↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/10

8.3つの火花

軟膏は夜のうちに練りあがっていた。


小さな壺の中で緑がかった軟膏が冷えて固まっている。 壺は料理番のおばさんが使っていないのをひとつくれた。


本には、冬のこわばりを少しやわらげると書いてあった。治るとは書いていなかった。 書庫の本は、まだぜんぶ読んでいない。


手紙の最後には二行書き足した。


なんこうを、つくりました。 ゆびに、すりこんでください。


橋の向こうのことは書かなかった。 書いたら、お婆ちゃんは眠れなくなる。


まだ暗いうちにリーネは裏庭へ下りた。


厩の前でバルトロが馬に鞍をのせていた。 吐く息が白い。足もとの鞄はもう口が締めてあった。


「持ってきたか」


リーネは壺と手紙を差し出した。 バルトロは壺を布でくるんで手紙と一緒に鞄の奥へしまった。


リーネは鞄の口が締まるのをじっと見ていた。


「あたしも行く」


バルトロの手が止まった。


「峠の向こうの村、魔物にやられたんでしょ。うちの村だって、峠のすぐこっち側だもん。杭の糸なら、あたしが結べる。粉屋の親父さんより、ずっと上手に」


「駄目だ」


「どうして」


バルトロは鞍の帯を締めながら言った。


「お前の婆さんは、なんのためにお前を送り出した」


リーネは口を開けた。 何も出てこなかった。 それでも鞄の革紐をつかんだ手は離さなかった。


村の坂道でお婆ちゃんは最後まで手を振っていた。 笑っていた。指がこわばって、うまく振れていなかったのに。


「見てきてやる。峠の向こうも、お前の村も。婆さんの指の具合もな」


リーネは黙って、つかんでいた革紐をゆっくり離した。


「……じゃあ、ひとつだけ」


ポケットから赤い糸を出す。


「鞄に結ばせて」


バルトロは何か言いかけて、やめた。 鞄を持ち上げてリーネの前に置いた。


リーネは鞄の革紐に糸を回した。 三回くぐらせて、きゅっと締める。 それから手を合わせた。


「赤き糸、結びて印となす」


二行目を唱えるあいだに、裏庭の向こうで鶏が鳴いた。 厨房の窓に灯りがともる。芋を洗う水の音と、厨房の女の子の鼻歌が聞こえてきた。


三行目に入っても、バルトロは急かさなかった。 腕を組んで黙って待っていた。


切られなかった。 誰にも止められなかった。


「ことごとく、主に捧ぐ」


革紐の上で糸が蛍みたいにほんのり光った。 それから、すうっと消えた。


リーネは目を開けた。 バルトロがまだそこにいた。


「……長えな」


「十五秒だって」


「知ってる。数えてた」


バルトロは鞄を鞍の後ろにくくりつけた。 赤い糸が革紐の上で小さく揺れた。


「外さないでね」


「外さねえよ」


バルトロは鐙(あぶみ)に足をかけて馬にまたがった。 それから馬の上からリーネを見下ろした。


「お前一人じゃ、間に合わねえ。昨日でわかったろ」


リーネは唇をかんだ。


「今のは間に合った。俺が待ったからだ」


バルトロは馬の腹を軽く蹴った。


裏門の前でグレゴールがランプを提げて待っていた。 閂はもう外してあった。


バルトロは門をくぐるとき片手を上げた。 グレゴールが小さく頭を下げた。


蹄の音が石畳の向こうへ遠ざかっていった。


「行っちゃったわね」


いつの間にか隣にアデルが立っていた。 肩掛けを頭からかぶって鼻の頭を赤くしている。


「うん」


リーネは門の外を見たまま言った。


「アデル。お願いがあるの」


「なに?」


「あたしが唱えてるあいだ、止めてほしいの。魔物でも、人でも」


アデルはきょとんとした。


「わたしが? わたしの火なんて、麦粒くらいよ」


「麦粒でいい」


リーネはゆうべから考えていたことをそのまま口にした。


「きのうの路地でね。あの人、糸の前で一回止まったの。ほんのちょっとだけ。目の前に何かあると、誰だって一回は止まるんだよ」


「魔物も?」


「わかんない。でも村の魔物は、杭の前で一回鈍ったよ」


アデルは自分の指先を見下ろした。


