4.灯しの試し
五日目の昼、丘を越えたところで馬車が止まった。
「リーネ、見て」
アデルが窓を開けた。 リーネは身を乗り出して、そのまま固まった。
灰色の壁がどこまでも続いていた。 壁の向こうに屋根。屋根の上にまた屋根。 いちばん奥には尖った塔がいくつも空へ伸びている。
「……あれ、全部、家?」
「全部じゃないわ。お店もお役所も神殿もあるの。学園はあの塔のあたり」
村の家を全部並べても、あの壁の端から端までには届かない。 リーネは指で数えようとして、すぐにやめた。
試しのことは、道中でアデルから何度も聞いた。 杭の上の灯芯に、魔法で火をつける。一本でも灯れば合格。
宿に泊まるたび、リーネは夜中にこっそり灯芯を借りて糸を結んだ。 唱えると糸は蛍みたいに光った。 灯芯に火がつくところまでは、いかなかった。 でも糸を二本結んでつないだ夜は、光がほんの少し強くなった。
門をくぐると馬車ががたんと揺れて、車輪の音が変わった。 道が全部、石だった。 雨が降ってもぬかるまないのだろうか。
人がいた。 どこを見ても人がいた。 荷車を押す人、籠を頭にのせた人、犬を連れた人。誰もこちらを見ない。 村なら知らない顔が一人通っただけで、おかみさんが戸口から出てくるのに。
「グレゴール、ここで降りるわ。試しは明日だもの。今日のうちに少し街を案内したいの」
御者台から長いため息が返ってきた。 バルトロが肩をすくめて馬から降りる。
「俺がつきます。……お嬢様の押しには、もう慣れました」
石畳の上にリーネはおそるおそる足を下ろした。 靴の裏が硬い。土の道とぜんぜん違う。
足もとで水の音がした。 道の端に鉄の格子がはまっていて、その下を水がごうごうと流れている。 雨はここへ逃げていくんだ。だから、ぬかるまない。
通りを進むほど看板が増えていく。 文房具の店。防具の店。きらきらした瓶を並べた魔法道具の店。それから——
「お金をお金に替えるお店?」
「両替屋よ。替えると、手間賃のぶん少し減るの」
「……なんでわざわざ減らしちゃうの?」
アデルがくすっと笑った。
「帝都には、よその国からも人が来るのよ。自分の国のお金のままじゃ、パンひとつ買えないもの」
よその国。 リーネは峠の向こうさえ、行ったことがなかった。
通りの先に、灰色の城壁がまた見えた。
「ねえ、アデル。帝都には杭はないの? 魔物よけの」
「杭はないわ。城壁に魔法師の守りがかけてあるの。帝都に魔物が入ったことは、一度もないんですって」
一度も。 リーネは峠の向こうの村のことを思った。 あそこには壁も杭もなかったのだろうか。それとも、あったのに。
アデルが魔法道具の店の前で足を止めた。
「お祖父さまに頼まれたものを受け取るだけ。ちょっと寄らせて」
扉を押すと鈴が鳴った。 奥から細身の店主が出てきて、アデルを見るなり深々と腰を折った。
「これはこれは、サン=クレール家のお嬢様。ようこそお越しくださいました」
サン=クレール。 アデルの家の名前を、リーネははじめて聞いた。 店主の背中がそれだけでぴんと伸びている。
そこで店主の目がリーネの手首に止まった。 赤い糸。 笑顔はそのままだった。声だけが少し冷えた。
「……恐れ入りますが、お連れさまは外でお待ちいただけますでしょうか。当店は魔法師さまのお店でございまして」
リーネは自分の手首を見た。 お婆ちゃんが結んでくれた糸。ほかに変わったものは何もない。
アデルがすっと背筋を伸ばした。 さっき両替屋の前で笑っていた子とは別人みたいな、澄んだ声だった。
「そう。では、わたしも外で待ちます」
アデルはそのまま踵を返した。 鈴がもう一度、乱暴に鳴った。
外に出てから、リーネは小声で聞いた。
「あたし、何かした?」
「糸よ」
アデルは唇を噛んでいた。
「帝都では、手首の赤い糸は祈祷師のしるしなの。……ごめんなさい。先に言っておけばよかった」
リーネは袖を引っぱって手首を隠しかけた。 隠しかけて、やめた。
お婆ちゃんの結び目が袖の端からのぞいていた。 ゆっくりゆっくり結んでくれた、ほどけない結び目。
「いいよ。これ、とっちゃだめなやつだから」
後ろでバルトロが鼻を鳴らした。
「言えば外すと思って黙ってた。外さんでいい。明日はもっとじろじろ見られるぞ」
アデルはバルトロをにらんでから、前を向いた。
