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7.境界の通り

裏口の閂は、もう外れていた。


リーネはアデルと顔を見合わせた。 霜で固いはずの閂が壁に立てかけてある。


アデルが唇に指を当てた。 戸を細く押し開けて、首だけ外へ出す。右を見て、左を見る。 冷たい朝の空気が流れこんでくる。


アデルはリーネに手招きして、そろりと一歩踏み出した。


「遅えぞ」


アデルの肩がびくっと跳ねた。 厨房の子に借りた帽子が目の上までずり落ちる。


開いた戸の陰で、バルトロが壁にもたれていた。 腕を組んで、白い息を吐いている。


「……グレゴールに頼まれたのね」


「手間賃はもらってる」


バルトロは壁から背を離した。


「下町は用心が必要な場所だ。俺はいないもんだと思え。三歩うしろを歩く」


「止めないの?」


リーネが聞くと、バルトロは鼻を鳴らした。


「止めて止まるお嬢様かよ」


アデルは帽子を直して胸を張った。 怒られなかったのが少しだけ不満そうだった。


下町の市は運河に沿って長く続いていた。


表通りの石畳はここまで来ると途切れて、道はぬかるんだ土になる。 屋台の屋根は板きれや古い帆布だった。魚の匂いと焼いた芋の匂いと運河の水の匂いがまじっている。


「すごい」


リーネは思わず口に出した。 お屋敷のまわりより、ずっと村の市に似ていた。


アデルは帽子のつばを押さえて、きょろきょろしていた。 売り声がするたびに振り向く。目がずっと光っていた。


干した薬草の店は市のいちばん外れにあった。


店といっても、地面に敷いた布に籠が並んでいるだけだ。 しわだらけのお婆さんが小さな天秤の前に座っていた。


リーネは籠をひとつずつのぞいた。 三つ目の籠に黄色い花の茎ごと干した束が入っていた。


「こがね草!」


「お嬢ちゃん、よく知ってるねえ」


お婆さんは歯の抜けた口で笑った。


「花じゃなくて、葉っぱがほしいんです。お婆ちゃんの指にすりこむ軟膏にしたくて」


「葉なら、ひと掴みで銅貨二枚だよ」


お婆さんは葉をちぎって天秤の皿にのせた。 そうしながら、隣の店のおかみさんに話しかけた。


「そういや聞いたかい。学園の試しで、祈祷師の子が魔法師様の火を止めたんだってさ。ひと晩じゅう、誰もつけられなかったって」


リーネの顔がかっと熱くなった。


あたしです、とは言えなかった。 後ろでアデルが帽子の下でにやにやしているのが見なくてもわかった。


リーネは前掛けの裏のポケットから小さな布袋を出した。 お婆ちゃんの銅貨が四枚入っている。


袋の口をほどこうとした、そのときだった。


横から小さな手が伸びてきた。


袋が消えた。


痩せた男の子だった。 リーネより頭ひとつ小さい。裸足で、ぬかるみを跳ねるように走っていく。


「待って!」


リーネは走りだしていた。


「リーネ!」


アデルの声がした。 バルトロが何か怒鳴った。


止まれなかった。 あれは、お婆ちゃんの銅貨だ。


男の子は人の間をすり抜けていく。 籠を飛び越え、屋台の柱をくぐる。 リーネも同じところをくぐった。村で山羊を追いかけたときと同じだ。


市が途切れた先に、石の橋があった。


運河にかかった、古い橋だった。 たもとに衛兵がひとり立っている。槍を持った、立派な身なりの衛兵だった。


男の子はその横を駆け抜けて橋を渡っていった。


「スリです! あの子、スリです!」


リーネは叫んだ。


衛兵はリーネを見た。 それから橋の向こうに目をやって、ゆっくり目をそらした。


動かなかった。


リーネは衛兵の横を走り抜けた。


橋の真ん中で、一瞬だけ足が止まりかけた。 振り返る。


アデルが衛兵に食ってかかっていた。


「どうして追わないの! すりだって言ってるでしょう!」


衛兵は槍を持ったまま、アデルのほうを見もしなかった。


