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3.ほどけない結び目

次の朝、お婆ちゃんはいつもどおりに粥を炊いていた。


「おはよう、リーネ。腕はどうだい」


「……うん。もう、あんまり痛くない」


嘘だった。腕も胸の奥も、まだずきずきしていた。 でも、ゆうべのことは言えなかった。 杭の陰で見ていたことを言ったら、お婆ちゃんの笑顔がどこかへ行ってしまいそうで。


アデルたちは夜明けと同時に村を発った。 馬は逃げてしまったので、粉屋の親父さんが荷馬を二頭貸した。


「返しに来なかったら、粉の代金に上乗せだからな」


「必ず、十日後に」


アデルはそう言って、粉屋の親父さんにまできちんとお辞儀をした。


十日。 指を折って数えると、思っていたよりずっと短かった。


アデルたちが発った日の夕方。


リーネは村の外れの杭を一本ずつ見て回った。 お婆ちゃんがゆうべ結び直していた杭だ。


膝をついて結び目をのぞきこむ。


ゆるい。


三回くぐらせるはずのところが、二回しかくぐっていない。 引っぱればすぐにほどけてしまいそうだった。


隣の杭も。その隣も。


一本ほどいて結び直す。 ほどいた糸には、お婆ちゃんの指の跡みたいな小さなよじれが残っていた。


……お婆ちゃんには、言えない。


その晩から毎晩、お婆ちゃんは夕飯のあとで灯りを持って出かけていった。 村の端の杭から十本ほどずつ、色あせた古い糸を新しい糸に結び替えていく。 リーネがいなくなっても、自分ひとりで回せるように。


そして帰ってきて、すぐ寝息を立てる。


その寝息が深くなるのを待って、リーネは寝床を抜け出した。


月明かりを頼りに今夜お婆ちゃんが結んだ杭を探す。 ゆるい結び目をそっとほどく。 指が覚えている結び方で結び直す。


祈りの文句は口の中だけで。 糸は蛍みたいにほんのり光った。 光は隣の杭へ伸びかけて、まだ直していないゆるい結び目でふっと途切れた。 光るたびにリーネは両手で糸を覆った。誰にも見られないように。


明け方、寝床にもぐりこむ。 朝になるとお婆ちゃんは杭を見て回って、うんうんと頷いて帰ってくる。


「どれもちゃんと締まってたよ。お婆ちゃんも、まだまだいけるねえ」


「……うん。すごいね、お婆ちゃん」


声が少しだけ震えた。 嘘をひとつ重ねるたびに、胸の奥がちくりとした。


アデルたちが発って三日目の昼。 リーネは粉屋の親父さんの戸口に糸を結びに行った。


「おう、来たか。祈祷師さま」


「やめてよ、それ」


親父さんはにやにやしながら粉袋を担いでいた。 その大きな手を見て、リーネはふと口を開いた。


「ねえおじさん。結び方、覚えてくれない?」


「あ?」


「杭の糸の結び方。おじさんの手なら、すぐ覚えられると思う。……あたしが、いなくなっても」


親父さんの手が止まった。


「……行くのか。帝都」


「まだ決めてない」


本当だった。 でも決めていないのに、言葉のほうが先に出ていた。


親父さんはしばらく黙ってから、粉袋を下ろした。


「やってみせろ。ゆっくりな」


太い指が赤い糸を不器用につまむ。 一回目で糸がからまった。 二回目でちぎれた。


「……おい、これ、難しいぞ」


「最初は、みんなそうだよ」


リーネは自分の指を添えた。 何度目かでようやく結び目ができた。


親父さんの結び目は不格好だった。 でも、ほどけなかった。


その後も毎晩リーネは杭を回った。


四日目の夜。ゆるい結び目が九つ。 五日目、七つ。 六日目も、七つ。 七日目は冷たい雨だった。それでも、四つ。


お婆ちゃんは毎晩少しずつ上手くなっていた。 曲がらない指で、毎晩、毎晩。 朝になるとこっそり指をさすっていることも、リーネは知っていた。 リーネのほうは、昼間にあくびばかりしていた。