「……目の前で、火花がはじけたら?」


「一回は、止まる」


「十五秒のあいだに、何回?」


リーネは指を折って数えた。


「最初の五つ、次の五つ、最後の五つ。一回ずつ。三回」


アデルは唇を結んだ。 それから肩掛けをはねのけた。


「やるわ」


その日から裏庭の隅で練習をした。


リーネが杭に見立てた物干しの柱に糸を結ぶ。 手を合わせて唱えはじめる。 アデルが横で数を数える。五つ数え終わったら短く一言唱えて指先を合わせる。


「火花ひとつなら、一言で出せるの。それしか出せないとも言うけど」


一日目は一つ目しか出なかった。


「指がかじかむのよ!」


アデルは手に息を吹きかけて足を踏み鳴らした。


その夕方。コレットが青い顔で裏口から駆けこんできた。アデルに帽子を貸してくれた、あの厨房の子だ。 野菜くずの桶を、空のまま抱えている。


「格子の下に、なにかいた」


通りの端の鉄格子の下で丸いものが二つ光ったのだという。 料理番のおばさんは猫だよと笑った。 コレットは裏口のかげでリーネの袖を引いた。


「旦那さまには言わないで。また嘘つきって言われたら、村に帰される」


その夜、裏の通りで犬が鳴いた。 格子のほうへ向かって、いつまでも鳴きやまなかった。


二日目の朝、リーネは一人で裏口を出た。


裏口を出るとすぐ、細い石畳の通りだった。 道の端に鉄の格子がはまっていて、その下を水が流れている。格子のまわりはこぼれた水が凍って、つるつるになっていた。


リーネはしゃがんで格子の下をのぞきこんだ。 暗い水。鼠が三匹、壁ぎわを転がるように逃げていった。


格子の縁の石に、ひっかいたような筋があった。 三本。下から、外へ向かって。


リーネは袖をまくった。 村で魔物の爪にかすめられた腕に、白い筋がまだ薄く残っている。 三本。


指を当てて比べた。 幅が同じだった。


背中がつめたくなった。


アデルと二人で角の詰め所へ行った。 槍を壁に立てかけた衛兵があくびをしながら話を聞いた。


「格子の下に、魔物?」


衛兵はリーネの手首の赤い糸に目をやって鼻で笑った。


「祈祷師の嬢ちゃん。帝都の城壁には魔法師様の守りがかかってるんだ。魔物なんざ一匹も入りゃしねえよ」


「でも、爪のあとが」


「鼠だろ。でかい鼠。去年の冬もそれで夜中にたたき起こされて、隊長にどやされたんだ」


アデルが一歩前に出た。


「わたしはサン=クレールの――」


「はいはい。隊長に伝えときますよ、お嬢様」


衛兵はもうこちらを見ていなかった。


帰り道、アデルは唇をかんでいた。


「グレゴールに言いましょう」


リーネは首を横に振った。


「言ったら、裏口に鍵がかかっておしまいだよ。あの子は嘘つきにされて、格子はそのまま」


「でも」


「あたしが結べばいい」


村でもそうしてきた。 お婆ちゃんの結び目がゆるんでいたら、夜中にこっそり結び直した。誰にも言わずに。 それで、ちゃんとうまくいった。


「じゃあ、格子に糸を結んで塞ぐの?」


「塞いだら、ほかの格子から出るよ」


リーネは通りを指さした。 道の端には同じ格子が点々と並んでいる。この通りだけで七つ。


「どこに出るか、わからなくなる。出てくる場所がわかってるのは、ここだけ」


アデルが小さく息をのんだ。


「……あなたって、ときどき怖いわ」


コレットは、毎朝あの格子のそばへ桶を空けに行く。 まだ暗いうちに、一人で。


「あしたから、桶はあたしが持っていく」


言ってから、膝が少し震えているのに気がついた。


アデルはリーネの顔を見て、それから自分の指先に目を落とした。


「……じゃあ、三つ出さなきゃ」


その日の練習では二つ目が遅れた。 三つ目の火花はリーネの前掛けに飛んで、二人であわてて叩き消した。


二階の窓からグレゴールが見ていた。 咳払いが一度だけ聞こえた。止めには来なかった。


練習の合間にリーネは何度も裏口の外を歩いた。 氷のいちばん滑るところ。乾いた縁。格子から戸口まで、走って九歩。 格子のすぐ手前の氷で転ばせる。 糸の端は最初から指に巻いておくことにした。