その後ろにバルトロがいた。 片手でアデルの腕をつかんでいる。橋に一歩踏み出したところで、足が止まっていた。もう片方の手が剣の柄を握りしめている。


「お嬢様を連れて、あっちへは渡れねえ! 戻れ、リーネ!」


リーネは前を向いた。


橋の向こうは、家が低かった。


屋根が傾いて、壁の板があちこち剥がれている。 道の真ん中を細い溝が流れていた。干した洗濯物が、軒から軒へ渡してある。


男の子の姿は、もうなかった。


「あんた、祈祷師さんかい」


リーネは振り向いた。


井戸のそばで桶を洗っていたおばさんがリーネの手首を見ていた。 赤い糸を。


「どうしたね。そんなに息を切らして」


普通の声だった。 村でパン屋のおかみさんに呼び止められたときと同じ声だった。


「男の子を見ませんでしたか。裸足の、これくらいの」


おばさんの手が止まった。 それから、目だけで路地のほうを示した。


「……あっちには、あんまり行かないほうがいいよ」


「ありがとう!」


リーネは路地に飛びこんだ。


路地の奥で声がした。


「銅貨四枚かよ。しけてやがる」


若い男が二人いた。 一人が布袋を手のひらで弾ませている。お婆ちゃんの袋だった。 もう一人は壁にもたれて、小刀で爪の先を削っていた。


裸足の子はその前に立っていた。 うつむいて、泥だらけの足の指を丸めている。


「次はもっとましなのを取ってこい」


袋の男が裸足の子の頭をはたいた。 裸足の子はよろけて、黙って頭を押さえた。


リーネの足が勝手に前に出た。


「返して」


二人がこちらを見た。


「それ、あたしのお婆ちゃんの銅貨。返して」


袋の男がきょとんとした。 それから笑いだした。


「なんだ、追っかけてきたのか。橋を渡って?」


「返して」


「やだね」


袋の男は布袋を懐に入れた。 それから、裸足の子の襟首をつかんだ。


「おい。お前、つけられたな」


袋の男の手が振り上がった。


リーネは考えるより先に飛びこんでいた。 裸足の子の手首をつかんで、引っぱる。男の手が空を切った。


「てめえ!」


リーネは走った。 裸足の子の手を引いたまま、路地の奥へ。


奥は行き止まりだった。


崩れかけた小屋が一軒あるだけだった。 戸板はなくて、戸口の柱が二本、ぽっかり立っている。


リーネは裸足の子を小屋の中へ押しこんだ。 ポケットに手を入れる。赤い糸の束があった。


足音が近づいてくる。


右の柱に糸を回す。三回くぐらせて、きゅっと締める。 戸口を渡して、左の柱へ。三回くぐらせて、きゅっと締める。 指が震えて、二回目の結び目が一度ほどけかけた。


赤い糸が一本、戸口をまっすぐ横切った。


「むだだよ」


小屋の奥で裸足の子がかすれた声で言った。


「あいつら、祈祷師なんか怖くない」


リーネは糸の内側で手を合わせた。


「赤き糸、結びて印となす」


二人が路地の角を曲がってきた。


袋の男が戸口の前でぴたりと止まった。 目が糸を見ていた。


リーネは唱えつづけた。


「主よ、この災いを遠ざけたまえ」


「……おい」


男は後ろを振り返った。


「祈祷師の糸だぞ、これ」


声が少しだけ低くなっていた。 袋の男は糸から半歩さがった。


止まった。 リーネの胸がどくんと鳴った。


効いてる? それとも。


「わが祈り、わが息——」


「ただの糸だろうが」


小刀の男が前に出た。 小刀が、ひゅっと鳴った。


ぷつん、と小さな音がした。


赤い糸が二つに分かれて垂れ下がった。


リーネの声が止まった。


まだ半分だった。 フォンテーヌ先生の砂時計は、五つ数えるあいだに落ちきった。 あたしの祈りは、その三倍かかる。


魔物の前では、一秒で人が死ぬ。 先生の声が、耳の奥で鳴った。


小刀の先がリーネの顔に向いた。


「どけ。ガキを出せ」