八日目の夜。


リーネはいつものように杭の根元に膝をついた。 お婆ちゃんの結び目に指をかける。


引っぱる。


——ほどけなかった。


もう一度引っぱる。 びくともしない。


いつもリーネが結ぶのと同じ結び目だった。


隣の杭も。その隣も。 今夜お婆ちゃんが結んだ糸はひとつもほどけなかった。 リーネが一度も手を入れていない、お婆ちゃんだけの結び目だった。


リーネはその結び目をずっと見ていた。 月が雲に隠れてまた出てくるまで。


それからそっと両手を合わせた。 お婆ちゃんの結び目に。 口の中だけでなく、今夜は声に出して。


「赤き糸、結びて印となす——」


指先が熱くなる。


「——ことごとく、主に捧ぐ」


お婆ちゃんの結んだ糸がほうっと光った。 そこまではいつもと同じだった。


違ったのはそのあとだった。


光が糸から杭へ。杭から隣の杭の糸へ。 するすると走りだした。


一本、また一本。 村をぐるりと囲む杭の列を白い光が川のように流れていく。


リーネは息をのんで立ち上がった。


月の下で村が光の輪に抱かれていた。 何年もかけてお婆ちゃんと二人で結んできた糸。 その一本一本がひとつにつながって光っていた。


ほんのひと息のあいだだった。 光の輪はゆっくりと薄れて夜の中に溶けていった。


あとにはいつもの色あせた赤い糸が風に揺れているだけだった。


いつもは途切れていた光がお婆ちゃんの結び目でも止まらなかった。


お婆ちゃんはもう結べる。 ゆっくりでも、ほどけないように。 村には粉屋のおじさんもいる。 この輪は、あたしがいなくてもここにある。


だったら。


リーネは袖で顔をこすった。


次の朝、パン屋のおかみさんが首をかしげていた。


「ゆうべ、雷でも光ったかねえ。空は晴れてたのに」


リーネは粥の椀に顔をうずめた。 お婆ちゃんは、ふうん、と言っただけだった。


そして、十日目の昼。


街道の向こうから馬車がやってきた。 今度は魔物に追われてはいない。御者台には腰に布を巻いたグレゴール。その横をバルトロが馬で並んでいる。


扉が開くより先にアデルが窓から身を乗り出した。


「リーネ!」


「アデル!」


アデルは馬車から飛び降りて——グレゴールが咳払いをするより先に、自分でぴたりと止まった。 ちらりと執事を振り返って得意げに背筋を伸ばす。


「ごきげんよう、リーネ。……荷馬は、約束どおり返しに来たわ」


後ろで粉屋の親父さんが荷馬の手綱を受け取って笑っていた。


「それで、お祖父さまの返事は?」


アデルの顔が少しだけ曇った。 懐から封蝋のついた手紙を取り出す。


「早馬で手紙を出して、宿場で返事を待っていたの。……読むわね」


アデルは手紙を広げた。


「『誓約なき者の推薦は認められぬ』」


リーネの胸がすとんと落ちた。


「『——ただし、その力が真に誓約を超えるものならば、我が目で見て判ずる。帝都にて試しを受けさせよ。落ちれば、そのまま村へ帰すべし』」


手紙を下ろしてアデルはリーネを見た。


「……ごめんなさい。お祖父さまなら、もしかしたらって思ってたの。それに入学の試しは、誓約を受けた子のために作られているの。祈祷師が受けた例は、一度もない」


「一度も……」


「お祖父さまは、自分の目で見たものしか信じない人よ。それでも、見てはくれる」


アデルは手紙をぎゅっと握った。


「書庫は、合格した生徒しか入れないわ」


リーネはお婆ちゃんの指を思った。 霊薬。国じゅうの古い本。 それから八日目の夜の光の輪を思った。


「受ける」


声は自分でも驚くほどはっきりしていた。


「試しでも、なんでも。あたし、受ける」


アデルの顔がぱっと明るくなった。


グレゴールがお婆ちゃんの前に進み出て、深く頭を下げた。


「帝都での宿とお食事は、お嬢様のご実家がお持ちいたします。試しの結果がどうあれ、お孫さまは必ず無事にお返しいたします」


リーネはお婆ちゃんのほうを振り返りかけた。 その前に粉屋の親父さんが荷馬の首を叩いた。


「婆さんのことは村で見てる。粉屋の目は節穴じゃねえ。……だから、行ってこい」


