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1.赤い糸の祈祷師

赤い糸を、一本結ぶ。


それが、十二歳の祈祷師見習いリーネの仕事だ。


村の外れ、街道ぞいの古い杭。その根元に膝をついて、リーネは糸をくるりと回した。 指に覚えさせた結び目。ほどけないように、三回くぐらせて、きゅっと締める。


「はい、できた!」


「どれどれ」


隣でしゃがんでいたお婆ちゃんが、結び目を指でなぞった。 皺だらけの手。冬になると、その指がうまく曲がらなくなるのを、リーネは知っている。

最近は、糸を三回くぐらせるのにも時間がかかる。だから杭の糸は、今年からリーネの係だ。


いつか、伝説の霊薬を見つけて、この指を治してあげる。 ——そう言うと、村のみんなは笑うけれど。


「うん、上手になったねえ。お婆ちゃんより綺麗だ」


振り返れば、村をぐるりと囲む杭の列。そのひとつひとつに、色あせた赤い糸が揺れている。 一本ずつ。何年もかけて。お婆ちゃんと二人で、少しずつ結んできたものだ。


この辺りには、何年かに一度、魔物が出る。 それでもこの村は、リーネが物心ついてから一度も襲われていない。赤い糸のおかげだ、とリーネは思っている。


「じゃあ、唱えるよ」


「最後までね。途中でやめたら、届かないからね」


両手を合わせて、目を閉じる。


「赤き糸、結びて印となす——」


お婆ちゃんに教わった、主さまへの祈りの文句。四行を、最後までゆっくり唱える。


糸が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。 気がしただけかもしれない。祈祷師のおまじないなんて、だいたいそんなものだ。


子どもの熱冷まし。迷子の山羊探し。戸口の厄除け。 村の小さな困りごとは、だいたい祈祷師のところに来る。 そして、だいたい、ちょっとしか効かない。


「おう、リーネ。今日も糸遊びか」


荷車を引いた粉屋の親父さんが、街道を通りかかった。


「遊びじゃないよ! おまじない!」


「糸なんか結んで、魔物が止まるもんかね」


「止まってるもん。この村、一度も襲われてないでしょ」


「そりゃ運がいいだけさ」


親父さんは笑って、荷車をがらがら引いていった。 リーネは頬をふくらませる。お婆ちゃんは、くすくす笑っている。


「リーネちゃーん! ちょうどいいとこに!」


今度はパン屋のおかみさんが、エプロンで手を拭きながら坂を下りてきた。


「うちの戸口にも、ひとつ頼めるかい? そろそろ、魔物の出る年だろう?」


「いいよ! あとで行くね」


「助かるよ。去年、うちの人が腰を痛めたときに魔法師様を呼んだらさ、金貨三枚だよ。ひと冬分のパン代が、ぜんぶ消えちまった。あんたら祈祷師が頼りさ」


おかみさんは、リーネの籠に丸パンを二つ放り込んだ。お代のつもりらしい。


金貨三枚の魔法師様と、丸パン二つの祈祷師。 まあ、そういうものだ。


「で、霊薬とやらは見つかったかい?」


「まだ! でも、いつか絶対見つけるもん。お婆ちゃんの指なんか、一口で治るんだから」


おかみさんは、腹を抱えて笑った。


「なくした手足まで生えてくる万能薬なんて、おとぎ話だよ、そりゃあ」


「笑わないでよー!」


お婆ちゃんも笑っている。 でも、笑いながら、リーネの頭をそっと撫でてくれた。 その手が温かかったから、リーネは怒るのをやめた。


——そのとき。


街道の向こうで、馬が悲鳴を上げた。


砂煙。車輪の音。 立派な箱馬車が、ありえない速さでこちらへ突っ込んでくる。 御者台では、白髪の執事が必死に手綱を握っている。 その後ろに、黒い影が張りついていた。