三日目の夕方。


「いち、に、さん、し、ご」


ぱちっ。


「いち、に、さん、し、ご」


ぱちっ。


「いち、に、さん、し、ご」


ぱちっ。


小さな火花が柱の前ではじけた。


「ことごとく、主に捧ぐ」


リーネは目を開けた。 アデルは自分の指先を見つめたまま、笑わなかった。


「……もう一回」


もう一回やった。三つ目は出なかった。 その次も出なかった。


「まぐれね」


「一回出たなら、出るよ」


アデルは答えなかった。 かじかんだ指先に何度も息を吹きかけていた。


四日目の朝。


まだ暗かった。 リーネは野菜くずの桶を抱えて裏口を出た。糸の端は指に巻いてある。 戸口の内側にアデルが立っている。来ないでと言ったのに、コレットもその後ろで前掛けをにぎっていた。


格子の手前で桶を傾ける。 野菜くずが凍った石畳に散らばった。


水の音が、止まった。


鉄の格子が下からゆっくり持ち上がった。


黒いものが這い出してくる。


狼に似ている。 でも大きい。仔牛ほどもある。 濡れた黒い毛並みの中で、目だけがガラス玉みたいに光っていた。


知っている。 村に出たのと同じ種類の魔物だった。


ガラス玉の目が、戸口のほうを向いた。 アデルと、その後ろのコレットのほうを。


「こっち!」


リーネは桶を放りだして叫んだ。 魔物の首がこちらへ戻る。


リーネは乾いた縁を後ずさった。一歩、二歩。 自分と魔物のあいだに、凍った石畳をはさむように。


バルトロは、いない。


魔物が跳んだ。 着いた足が氷を踏んだ。


ずるりと滑った。 大きな体が横倒しになって石畳に肩を打ちつけた。


狙ったとおりだった。


今だ。


リーネは飛びついた。 前足に糸を回す。 爪が袖を裂いた。腕が焼けるように熱い。 かまわず三回くぐらせてきゅっと締める。


結べた。


魔物が跳ね起きた。 リーネは尻もちをついたまま手を合わせた。


「赤き糸、結びて印となす」


魔物が口を開けた。


戸口の前にアデルが出ていた。 片手を前に突き出してかすれた声で数えている。


「……さん、し、ご」


数え終わりに、唇が短く動いた。


ぱちっ。


鼻先で橙色の火花がはじけた。 魔物の頭がびくりと引いた。


「主よ、この災いを遠ざけたまえ」


魔物がまた踏みこんでくる。 糸を結ばれた前足が重そうに石畳を引きずった。


ぱちっ。


二つ目。 魔物が首を振って半歩さがった。


リーネは唱えつづけた。 声が震える。喉が詰まりそうになる。 でも、やめない。途中でやめたら届かない。


「わが祈り、わが息、わが日々を」


魔物が低くうなって身を沈めた。 跳ぶ。


三つ目が来ない。 ゆうべ一度しか出なかった、三つ目。


「出てよ……!」


アデルの声が裏返った。 指先が、もう一度合わさる。


ぱちっ。


小さかった。 二つ目よりずっと小さい、麦粒の半分くらいの火花。


それでも魔物の目の前ではじけた。 光る目が一度揺れて、跳びかけた足が石畳を掻いた。


一回は、止まる。


「ことごとく、主に捧ぐ!」


赤い糸が白く燃えて、何十本もの光の筋になった。 筋が魔物をぐるぐると巻いていく。 お婆ちゃんの結び方と同じだった。光が三回くぐって、きゅっと締まる。


まばゆい光が弾けた。


目を開けたとき、通りには何もいなかった。


持ち上がったままの鉄の格子。 ひっくり返った桶と、散らばった野菜くず。


リーネはその場にへたりこんだ。


最後まで、唱えられた。 喉は一度も詰まらなかった。 村のときは、お婆ちゃんの声が重なっていた。まぶしくて目をつぶってしまった。 今日は光が消えるまで目を開けていた。


