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9.二本の糸

帝都の雪がすっかり消えたころ、バルトロが帰ってきた。 寮に入る二日前の昼だった。


「バルトロさんだ!」


裏庭でコレットが叫んだ。 リーネは持っていた洗い桶をその場に置いて走った。


裏門の前に馬が一頭止まっていた。 脚が泥で茶色い。鞍の後ろの鞄も泥だらけだった。


バルトロは馬から下りるところだった。 ひげがのびて、頬が少しこけていた。


リーネは三歩手前で止まった。


鞄の革紐に赤い糸が結んであった。 雪と泥に洗われて、色はすっかりあせている。 それでも三回くぐった結び目は、出がけに締めたときのまま締まっていた。


「……外してないね」


「外してねえって書いたろ」


リーネはポケットから糸を出した。 何も言わずに裏門の柱へ走る。 糸をかける。


いち、に、さん。


締まった。


振り向くとバルトロが腕を組んで見ていた。


「……三つか」


「ひと冬かかった」


バルトロは鼻を鳴らした。 その目がリーネの袖口で止まった。


まくれた袖の下に、桃色の筋が三本のぞいていた。


リーネはあわてて袖を下ろした。 バルトロは何も聞かなかった。


バルトロは鞄の口をほどいた。 中から布の包みを出して、リーネに放ってよこした。


受け止めると、ふわりと軽い。 布を開くと、赤い糸の束が出てきた。


赤い色にむらがあった。濃いところと、薄いところ。 村の家の裏で、お婆ちゃんが鍋で染める糸だ。 指がこわばる冬は、絞るのに時間がかかる。だからいつも、むらになる。


「婆さんからだ。手紙の返事のかわりだとよ」


リーネは束を両手で持ったまま動けなかった。


「言づてもある」


バルトロは頭をかいた。


「ちゃんと食べな。それと、糸が足りなくなるころだろう、だと」


リーネは束に顔をうずめた。 かまどの煙のにおいがした。 村の、お婆ちゃんの家のにおいだった。


「……足りなくなんか、なってないもん」


声が糸の中でくぐもった。


その晩、厨房の卓は久しぶりにうるさかった。


コレットがパンを山ほど運んできた。料理番のおばさんは、肉を二切れよけいに盛った。 バルトロは黙って食べた。 三切れ目でようやく顔を上げた。


「どこまで行ってたの?」


アデルが聞いた。


「川向こうまでな。どうってことねえ。宿はひでえもんだった。壁は薄いし、豆しか出ねえ。馬小屋は雨もりで、隣の部屋は気色の悪い笑い方をする男だ。親父は釣り銭をごまかしやがる」