「一本でいいのよ。わたしだって、秋の試しは一本目にやっと届いただけなんだから」
それから、リーネの手首の糸にちらりと目をやった。
「お祖父さまは、自分の目で見たものしか信じない。だから、見せればいいの。……あなたにしかできないやり方で」
サン=クレール家のお屋敷は、村の広場がまるごと入りそうなほど大きかった。 その晩リーネは、ふかふかすぎる寝台の端で丸くなった。
あたしにしかできないやり方。
糸一本なら、蛍くらいの光。 二本つなげば、少しだけ強くなった。 村ではもっと違った。お婆ちゃんの結び目から結び目へ、光は川みたいに村をひと回りした。
火がつくかどうかは、わからない。 でも七本ぜんぶに結んで、つなげたら。 あの光の輪みたいに、強くなるかもしれない。
リーネは手首の糸を握って、やっと目をつぶった。
次の朝。
学園の中庭には白い砂が敷きつめられていた。 砂の上に杭の列がいくつも並んでいる。一列に七本。遠くへ行くほど細く高くなり、どの杭の上にも小さな灯芯が立っていた。 一本目は三歩先。そこから三歩ずつ遠くなって七本目は二十一歩先。 列の手前には白い線が一本引いてある。試しを受ける子は、そこから出てはいけない。
受ける子は、リーネを入れて十一人。 みんなきれいな上着を着ていた。 リーネの上着には、お婆ちゃんがあてた継ぎがふたつあった。
隣の列に、袖口に金の刺繍をした男の子がいた。こちらには目もくれない。 その向こうの列の、声の大きな男の子がリーネの手首を見るなり鼻で笑った。
「冬の試しに祈祷師かよ。お祈りで火がつくなら誰も苦労しないって」
列のいちばん奥、七本目の杭はここからだと針みたいに細く見えた。
「七本目なんて、届いたやついるのか?」 「いないよ。秋はヴェルモンド家のルドヴィク様でも六本で止まったんだから」
後ろの子たちのひそひそ声に、リーネは七本目をもう一度見た。
アデルは中庭を囲む回廊にいた。試しを受ける子でなければ、砂の上には下りられない。手すりをぎゅっと握っている。バルトロはその後ろで腕を組んでいた。
鐘がひとつ鳴った。
回廊の奥から一人のおじいさんが下りてきた。
思っていたよりずっと小柄だった。 飾りのない黒い上着。白い髪は短く刈りこんである。まくった袖の下の左腕に、古い火傷の痕があった。 目だけがアデルに似ていた。
周りの子たちがいっせいに背筋を伸ばした。
学園長だ。
学園長は名簿も見ずに、一人ずつ名前を呼んだ。 呼ばれた子は自分の列の前に立つ。
一本目の杭には、その子の名前を書いた木札が細い紐でくくりつけてあった。
最初の男の子は二本目まで火をつけた。 次の女の子は一本目で、灯芯がくすぶって消えた。 刺繍の男の子は四本。リーネにちらりと一瞥をくれてから後ろへ歩いていった。
一本もつけられなかった女の子は、列から下がると両手で顔を覆って泣きだした。
子どもでも泣かせる。 バルトロの言葉を思い出して、リーネは唾をのみこんだ。
「リーネ」
家の名前のない名前は、中庭によく響いた。 誰かが小さく吹きだした。
リーネは白い線の前に立った。 学園長がリーネの前まで来た。 近くで見ると皺の深い顔だった。笑ってもいないし、怒ってもいない。
「孫の手紙は読んだ」
低い、静かな声だった。
「村の杭に糸を張ったそうだな。何本ある」
「……数えたこと、ないです。お婆ちゃんと何年もかけて、ちょっとずつ」
学園長は何も言わなかった。
「灯しなさい」
リーネは息を吸った。
「あの。あたしのおまじないは、糸を結ばないとできないんです。線から出て、杭に結んできてもいいですか。七本、ぜんぶ」
どっと笑いが起きた。 試験官らしい若い男の人が、眉をひそめて学園長を見た。
学園長の顔は動かなかった。
「好きにしなさい」
リーネは懐から糸の束をつかみ出して、走った。
一本目。三回くぐらせて、きゅっと締める。 二本目。三本目。 四本目、五本目。指が震えて一度しくじった。もう一度。 六本目。七本目。二十一歩先の、いちばん細い杭。背伸びしてやっと届いた。
「杭を縛って回ってるぞ」 「あれで火がつくのかよ」
いちばん笑っていたのは、声の大きな男の子だった。
リーネは息を切らして線まで戻った。 両手を合わせる。
「赤き糸、結びて印となす——」
指先が熱い。
「——ことごとく、主に捧ぐ」