アデルがリーネの横にすとんと座った。 指先が真っ赤になっていた。


「……三つ」


アデルが言った。


「三つ、出たわよ。まぐれじゃ、なかった」


「うん。三つ」


リーネは笑おうとした。 口の端がふるえて、うまく笑えなかった。アデルも同じ顔をしていた。


通りのあちこちで窓が開いた。


「なんだ、今の光は」


「魔物だ。格子の下から出てきたんだ。見たぞ、おれは」


角のほうから足音が駆けてきた。 角の詰め所であくびをしていた衛兵だった。槍を握って息を切らして通りを見まわす。


「どこだ。魔物はどこだ」


「もういねえよ。あの子が消しちまった」


窓の男が言った。 衛兵は格子の縁の爪あとに目を落として黙った。顔から血の気が引いていくのが暗がりでもわかった。


アデルが立ち上がって肩掛けの裾を払った。


「隊長に、伝えておいてくださる?」


衛兵は歯を食いしばった。


「……鼠だと思ったんだよ」


槍の石突きで、石畳をこつんと叩く。


「伝えりゃいいんだろ、伝えりゃ」


人だかりをかき分けて、背の高い女の人が出てきた。 くたびれた革の胴着を着ている。 片手に野菜の籠。もう片方の手には石をつがえた革紐。


「撃つ前に片づいちまったね」


女の人は石を腰の袋に放りこんで、リーネの裂けた袖を見た。


「あの魔物、動きが鈍かったろう」


跳びかかってきた姿を思い出す。 村で見たのより、遅かった。


「……はい」


「腹を空かせてたか、どこかで弱ってたか。鈍くても、あの爪だよ」


女の人は首筋の古い傷あとを指でなぞった。 三本あった。


「あんなに近くで結ぶのは、死にに行くのと同じだ」


女の人は口を開けて笑うと、リーネの手に炒り豆を一粒落とした。 籠をゆすり上げて人だかりの外へ帰っていった。


豆は、まだ温かかった。


戸口からコレットが飛び出してきた。 目にいっぱい涙をためて、そのままリーネに抱きついた。


グレゴールが火かき棒を握って駆けてきたのは、そのあとだった。 グレゴールが走るのを、リーネははじめて見た。


グレゴールは二人を見て、空の桶を見て、格子を見た。 それからリーネの裂けた袖を見た。


「……なぜ、言わなかったのです」


アデルが口を開きかけた。 リーネが先に言った。


「あたしが、言わないって決めたの。言ったら、鍵をかけると思って」


「かけていたでしょうね」


グレゴールは火かき棒を下ろした。


「それでも、言っていただきたかった」


リーネは裂けた袖をにぎった。 戸口のほうを向いたガラス玉の目を思い出した。あそこには、アデルとコレットがいた。


村では、うまくいった。 でも、ここは村じゃない。


料理番のおばさんがリーネの腕の傷を湯で洗って、きれいな布を巻いてくれた。涙が出た。


その晩、グレゴールの知らせで学園長が来た。


学園長は一人で格子の前にしゃがんだ。 指で石畳をなぞる。濡れた石の上には、毛の一本も落ちていなかった。


「いつから気づいていた」


「三日前です。厨房のコレットが、目を見たって。それから、その爪のあと」


「誰かに言ったか」


「角の衛兵さんに。……それだけです」


学園長は角の詰め所のほうへ一度だけ目をやった。 それからアデルの手に目を移した。指先にはまだ赤みが残っていた。


「火花で止めたそうだな」


「……三つ、です」


「そうか」


学園長の手がアデルの頭の上で止まった。 しばらくそのまま動かなかった。 それから、そっとのった。 アデルは目を見開いたまま動かなかった。


学園長はリーネに目を移した。


「十五秒、唱えきったか」


「……ふたりで、です」


学園長は小さくうなずいて、格子に向き直った。 縁の石の三本の筋を指でなぞる。下から、外へ。 それから格子の下の暗い水を見下ろした。


「城壁の下の水門には、魔法師の守りがかけてある。鼠一匹、外からは通さん」


水の音だけが聞こえていた。


「では、あれはどこから来たのだろうな」

【8話あとがき】

その夜更け、城壁の下の水門へランプの灯りがひとつ下りていった。


フォンテーヌは石の壁に手のひらを当てたまま動かなかった。

黒い上着の襟は夜中でもきっちり留めてある。


「切れていません」


「そうか」


学園長は黒い水を見下ろしたまま答えた。


「ほころびも細工のあともありません。ずっと張られたままです」


「では、ひとりでに入ったのではないな」


フォンテーヌが顔を上げた。


「……誰かが中へ入れたと?」


学園長は答えなかった。


「詰め所の衛兵が言っていた。去年の冬も格子の下で夜中に騒ぎがあったそうだ」


「鼠だったと聞いています」


「誰が、そう決めた」


フォンテーヌは口を開きかけて、閉じた。


水門の鉄の扉には、太い錠が下がっている。

学園長はランプを近づけてそれを眺めていた。


「この話は、まだ誰にもするな」


「……はい」


灯りが遠ざかったあとも水は音もなく流れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。