コレットが肩をすくめて、アデルが笑った。


笑ったまま、アデルは身を乗り出した。


「こっちも大変だったのよ。格子から魔物が出たの。リーネが糸を結んで、わたしが火花を三つ出して。どこから入ったのかは、まだ分からないんだって」


バルトロの匙が止まった。


「……格子から? 帝都の中でか」


「腕を裂かれたのよ、リーネ。三本も」


アデルは言ってしまってから口をおさえた。 リーネは袖口をにぎった。


バルトロはリーネを見た。 袖口を見た。 それから匙を置いた。


「婆さんに、危ないことはしてねえって言っちまった」


低い声だった。


「俺がいるあいだは、ってな」


卓が静かになった。 バルトロはそれきり何も言わずに残りの肉を食べた。


リーネはパンを持ったままバルトロの横顔を見ていた。


宿の話も、村の話も、お婆ちゃんの話もした。 峠の向こうの村のことだけ、ひと言も言わなかった。


聞けばいい。 でも口が開かなかった。 答えが返ってきたら、もう知らなかったころには戻れない。


リーネはパンを小さくちぎって、ゆっくり食べた。


次の日、市の広場は人でいっぱいだった。 リーネはアデルと並んでグレゴールの後ろを歩いていた。 寮に持っていく物を買いに来たのだ。新しい靴下と、ろうそくと、糸。


「糸はうちにいくらでもあるのに」


「自分で選びたいの」


噴水の横に大きな板が立っていた。 紙が何枚も貼ってある。迷い犬。売り家。仕事の口。


いちばん上の紙だけがほかと違っていた。 まわりの紙はどれも黄ばんでいるのに、その一枚だけが真新しく白い。


紙の端から下の紙がのぞいている。 その下にも、もう一枚。 板のその場所だけが、ぶあつく盛り上がっていた。


リーネが太い字を読もうとしたときグレゴールが振り返った。


「お嬢様方。こちらでございます」


声はいつもどおりだった。でも板のほうは一度も見ないまま、二人が離れるまで待っていた。


寮に入る前の晩、リーネは裏庭へ下りた。 厩に灯りがついていた。


バルトロが鞍に油を塗っていた。 鞄が足もとに置いてある。あせた赤い糸が灯りの中でかすかに見えた。


リーネは厩の戸口に立った。


「峠の向こうの村に、祈祷師さん、いた?」


バルトロの手が止まった。 油のついた布を鞍の上に置いた。


「いなかった」


馬が鼻を鳴らした。


「昔は一人いたそうだ。死んでからは、誰も。杭も一本もなかった。村は、もうねえ」


リーネは戸口の柱をつかんだ。


泣くと思った。 でも、涙は出てこなかった。


バルトロは鞄の口を開けた。 内側から赤い糸を一本出して、リーネの手のひらにのせた。 リーネの手首の糸より、ずっと色が薄かった。


「お前の村から嫁に行った娘が、生き残ってた。その一人が俺によこした」


リーネは糸を見下ろした。


「お婆ちゃんは、知ってるの」


「帰りに寄って、言った。婆さんは何も言わねえで、村の杭の糸を端から一本ずつ締め直してた」


リーネはうなずいた。 それしかできなかった。


「……あたしが、峠の向こうの杭も結んでたら」


「十二の子どもが、峠を越えて毎年か」


バルトロの声は低かった。


「あの村には、結べるやつがいたんだ。お前の村の生まれの女が四人もな」


「そんな言い方」


「ひでえ言い方だな」


バルトロは厩の暗いほうを見ていた。


「誰か一人のせいにできる話じゃねえ。お前のせいでもねえ」


リーネは左の手首をバルトロの前に出した。 いつも巻いている赤い糸の横に、あせた糸を添える。


「結んで」


「俺がか」


「片手じゃ結べないもん。三回くぐらせて、最後にきゅっと」


バルトロは太い指で糸をつまんだ。 一回目は団子みたいにふくらんでゆるんだ。


「……粉屋の親父と同じだな」


リーネは少しだけ笑った。


「ほどいて、もう一回」


二回目で二本の糸が手首でひとつに締まった。


リーネは結び目を指でなぞった。


「……連れてく。学園にも。どこにでも」


バルトロは鞍の上の布を取った。


「今度危ねえことをしたら、聞かれる前に言え。婆さんに嘘をつくのは、一回でたくさんだ」


「うん」


リーネは厩を出た。 戸口で一度だけ振り返った。


「本当のこと、言ってくれて、ありがとう」


バルトロは油の布を持ったまましばらく黙っていた。


「聞かれたからな」


その晩、リーネは手首の結び目を指でにぎったまま、窓が白くなるまで目を開けていた。


次の朝、帝都の空はよく晴れていた。


学園の門の前には馬車が何台も並んでいた。 同じ年ごろの子どもたちが、それぞれの家の紋のついた鞄を下ろしている。 リーネの鞄には紋がなかった。