一本目の糸がほうっと光った。 光は杭を伝って、二本目へ。三本目へ。 細い光の筋が、白い砂の上を走っていく。 四本目。五本目。六本目。 ルドヴィクという人が届かなかった、七本目まで。
届いた。 村の夜と同じだった。
それなのに。
七本目の灯芯は、黙ったままだった。 一本目も。どの灯芯も。
昼の光の中で、糸の光は陽炎みたいに薄れて消えた。
「……で?」 「祈りが長えよ」
笑い声が中庭いっぱいに広がった。
リーネは合わせた手を見下ろした。 つながったのに。 走ったのに。 なのに、火だけがつかない。
村でもそうだった。光は魔物を消した。でも、何かを燃やしたことは一度もない。
「灯らず。不合格」
学園長の声は大きくなかった。 それなのに、笑い声がぴたりと止んだ。
「約束どおり、村まで送らせる」
学園長はそれだけ言って、次の子の名前を呼んだ。
リーネは列から下がった。 足がふわふわして、砂を踏んでいる気がしなかった。
書庫。霊薬。お婆ちゃんの指。 全部、村へ持って帰ることになる。
泣かないって、言った。 リーネは手首の糸をぎゅっと握った。
回廊を見上げると、アデルが手すりに額を押しつけていた。
残りの子たちの試しが、遠い音みたいに続いた。 三本。一本。五本。拍手。ため息。
最後の子が終わると、学園長が中庭の真ん中に進み出た。
「締めの風だ。最後に学園長が全部吹き消すんだよ」
声の大きな男の子が言った。 周りの子たちが、慣れた様子で腕を顔の前に上げる。
学園長は右手を上げた。 その目が一瞬、リーネの列のほうへ向いた気がした。
手が横に払われた。
風が来た。
慣れているはずの子たちから、悲鳴があがった。 砂が叩きつけてくる。リーネは腕で顔をかばって、足をふんばった。 うなるような音。杭の上の火がいっせいにかき消える。 からん、からん、と乾いた音が続いた。 木札が紐ごとちぎれて、砂の上を転がっていく。
「今日の、いつもより強くないか……」
誰かがかすれた声で言った。
風がやんだ。
十一の列の、一本目の杭。 木札はひとつも残っていなかった。
リーネの列の七本にだけ、赤い糸が結ばれたままだった。 七本目のいちばん細い杭は、風に押されて斜めに傾いていた。 それでも結び目は少しも緩まず、まだかすかに揺れていた。
あ、とリーネは思った。
お婆ちゃんの結び方だ。 あの風でも、ほどけない。
握った手首の結び目が、あったかかった。
「み、見ろよ! 祈祷師の糸だけ残ってる。結ぶのだけは一人前だな」
声の大きな男の子が言って、何人かがつられて笑った。 若い試験官は笑わなかった。口を半分開けたまま、傾いた杭を見ていた。
刺繍の男の子も笑わなかった。 自分の列の、木札がちぎれた紐の切れ端と、リーネの列の赤い糸とを見比べていた。
「行こう、祈祷師」
いつのまにかバルトロが横に来ていた。大きな手がリーネの肩をぽんと叩く。 その目は、リーネではなく杭の列を見ていた。
「……あの風でか」
バルトロはそれきり何も言わなかった。
アデルも回廊から駆け下りてきた。目のふちが赤い。
「リーネ、わたし……」
「だいじょうぶ」
リーネは笑ってみせた。 ちゃんと笑えた気がした。
中庭の門をくぐる前に、一度だけ振り返った。
がらんとした白い砂の上に、学園長が一人で立っていた。 リーネの列の、一本目の杭の前だった。
学園長は身をかがめて、赤い結び目に指をかけていた。 引いている。指を離してから次の杭の糸をもう一度引く。段々とその目が細くなり、杭の列を七本目までたどった。
結び目は、最後までほどけなかった。
【4話あとがき】
その夜サン=クレール家の裏庭で、バルトロは剣に砥石を当てていた。
しゃっ、しゃっと乾いた音が続く。
あの風なら、昔いちど食らったことがある。
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お嬢様がまだ四つのころだ。
雇い主に逃げられて帝都で食いつないでいた剣しか能のない男を、魔法師の屋敷はどこも門の前で追い返した。
その中で一軒だけ、中庭まで通された。
小柄な爺さんが出てきて名前も聞かずに手を横に払った。
その瞬間俺は膝をついた。
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砥石の音を響かせながらバルトロは一人でつぶやいた。
「…爺さん、本気で吹きやがったな」