リーネは動かなかった。 両手を広げて、戸口に立った。


膝が笑っていた。 自分でもわかるくらい、がくがくしていた。


それでも、どかなかった。


後ろで裸足の子が息を殺している。 お婆ちゃんの銅貨より、こっちのほうが大事だった。なぜかはわからない。でも、そう思った。


「どけって言ってんだよ」


小刀が近づいてくる。


「そこまでにしておきましょうか」


静かな声だった。


路地の角に男の人が立っていた。


茶色い外套を着た、四十くらいの男の人だった。 きちんと髭を剃っていて、靴にはぬかるみの跳ねがひとつもなかった。後ろにもう一人、黙って立っている。


小刀の男の顔から血の気が引いた。


「……旦那」


「このあたりで子どもに盗ませるのは、決まりに反しますね」


外套の人は怒鳴りもしなかった。 ただ、少し首をかしげただけだった。


小刀がゆっくり下がった。 袋の男が懐から布袋を出して地面に置いた。


二人は顔を見合わせると、外套の人の横を足早にすり抜けていった。 一度も振り向かなかった。


外套の人は布袋を拾い上げた。 泥を払って、リーネに差し出す。


「このあたりの決まりでね。お騒がせしました」


リーネは袋を受け取った。 手がまだ震えていて、うまくつかめなかった。


外套の人は身をかがめて地面に垂れた赤い糸の切れ端をつまみ上げた。 指先でくるりと回す。中指の先に、インクの染みがあった。


「魔法師様の火を止めた糸というのは、これですか」


リーネは息をのんだ。


外套の人は切れ端をリーネの手のひらにのせた。


「最後まで唱えていたら、どうなったんでしょうね」


リーネは答えられなかった。 糸と祈りが、守ってくれると思った。だから張った。 でも、最後まで唱えていたら何が起きたのか。それは、わからなかった。


外套の人は小屋の中をのぞいた。 裸足の子が壁ぎわで小さくなっていた。


「さて。こっちは」


「……その子を、どうするの」


外套の人はリーネを見た。


「どうしましょうかね。決まりを破ったのは、この子も同じですから」


はっきりしない返事だった。 はっきりしないことが、いちばん怖かった。


リーネは袋を握りしめた。


「盗れって言われたんだよ。あの人たちに、はたかれてた」


「ええ。知っています」


「だったら、放してあげて」


外套の人は黙っていた。


「お願い」


外套の人はしばらくリーネの顔を見ていた。 リーネの膝は、まだ震えていた。それでも、戸口からどいていなかった。 それから、リーネの手首の赤い糸に目を落とした。


「いいでしょう」


外套の人は小屋のほうへ顎をしゃくった。


「行きなさい」


裸足の子は弾かれたように飛び出していった。 路地の角で一度だけ振り返った。それから見えなくなった。


リーネはほっと息を吐いた。


「ありがとう、ございます」


「どういたしまして」


外套の人は襟を直した。


「では、貸し一つ、ということで」


「貸し?」


「ええ。帳面につけておきます」


懐から小さな帳面を出して、一行書きつける。 粉屋の親父さんが、粉の目方を帳面に書きつけるときと同じ手つきだった。


外套の人は橋のたもとまで送ってくれた。


橋の向こうにバルトロが立っていた。 片手でアデルの腕をつかんで、もう片方の手を剣の柄にかけていた。


外套の人は橋の手前で足を止めた。 バルトロに向かって、軽く会釈をした。


バルトロは返さなかった。


「では、祈祷師さん。お気をつけて」


外套の人は来た道を戻っていった。


リーネが橋を渡りきると、アデルが腕を振りほどいて飛びついてきた。


「なんで一人で行くのよ!」


「……ごめん」


「ごめんじゃないわ!」


アデルの声が裏返っていた。 リーネの肩をつかんだ手が震えていた。


頭の上に、ごつい手がのった。 髪をぐしゃぐしゃにかき回される。