狼、に似ている。 でも、大きい。仔牛ほどもある。 黒い毛並みの中で、目だけがガラス玉みたいにぎらぎら光っていた。


馬車の脇を、剣を抜いた無精髭のおじさんが走っている。護衛らしい。 肩で息をしている。服のあちこちが裂けている。ずっと、ああして走ってきたのだ。


「バルトロ! 後ろ!」


馬車の窓から、女の子の声。 おじさんが振り向きざまに剣を払う。魔物が跳びのき、今度は車輪に食らいついた。


杭の列の、すぐ外。村まであと十歩のところで、 箱馬車が大きく傾いて、横倒しになった。執事が投げ出され、草むらに転がる。馬は綱を引きちぎって逃げていった。


「リーネ、下がって!」


お婆ちゃんがリーネの腕をつかむ。 坂の上で、村の人たちの悲鳴が上がった。


倒れた馬車の中から、泣き声が聞こえた。 さっきの女の子だ。リーネと、たぶん同じくらいの。 魔物が、ゆっくりと馬車のほうへ回り込む。


杭をかすめたとたん、その足が、がくんと鈍った。 まるで、ぬかるみに踏み込んだみたいに。


……糸だ。 糸が、効いてる。杭のそばでなら。


なら、まだ間に合う。


リーネは、お婆ちゃんの手をすり抜けて、杭の列の外へ飛び出した。


「リーネ!」


お婆ちゃんの声。


「戻れ! 祈祷師に何ができる!」


坂の上からは、粉屋の親父さんの怒鳴り声。


「馬鹿、来るな!」


無精髭のおじさん——バルトロまで怒鳴った。


「おじさん、そいつを杭の近くで止めて! 一瞬でいいから! あたし、祈祷師なの。おまじないをかける!」


バルトロが、鼻で笑った。


「祈祷師のまじないで魔物が死ぬなら、俺は三十年も剣を振っとらん! 引っ込んでろ!」


魔物の爪を、剣で弾く。火花が散る。 重い一撃を受けるたびに、バルトロの膝が沈む。


そのバルトロの目が、ふと足元に落ちた。 魔物が、杭のそばでだけ、もたついている。 赤い糸が、弓の弦みたいにぴんと張りつめていた。


バルトロの顔から、笑いが消えた。 肩から魔物にぶつかり、杭の列へ押し込む。魔物の動きが、目に見えて重くなった。


「……一瞬だな、祈祷師!」


「うん!」


剣が、魔物の前足を深く払う。 魔物の体が傾いた、その瞬間——


リーネは、魔物の懐に飛び込んだ。


近い。怖い。 ガラス玉の目が、すぐそこにある。 爪が、腕をかすめた。袖が裂けて、焼けるように痛い。 それでも、結び方は体が覚えていた。


前足に、赤い糸を回す。 一度目は、指が震えて滑った。 杭のそばで、魔物の足が一瞬だけ止まる。その隙に、もう一度。 三回くぐらせて、きゅっと締める。


杭に結べば、災いは入ってこない。 なら、災いそのものに結んだら?


「結べた!」


魔物が暴れた。糸は切れない。 バルトロが、剣の腹で魔物の頭を押さえつける。


「唱えろ! 長くはもたん!」


「赤き糸、結びて印となす——」


まだ、何も起きない。


魔物が跳ね起きようとする。バルトロの腕に、血管が浮く。 踏ん張った足が、地面を削って滑っていく。


「主よ、この災いを遠ざけたまえ——」


指先が熱い。


「まだか!」


「もうちょっと!」


息が上がる。腕の傷が痛む。 魔物の目と、まともに目が合った。喉が、ひゅっと鳴った。 途中でやめたら、届かない。 わかってる。わかってるのに、喉が詰まる。


後ろで、よろけた足音がした。 お婆ちゃんが、杭の列を越えてこちらへ駆けてくる。転びそうになりながら、それでも止まらずに。


背中に、温かい手が触れた。


何も言わない。ただ、手のひらで背中を支えてくれている。


喉の奥で詰まっていたものが、ほどけた。


「わが祈り、わが息、わが日々を——」


リーネの声に、お婆ちゃんの小さな声が、そっと重なった。


「ことごとく、主に捧ぐ!」


糸が、ほどけた。


いや、ほどけたのは糸じゃない。光だ。 赤い糸が白く燃えて、何十本もの光の筋になり、魔物をぐるぐると巻いていく。 リーネがいつも杭に結ぶのと、同じ結び方で。


三回くぐらせて、きゅっと締める。


魔物が、もがいた。 もがくほど、光の糸は締まっていく。黒い毛並みが、端から白く透けていく。


まばゆい光が、弾けた。


目を開けたとき。 そこには、何も残っていなかった。


魔物も。結んだ糸も。 草の一本も、焦げていない。 最初から、何もいなかったみたいに。


しん、と。 街道から、音が消えた。


「……消えた」


バルトロが、剣を下ろしたまま呟いた。


「俺はこいつに、峠からずっと追い回されてたんだぞ。何度斬っても、仕留めきれなかった」


剣を鞘に収めて、バルトロはリーネに向き直った。 無精髭の顔が、少しだけ気まずそうにゆがむ。


「祈祷師。……さっきは笑って悪かった」


坂の上から、村の人たちが駆け下りてくる。 「消えたぞ」「リーネがやったのか」「あの糸で?」 ざわめきの真ん中で、粉屋の親父さんが、口を開けたまま立ち尽くしていた。


「……運がいいだけ、じゃ、ねえな」


足から力が抜けて、リーネはその場に座り込んだ。 裂けた袖の下で、腕がずきずきと脈打っている。今になって、膝が震えだした。


「お婆ちゃん……あたし、今……」


振り返る。 お婆ちゃんは、リーネの背中に手を当てたまま、動かなかった。


目を、まんまるにしていた。 リーネの顔と、何もなくなった地面と、自分の手のひらを、順番に見ている。


「……お婆ちゃんもね。糸が光るのなんて、はじめて見たよ」


声が、少し震えていた。


「何十年も結んできたけど。一度だって、光ったことなんかなかった」


リーネは、自分の指を見た。 赤い糸を結んだ指。


指先が、まだ熱い。


あたしが、やったの?


そのとき。 横倒しの馬車の扉が、内側から勢いよく跳ね上がった。


「グレゴール!」


執事を呼ぶ、女の子の声だった。 扉には、金の紋章が光っていた。 そこから、泣き腫らした目の女の子が転がり出てくる。 髪はくしゃくしゃ。リボンは片方ほどけている。 女の子はリーネには目もくれず、草むらに倒れた執事のところへ駆け寄った。


「グレゴール、生きてる!? 返事して!」


「……生きておりますとも、お嬢様。腰が少々、驚いておりますが」


白髪の執事が、うめきながら身を起こす。 女の子は、へなへなとその場に座り込んで——それから、ぱっと顔を上げた。 今度こそ、まっすぐリーネを見ていた。


「今の、あなたがやったの?」


女の子は、何もなくなった地面と、リーネの指を見比べた。


「あれ……魔法じゃないわ。魔法なら、わたしにもわかるもの」

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