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2.火花ひとつ

「魔法じゃ……ない?」


リーネはぽかんと女の子を見返した。


魔法じゃないなら、なんなのだろう。

祈祷師のおまじないは、魔法のずっとずっと下のほうにあるものだ。

少なくともリーネは、ずっとそう思ってきた。


「馬車の中にいても、わかったの」


女の子は自分の両腕をぎゅっと抱いた。


「扉の隙間から光が差しこんできて。あったかかった。お日さまみたいに」


それから首の後ろに手をやる。


「魔法の光は、もっとぴりっとするの。ここがちくちくする。さっきのはそれがなかったもの。」


そう言って首をかしげた。


「あれ、なんていう魔法?」


「魔法じゃないって、今自分で言ったじゃない」


「あっ」


女の子は口をぱくぱくさせて、それからふふっと笑った。

泣き腫らした目のまま笑うので、なんだかちぐはぐだった。


「リーネ、腕」


お婆ちゃんの声でリーネは自分の腕を思い出した。

裂けた袖が赤く染まっている。見たとたんにずきんと痛みがぶり返した。


「いたたた……」


「じっとしてな」


お婆ちゃんは自分の前掛けの端を歯で噛んで裂いた。

曲がりにくい指でゆっくりゆっくり腕に巻いていく。

最後に三回くぐらせて、きゅっと締めた。


「……お婆ちゃん、それ、おまじないの結び方」


「いちばんほどけない結び方だからね」


お婆ちゃんはいつもの顔で笑った。


「おい、祈祷師」


バルトロが地面にしゃがみこんでいた。

魔物が消えたあたりの草を指でかき分けている。


「お前さんの糸、どこへ行った」


「わかんない。光って、それでなくなっちゃった」


「……そうか」


バルトロは、何もついていない指先をしばらく眺めていた。


「この歳になって、わからんことが一つ増えた」


村の人たちがぞろぞろ集まってきた。

パン屋のおかみさんがリーネに抱きつき、パンの匂いでいっぱいになる。


その後ろで粉屋の親父さんが帽子を手の中でくしゃくしゃにしていた。


「……おい、リーネ」


「なに?」


「その、なんだ。うちの粉挽き小屋の戸口にも、糸を一本頼めるか」


親父さんはそっぽを向いたまま言った。


「お代は粉ひと袋だ」


丸パン二つが、粉ひと袋。

リーネは目をぱちくりさせた。


「……運がいいだけ、なんでしょ?」


「うるせえ」


親父さんの耳が赤くなっていた。

村の人たちがどっと笑った。


「……お嬢様」


低く穏やかな声。

執事のグレゴールが腰を押さえながら立ち上がり、静かに咳払いをひとつした。


女の子ははっと周りを見た。

村じゅうの目がこちらを向いている。


女の子はほどけたリボンをすっと手のひらに握りこんだ。

背筋を伸ばす。泥のついたスカートの裾を、それでも綺麗につまむ。


さっきまで泣いていたとは思えない、澄んだ声だった。


「お見苦しいところを失礼いたしました。アデライードと申します」


アデライードはリーネに向き直って深く頭を下げた。


「祈祷師さま。命を救っていただいたこと、心より感謝いたします」


祈祷師、さま。

リーネは生まれてはじめてそんなふうに呼ばれた。


「さ、さまはいいよ! リーネでいいよ!」


「では、リーネ」


顔を上げたアデライードは少しだけ眉を下げた。


「本街道に魔物が出たって聞いて、脇道に回ろうって押し切ったのはわたしなの。宿で待とうって、グレゴールもバルトロも言ったのに」


「押し切られましたな」


執事のグレゴールがすまし顔で頷いた。


「わたし、春から学園に入るの。その支度で帰る途中だったのに……あなたが来てくれなかったら、全部わたしのせいだった」


それからふっと肩の力を抜いた。


「アデルでいいわ。長い名前、自分でもときどき噛みそうになるの」


「アデル」


「うん」


アデルはにっこり笑った。

さっきの澄ました顔よりこっちのほうがずっと似合っていた。


「ねえリーネ。あなた、誓約は受けているの?」


「受けてないよ。誓約って、魔法師様が神殿で受けるやつでしょ。うちにそんなお金ないもん」


アデルはふうっと息を吐いた。


「見てて」


アデルは右手の指先をそっと合わせた。

目を閉じる。唇が小さく何かを唱える。


ぱちっ。


指先で小さな火花がはじけた。

麦粒ほどの、橙色の火花。

ひとつまばたきするあいだに消えてしまった。


「……これが、わたしの魔法」


アデルは少しだけ笑った。

笑っているのに、ちっとも楽しそうじゃなかった。


「神殿に金貨を積んで誓約を受けて、三年間毎日祈って。それで、これだけ」


金貨三枚どころじゃない。山ほどの金貨。

それで麦粒ひとつ。


「なのにあなたは、誓約もなしにあれをやったの」


バルトロが顎の無精髭をゆっくり撫でた。


「お嬢様。こいつは俺の一存じゃ済まん話です」


「わかってる。だから、お祖父さまに話すわ」


アデルはリーネの前にしゃがみこんだ。目の高さがぴったり合う。


「わたしのお祖父さまは、帝都の魔法学園で学園長をしているの。あなたを推薦してもらえるように頼んでみる。……厳しい人だから、頷いてくれるとは限らないけど」


「が、学園!?」


リーネは言葉に詰まった。思わず一歩後ずさる。