「この馬鹿」


バルトロだった。


「怪我は」


「……ない」


「そうか」


バルトロの目は、橋の向こうを見たままだった。


「……まだ、いやがったか」


小さな声だった。 リーネに言ったのではなかった。


薬草の店のお婆さんは、さっきの場所に座っていた。


「おや、戻ってきたのかい。取り返したのかい」


「はい」


答えた声が、自分のものじゃないみたいにかすれていた。


リーネは袋をほどこうとした。 指がうまく動かない。結び目に爪が二度すべった。 お婆さんは何も聞かずに、天秤の皿を拭いて待っていてくれた。


やっとほどけた。 銅貨は四枚とも、ちゃんとあった。


葉をひと掴み。銅貨二枚。 隣の肉屋で豚の脂をひとかけ。銅貨一枚。


お婆さんは葉を包みながら、もうひとつまみ足してくれた。


「おまけだよ。お婆ちゃんの指に、よく効くといいね」


最後の一枚は、袋に戻した。 これは、使わないでおこうと思った。


帰り道、アデルはしばらく黙っていた。


表通りの石畳に戻ったところで、ようやく口を開いた。


「ねえ、バルトロ。あの衛兵、どうして橋を渡らなかったの」


バルトロはすぐには答えなかった。 三歩うしろで、靴の泥を石畳にこすりつけていた。


「あっちにはあっちの決まりがある」


「決まり?」


バルトロは顔を上げた。 遠くに、学園の塔が白く光っていた。


「帝都はな。きれいなだけじゃねえ」


アデルは何か言いかけて、やめた。


リーネはポケットに手を入れた。 切れた赤い糸の端が、指にふれた。


あの人は、あたしの糸を知っていた。


糸は、ちゃんと張れた。 祈りが、間に合わなかった。


このままじゃ、だめだ。


お屋敷の裏口に着くと、グレゴールが戸の前に立っていた。 片手に、帽子をひとつ持っていた。


アデルが首をすくめた。


グレゴールは何も言わずに、アデルの頭から借り物の帽子を取った。 代わりに、自分の持ってきた帽子をかぶせた。お嬢様の帽子だった。


「……お昼の支度ができております」


それだけだった。


リーネが二人のあとについて戸をくぐろうとしたとき、バルトロが呼び止めた。


「おい」


「なに?」


「その軟膏、今夜のうちに練っとけ。手紙も書き上げとけ」


リーネは包みを抱え直した。


「どうして?」


バルトロは厩のほうへ歩きだしていた。 振り返らずに言った。


「明日の朝、俺は発つ。お前の村のほうへな」

【7話あとがき】

その日の昼すぎ、市の外れの薬草の店にまた客が来た。


「聞いたかい。学園の試しで、祈祷師の子が魔法師様の火を止めたんだってさ」


お婆さんは客に葉を量りながら同じ話をもう一度した。 それから、天秤の皿を拭く手を止めた。


「……そういや、さっきの子。手首に赤い糸を巻いてたねえ」


「さっきの子?」


「こがね草を買っていった子だよ。お婆ちゃんの指に塗るんだって」


お婆さんは首をかしげて、それから笑った。


「まさかね」


夕方には、話は橋を渡っていた。


「学園長さまを負かしたんだとさ」


井戸のまわりで桶を抱えた女たちが顔を寄せあっていた。


「手首に赤い糸の子かい」


桶を洗っていたおばさんが手を止めた。


「それなら今朝、そこの路地へ駆けていったよ。息を切らしてさ」


「まさか。あんな小さい子が?」


井戸の縁に裸足の子が膝を抱えて座っていた。 何も言わずに聞いていた。


夜には、運河沿いの酒場の隅まで来ていた。


「で、どこの子だい」


「さあね。貴族のお屋敷にいるって話だ」


「祈祷師が? お屋敷に?」


男たちはどっと笑った。


「そいつはいい。次は魔物でも止めてもらうか」


隅の卓で、誰かが小さな帳面を閉じた。

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