」
学園長は小さくうなずいて、格子に向き直った。 縁の石の三本の筋を指でなぞる。下から、外へ。 それから格子の下の暗い水を見下ろした。
「城壁の下の水門には、魔法師の守りがかけてある。鼠一匹、外からは通さん」
水の音だけが聞こえていた。
「では、あれはどこから来たのだろうな」
【8話あとがき】
その夜更け、城壁の下の水門へランプの灯りがひとつ下りていった。
フォンテーヌは石の壁に手のひらを当てたまま動かなかった。
黒い上着の襟は夜中でもきっちり留めてある。
「切れていません」
「そうか」
学園長は黒い水を見下ろしたまま答えた。
「ほころびも細工のあともありません。ずっと張られたままです」
「では、ひとりでに入ったのではないな」
フォンテーヌが顔を上げた。
「……誰かが中へ入れたと?」
学園長は答えなかった。
「詰め所の衛兵が言っていた。去年の冬も格子の下で夜中に騒ぎがあったそうだ」
「鼠だったと聞いています」
「誰が、そう決めた」
フォンテーヌは口を開きかけて、閉じた。
水門の鉄の扉には、太い錠が下がっている。
学園長はランプを近づけてそれを眺めていた。
「この話は、まだ誰にもするな」
「……はい」
灯りが遠ざかったあとも水は音もなく流れていた。