「だ、だって、学園って貴族の人たちが行くところでしょ? あたし、祈祷師だよ。丸パン二つの」


言いながら頭の隅で別のことを考えていた。

学園。貴族の子どもたちが勉強するところ。

なら、本がある。村には一冊もない、むずかしい本が。


「……ねえ。その学園って、古い本とかある?」


「本?」


「霊薬のこと、調べたいの。お婆ちゃんの指を治したくて」


横からおかみさんが口を挟んだ。


「この子ったら、なくした手足まで生えるっていう万能薬を探すのが夢なんですよ、お嬢様」


いつもの調子で笑っている。

リーネは首をすくめた。また笑われる。


アデルは笑わなかった。


「あるわ。国じゅうの古い本が集まる書庫が。わたし、魔法は下手だけど、本を探すのは得意なの」


リーネはぽかんと口を開けた。


「……笑わないの?」


「どうして笑うの? あなた、さっき魔物を消したのよ」


おかみさんが目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。


「それにね」


アデルは自分の指先を見下ろした。さっき火花がはじけた指先。


「知りたいの。あなたのあれが、なんなのか。……わたしの火花が、どうしてこれっぽっちなのかも」


その声は、澄ましたお嬢様の声でも、はしゃいだ女の子の声でもなかった。

もっと小さくて、もっと本気の声だった。


リーネはお婆ちゃんを振り返った。


お婆ちゃんは何も言わなかった。

ただ少しだけ目を細めてリーネとアデルを見ていた。


「……でも、あたしが行ったら、杭の糸は」


言いかけたリーネに、お婆ちゃんはゆっくり首を振った。


「お婆ちゃんだって、まだ結べるさ。ゆっくりならね。……今夜にでも、杭を見て回ってみようかね」


それからアデルのほうへ深く頭を下げた。


「お嬢様。この子の腕が治るまで、待ってやってくださいな」


「十日後に、お祖父さまの返事を持ってもう一度来るわ」


アデルはまっすぐリーネを見た。


「それまでに、決めておいて」


アデルたちが馬車を起こしにかかると、バルトロは集まった村の人たちの顔を一人ずつ確かめるように見回した。


「すまんが、皆さん。今日のことは、あまり言いふらさんでくれ」


村の人たちがきょとんとする。


「噂ってのは街道を伝って走る。誓約もなしにあんな真似をする子どもがいると知れりゃ、放っておく奴はおらん。……良くも悪くも、な」


リーネの背中がひやりとした。

知らない誰かがこの村まであたしを見に来る。

そんなこと、考えたこともなかった。


ー

ーーー

ーーーーー

ーーーーーーー


その夜。


リーネはこっそり家を抜け出した。

布の下で腕がずきずき脈打っている。月の明るい夜だった。


村の外れ、いちばん端の杭。

懐から赤い糸を一本取り出す。


お婆ちゃんは何十年も光らせたことがないと言った。

じゃあ、あれはなんだったんだろう。

お婆ちゃんの手が背中にあったから?

二人で唱えたから?


確かめたかった。

一人で。


膝をつく。

糸を回す。三回くぐらせて、きゅっと締める。


両手を合わせて目を閉じる。


「赤き糸、結びて印となす。

主よ、この災いを遠ざけたまえ。

わが祈り、わが息、わが日々を、

ことごとく主に捧ぐ」


指先が熱くなった。


目を開ける。


杭に結んだ赤い糸が——ほんのかすかに光っていた。

蛍みたいな淡い光。

昼間のあのまばゆさとは比べものにならない。

でも、確かに。


一人でも、光った。


あたしにも、できるんだ。

お婆ちゃんのおまじないで。


胸の奥がどきどきしていた。

怖いのか嬉しいのか、自分でもわからなかった。


そのとき。


杭の列のずっと向こうで、小さな灯りがひとつ揺れていた。


リーネは息を殺して近づいた。


灯りの下にお婆ちゃんがいた。

杭の根元に膝をついて赤い糸を指に絡めている。


一回、くぐらせる。

二回目で指が止まった。曲がらない指が糸をつまみそこねる。

糸がするりと抜け落ちる。


お婆ちゃんは小さく息を吐いて、笑った。

誰も見ていないのに、笑った。

そして、もう一度最初から。


一回。

二回。

——また、落ちた。


もう一度。


ようやく結べた糸にお婆ちゃんは手を合わせた。

小さな声であの四行を唱える。


糸は光らなかった。

いつもと同じ色あせた赤い糸のまま、夜風に揺れていた。


それでもお婆ちゃんは満足そうに頷いて、次の杭へ移っていった。


リーネは声をかけられなかった。

杭の陰で膝を抱えてただ見ていた。


お婆ちゃんは一度も行くなとは言わなかった。

【2話あとがき】

あの子にはじめて結びを教えたのは、まだ五つの春だった。


小さな指が赤い糸をつまんでは落とし、またつまんでは落とした。


「むずかしいよう」と口をとがらせて、それでも糸を離さなかった。


三回くぐらせて、きゅっと締める。


できたとき、あの子は杭より先にこっちの顔を見て笑った。


今夜、糸を落としたのは私のほうだ。


指が言うことをきかない。近ごろはいつもこうだ。


あの子の糸はもう光る。


ここにいれば、一生この杭を二人で結んで暮らすだろう。


行くななんて言えない。


あの子は優しい子だから。

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