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5.誰にも灯せない

次の朝、お屋敷の門の前に小さな馬車が一台止まっていた。 荷台に幌をかけただけの、村へ帰るための馬車だった。


「お祖父さまの石頭」


アデルは門柱をにらんでいた。目のふちがまだ赤い。


「ゆうべ三回も書斎の扉を叩いたのよ。三回とも『決めたことだ』って」


「三回も?」


「四回目はグレゴールに止められたわ」


後ろでグレゴールが咳払いをした。 リーネはちょっとだけ笑った。


「アデル。帝都、すごかったよ。お婆ちゃんにいっぱい話すね」


アデルは何か言いかけて、唇を噛んだ。 それから両手でリーネの手を包んだ。手首の赤い糸ごと。


「手紙を書くわ。毎月。返事をくれなかったら、村まで取りに行くから」


「うん」


リーネは手を振って荷台に乗りこんだ。


馬車が動きだす。 バルトロが馬で横に並んだ。村まで送るのは、またこの人だった。


両替屋の前を過ぎた。 魔法道具の店の前も過ぎた。


村に帰ったら、また杭を結ぼう。 お婆ちゃんと二人で、一本ずつ。 それだって、ちゃんとした仕事だ。


灰色の城壁が近づいてくる。 門の影が荷台にかかった、そのときだった。


後ろから蹄の音がした。 ひどく急いでいる音だった。


「止まれ! その馬車、止まってくれ!」


バルトロが馬首を返した。 石畳を一頭の馬が駆けてくる。乗っているのは黒い上着の若い男の人だった。


昨日、中庭で笑わなかった試験官だ。


試験官は馬車の横で手綱を引いた。息が上がっていて、上着の襟が曲がっている。目の下が黒い。一晩寝ていない顔だった。


「祈祷師の、リーネだな」


「は、はい」


「学園長がお呼びだ。すぐに戻ってほしい」


リーネはバルトロを見た。 バルトロは鼻の頭をかいて空を見上げた。


「……だろうな」


それだけだった。


学園の中庭は、昨日と同じ白い砂だった。 でも昨日とは何かが違っていた。


ほかの十の列は、どれも新しい灯芯に替えてある。 リーネの列だけが昨日のままだった。 七本の杭に赤い糸が結ばれている。七本目のいちばん細い杭は、まだ斜めに傾いていた。


その列の足もとの砂だけが黒く汚れていた。 燃えさしの付け木が何十本も散らばっている。 ひと晩じゅう誰かが火をつけようとした跡だった。


回廊には、昨日の試しを受けた子たちが集められていた。 眠そうな顔。不機嫌な顔。何が起きているのかわからない顔。


その中に刺繍の男の子がいた。 声の大きな男の子もいた。リーネを見るなり、顔をしかめた。


「なんで祈祷師がいるんだよ」


誰も答えなかった。


学園長はリーネの列の一本目の杭の前に立っていた。 昨日と同じ黒い上着。袖はまくったままだった。


リーネが前に出ると、学園長はリーネではなく回廊の子たちを見た。


「あの列を、灯しなさい」


ざわっと声があがった。


「灯す? 祈祷師の列を?」


「昨日の試しで、灯らなかった列だ」


学園長の声は相変わらず大きくなかった。


「一本でいい。灯せた者には、わたしが何かしら便宜を図ろう」


回廊がざわめいた。 それからいちばんに飛びだしてきたのは、声の大きな男の子だった。


「俺がやります」


男の子は白い線の前に立って、リーネのほうへ鼻を鳴らした。


「祈祷師の後始末だろ。楽勝だって」


右手を灯芯に向ける。 指先にぽっと火が灯って、矢みたいに飛んだ。 昨日、この子は三本灯していた。火は迷わず一本目の灯芯に届いた。


届いて、消えた。


じゅっ、と小さな音がした。 水に落ちたみたいだった。


「……あれ?」


男の子はもう一度手を向けた。 火が飛ぶ。灯芯に触れる。消える。


「湿ってんだよ、この芯」


「乾いている」


答えたのは若い試験官だった。


「ゆうべ、わたしが確かめた。その列は糸も芯も、昨日から何ひとつ動かしていない」


男の子の顔が赤くなった。 三度目の火は、ひときわ大きかった。それでも灯芯の先で、じゅっと消えた。


男の子は白い線から下がった。


リーネは自分の列の赤い糸から、目が離せなかった。 光ってもいない。ただ結ばれているだけだ。 なのに、火がつかない。 あたしは何をしたんだろう。


次の子も、その次の子もだめだった。 二本灯した子も。五本灯した子も。 火は灯芯に届くたび、じゅっと音を立てて消えた。


刺繍の男の子が前に出た。


男の子は何も言わなかった。 白い線の前で目を閉じて、ゆっくり息を吸った。


指先に灯った火は、ほかの子のよりずっと静かだった。 揺れない。大きくもならない。細い糸みたいにまっすぐ伸びていく。


周りが息をのんだ。 火の糸が、一本目の灯芯の先に触れた。


灯芯の先が、ほんの一瞬だけ赤くなった。


そして、ふっと消えた。


男の子は手を下ろさなかった。 もう一度。二度目も同じところで消えて、やっと手を下ろした。


それから振り向いて、リーネの手首の糸を見た。 長いこと見ていた。 何も言わずに回廊へ戻っていった。


中庭がしんとした。


学園長が白い線の前に出た。 回廊の子たちがいっせいに背筋を伸ばす。


学園長は右手を上げた。 手のひらの上に火が生まれた。


子どもたちの火とは比べものにならなかった。 炎はみるみるふくらんで、人の頭ほどになった。離れているリーネの頬まで熱くなる。あれを投げたら、杭ごと燃えてしまう。


学園長の指がゆっくり閉じた。


炎が縮んでいく。 ふくらんだぶんを全部押しこめるみたいに、小さく、小さく。 最後には豆粒ほどの白い玉になった。見ているだけで目が痛い。玉のまわりの空気がゆらゆら揺れて、低くうなっていた。