「リーネ」


後ろからお婆ちゃんの声がした。


振り返ると、お婆ちゃんが赤い糸を一本手に持っていた。


「手、出してごらん」


リーネが左手を差し出すと、お婆ちゃんはその手首に糸を回した。 曲がらない指で、ゆっくり、ゆっくり。


三回くぐらせて、きゅっと締める。


ほどけない、結び目だった。


「お婆ちゃんはね、ゆうべもちゃんと結べたよ」


お婆ちゃんはリーネの手首を両手で包んだ。


「だから、行っておいで」


リーネは何も言えなかった。 ただ、うん、と頷いた。


出発はその日の午後になった。


荷物は着替えが二枚と、赤い糸の束がひとつ。 それだけだった。


「ちゃんと食べるんだよ。夜はちゃんと寝るんだよ」


お婆ちゃんはリーネの襟を直しながら言った。


「……お婆ちゃんも、夜はちゃんと寝てね」


お婆ちゃんは一瞬だけ手を止めて、それからくしゃっと笑った。


「はいはい」


馬車に乗りこもうとしたとき、パン屋のおかみさんが走ってきた。


「リーネちゃん! これ、持っておいき!」


籠の中に丸パンがぎゅうぎゅうに詰めこまれていた。 二つどころじゃない。十はある。


「お代はいらないよ。……あんたは村の祈祷師なんだからね。元気で帰っておいで」


リーネは籠を抱きしめた。パンの匂いがした。


馬車が動きだした。 窓の外でお婆ちゃんが手を振っている。粉屋の親父さんも、おかみさんも。


杭の列がゆっくりと遠ざかっていく。 色あせた赤い糸が一本ずつ風に揺れていた。


その中のどれがお婆ちゃんの結んだ糸なのか。 もうリーネにも、見分けがつかなかった。


村が見えなくなったころ、バルトロが馬を馬車の後ろにつないで乗りこんできた。 向かいに座ってぼそりと言う。


「帝都までは五日だ。着いたらすぐに試しだぞ。学園長は子どもでも泣かせる」


リーネは手首の赤い糸に触れた。


「泣かないよ」


バルトロはふんと鼻を鳴らした。それから窓の外に目をやった。


「行きの宿で聞いた。峠の向こうの村が、魔物にやられたそうだ。宿の親父の妹が嫁いだ村でな」


リーネの指が糸の上で止まった。


「やられたって……」


「このところ、あちこちでそんな話を聞く」


「その村に、祈祷師さんはいなかったの?」


「さあな」


バルトロはそれきり腕を組んで目を閉じた。


リーネは窓の外を振り返った。 村はもう見えなかった。


うちの村は大丈夫。 お婆ちゃんの結び目は、ほどけない。


そう思うのに、指は手首の糸から離れなかった。

【3話あとがき】

リーネが発った晩、杭のそばに灯りが三つ並んだ。


お婆ちゃんが杭の糸を結び替える横で、粉屋の親父さんは糸の切れ端と格闘していた。

棒きれに巻いてはほどけ、巻いてはほどける。


「おい婆さん、これで合ってるか」


太い指が結び目を掲げる。やっぱり不格好だった。


「合ってるよ。あの子に習ったんだろう」


「習ったっていうか何べんも怒られた」


お婆ちゃんは笑って次の杭に糸を回した。

誰かが横にいると、指は不思議とよく動いた。


パン屋のおかみさんが籠を下ろした。


「焼きすぎちゃったのよ。いつもの癖で、あの子の分まで」


籠の中で丸パンが二つぽつんと並んでいた。


「……また光らないかねえ。こないだの雷みたいに」


「光らなくていいんだよ」


お婆ちゃんは結び目を軽く引いてみせた。


「ほどけなけりゃ、それでいい」


杭の糸は光らなかった。

それでも結び目は夜風にほどけなかった。


「あの子、ちゃんと食べてるかねえ」


「食べてるさ。十もあるんだから」


二人が帰ったあと、お婆ちゃんは灯りを持って杭を回った。

一本の結び目の前で足が止まる。

糸に小さなよじれが残っていた。自分の指の癖だ。

なのに結び目は、三回きちんとくぐっていた。


お婆ちゃんはよじれを指でなぞった。


「……あの子はやっぱり、優しいねえ」

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