刺繍の袖の男の子が門の柱にもたれていた。 エミール・ダルシェ。門の外で「次は灯す」と言った子だ。


「……来たか」


「うん」


エミールの後ろで、誰かが大きな声を出した。


「おい、見ろよ。祈祷師がほんとに来たぞ」


聞き覚えのある声だった。 冬の試しで、リーネの糸をいちばん笑った男の子だ。 まわりの何人かが振り向いた。くすくす笑う声がした。


アデルが前へ出ようとした。 リーネはその袖をそっと引いて、門をくぐった。


門の向こうは、冬の試しのときと同じ中庭だった。 白い砂の上に新入生が並ばされて、黒い上着の大人が名前を読み上げた。


「バスティアン・モロー」


「はい!」


いちばん大きな返事だった。


「リーネ」


「……はい」


姓は読まれなかった。


寮の部屋に荷物を置くと、リーネはまず寝台の柱に糸をかけた。 いち、に、さん。 もう一つの寝台は、まだ空いていた。


鞄の底には、ひと冬ぶんの書き写しの帳面が入っている。 曲がった指を治す薬は、まだどの本にも見つからなかった。


日が暮れると、食堂の長い卓は新入生でいっぱいになった。


リーネがスープに匙を入れたとき、横に誰かが立った。 モローだった。後ろに何人かついてきている。


「祈祷師も、ここで食うのかよ」


モローはリーネの皿をのぞきこんで鼻で笑った。 それから、まわりに聞こえるように声を張った。


「だからさ、あの芯は濡れてたんだって。祈祷師がなんか塗ったんだよ。じゃなきゃ俺の火が消えるわけねえだろ」


何人かがうなずいた。 アデルの匙が皿の上で止まった。


「乾いてたって、試験官の先生が言ったじゃない」


「先生だって見てなかったんだろ。祈祷師ってのは、そういう細工がうまいんだ。村でもそうやって、まじない代を取ってんだよ」


笑い声が起きた。


リーネは黙ってスープを飲んだ。 村でも帝都でも、言われてきたことだ。


モローが卓に手をついた。 その指先に、小さなやけどのあとがいくつも並んでいた。


この子も、ひと冬練習したんだ。


そう思ったとき、モローと目が合った。


「なんだよ」


モローはリーネの手首をのぞきこんだ。


「ぼろ糸が二本に増えてるじゃねえか。まじないのつもりかよ」


指が、あせた糸に引っかかった。


ぐい、と引かれた。 手首ごと持ち上がる。


「さわらないで」


食堂が静かになった。


自分でも聞いたことのない声だった。 気がつくと立ち上がっていて、リーネの手がモローの手首をつかんでいた。


モローは目をまるくした。 それから口の端を上げた。


「へえ。祈祷師も怒るんだな」


指が糸から離れた。


「明日から詠唱の授業だってよ」


モローは手首をさすりながら、まわりに聞こえるように言った。


「お前のあの長ったらしい祈り、みんなで数えてやるよ。何十数えりゃ終わるんだっけな」


また笑い声が起きた。 アデルが立ち上がりかけた。


リーネはモローから目をそらさなかった。


「うん。数えて。あたしも、あなたの火を見てる」


モローの笑いが、一瞬だけ止まった。


卓の端でエミールが匙を置いた。 その目はモローの指先を見ていた。


「十五だ」


誰に言うともなく言った。


「俺も数える」


リーネは席に戻った。 手首の結び目に指で触れる。


まだ少し、指がふるえていた。

その夜更け、詠唱学の教室にはまだ灯りがついていた。


フォンテーヌは教卓に名簿を広げていた。 指から小さな砂時計を鎖で下げて、ときどき逆さにする。 砂は五つ数えるうちに落ちきった。


戸が開いた。 学園長が入ってきて、いちばん前の長椅子に腰を下ろした。


「明日の一年か」


「はい」


「食堂で、ひと騒ぎあったそうだな」


「モローが、祈祷師の子の糸を引いたと聞きました」


「止めたのは誰だ」


「本人です」


学園長は小さく笑った。


「明日、あの子にも唱えさせるのか」


「唱えさせます。全員、同じ手順です」


フォンテーヌは砂時計を逆さにした。


「砂は落ちきるでしょう。三度は返すことになります」


「笑う者も出る」


「数えたい者には数えさせます。わたしも数えます」


学園長は窓の外を見た。 城壁のほうは暗かった。


「格子のほうは、いかがですか」


フォンテーヌが聞いた。


「ひと冬、見張りを立てた。何も出なかった」


学園長は窓の外を見たまま言った。


「……かえって胸騒ぎがする」


フォンテーヌは名簿を閉じた。


学園長は立ち上がり、戸口で振り返った。


「フォンテーヌ。明日は寝癖を直していけ」


フォンテーヌは後ろ頭に手をやった。 砂はとうに落ちきっていた。

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