学園長の指先が灯芯をまっすぐ指した。


白い玉が走った。


そして、杭のずっと手前で細くなった。 見えない壁にぶつかったみたいに薄く削られていく。子どもたちの火が消えたところより、指一本ぶん手前で、ふっと消えた。


じゅっ、という音さえしなかった。


誰も、何も言わなかった。 声の大きな男の子が口を半分開けたまま固まっていた。


学園長は手を下ろした。 それから自分の手のひらをしばらく見ていた。


リーネは息を吸った。


杭に結べば、災いは入ってこない。 お婆ちゃんはずっとそう言っていた。


もし、火も同じなら。


「あの」


声が裏返った。回廊の目がいっせいにこちらを向く。


「一本だけ、ほどいてみても、いいですか」


学園長がリーネを見た。 長い間があった。


「やってみなさい」


リーネは一本目の杭の前にしゃがんだ。 三回くぐらせて、きゅっと締めた結び目。 指は結んだときと同じ道を、逆にたどった。


糸がするりと杭から外れた。


学園長が若い試験官にあごをしゃくった。 試験官が指を向ける。小さな火が飛ぶ。


灯芯に火がともった。


あっけないくらい、すぐだった。 ろうそくみたいな小さな火が、白い砂の上で揺れていた。


回廊のどこかで、誰かがつばをのむ音がした。


リーネはほどいた糸を手のひらにのせて、ともった火を見ていた。


やっぱり。 火も、入ってこないんだ。


「昨日、わたしは不合格と言った」


学園長の声に、リーネは顔を上げた。


「灯せなかったからだ。それは今も変わらない。お前は灯芯に火をつけていない」


リーネはぎゅっと糸を握った。


「だが、誰にも灯せぬものを残した」


学園長は回廊の子たちを見た。それから若い試験官を見た。最後に、傾いた七本目の杭を見た。


「入学を許す」


リーネはすぐには意味がわからなかった。


「……え」


「春からだ。それまで孫の家に置いてもらいなさい」


学園長は少しだけ黙った。


「書庫は、入学の前から開けてやる。ただし、わたしの目の届くところでだ」


書庫。 リーネの喉がひゅっと鳴った。


「あ、あの。ありがとう、ございます」


頭を下げようとして、手のひらの糸を落としそうになった。 慌てて握り直す。


回廊がざわざわと揺れはじめた。


「入学って、祈祷師が?」 「でも見ただろ、学園長の火が」 「あんなの、聞いたこともないぞ」 「……祈りが長えって言ったの、誰だよ」


声の大きな男の子は何も言わなかった。 自分の手のひらを見下ろして、ぎゅっと握っていた。


刺繍の男の子は、もう回廊にいなかった。


学園長は残りの六本の杭を振り返った。


「あの列は、そのままにしておけ」


若い試験官が、はい、とかすれた声で答えた。


中庭の門のところで、バルトロが腕を組んで待っていた。


「どうだった」


「……入学、だって」


「そうか」


バルトロは顎の無精髭を撫でた。


「荷台の荷物、下ろさにゃならんな。お嬢様が泣くぞ」


「泣かないよ。アデルは」


「泣く。賭けてもいい」


それからバルトロは、中庭のほうをあごでしゃくった。


「さっきの声のでかい坊主な。下がるとき、お前を射殺しそうな目で見てたぞ」


「え、見てなかった」


バルトロが吹きだした。


リーネは首をかしげて、それから自分でも笑った。 本当にちゃんと、笑えた。


手首の糸に指が触れた。 お婆ちゃんになんて書こう。春まで帰れないって。でも書庫に入れるって。


門を出たところで、誰かが柱にもたれていた。 袖口に金の刺繍。


男の子はリーネの手の中の糸を、一度だけ見た。


「……一瞬だけ、赤くなった」


低い声だった。


「次は灯す」


男の子は柱から背中を離して歩きだした。


「あ、あの。名前……」


男の子は足を止めずに言った。


「ダルシェ。エミール・ダルシェ。冬(・)が(・)明(・)け(・)た(・)ら(・)よろしく。」


それだけで、通りの人ごみへ消えていった。


リーネはぽかんとして、その背中を見送った。


次。 その言葉が、遅れて胸に落ちてきた。


春から、あたしもここにいるんだ。

【5話あとがき】

その夜、学園の中庭で若い試験官は付け木を擦っていた。


十本目。二十本目。

火は灯芯の手前で、じゅっと消える。


「芯を替えてみましょうか」


「替えるな、フォンテーヌ」


回廊の暗がりから声がした。学園長は柱のそばに椅子を出して、さっきからずっと座っている。


「糸にも触るな」


三十本目で、試験官は手を止めた。指先が煤で真っ黒だった。


「学園長。あの子は何をしたんでしょう」


返事はなかった。


付け木の箱が空になったころ、東の空が白みはじめた。

学園長が椅子から立った。


「馬を出せ。城門だ」


「……城門?」


「祈祷師の馬車がじき出る」


試験官は箱を取り落として走っていった。


中庭には学園長だけが残った。

赤い糸は夜明けの薄い光の中で少しも動かなかった。


「……灯らん、か」

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