第9話◆ 眠らない夜
「分かりました。気をつけます」
エマの忠告に頷きながらも、ダンの頭にはすでに青石の迷宮2階のことが浮かんでいた。
1階とは違う魔物がいる。
その魔物は、どのようなスキルを持っているのだろう。
考えるだけで胸が高鳴る。
そんなダンの耳に、少し離れたところから冒険者たちの声が聞こえてきた。
「朝、登録してた新人だよな?」
「初日で32体って言ってなかったか?」
「あの格好でか?」
声を抑えているつもりなのだろうが、《夜目》以外にも身体能力そのものが高いせいか、思ったよりはっきり聞こえる。
ダンは少しだけ背筋を伸ばした。
前世では、人から注目されることなどほとんどなかった。病室で会うのは医師や看護師ばかりで、同年代の人間と話す機会すら滅多にない。
こうして冒険者たちから見られていると、本当に異世界で冒険をしているのだと実感できた。
少し嬉しい。
しかし、自分がダンピールであることや、《触手》と《吸血》について知られるわけにはいかない。
目立ちたい気持ちと、目立ってはいけないという気持ちが、ダンの中で複雑に混ざり合っていた。
「それでは、次の方――」
「あの、すみません」
仕事へ戻ろうとしたエマを、ダンは慌てて呼び止めた。
「もう少しだけ、聞いてもいいですか?」
「構いませんよ」
「この街で長く泊まれる宿を探しているんです。それから、服を売っている店と、防具屋と武器屋も教えてほしくて……」
そこまで口にしたところで、後ろに人が並んでいることに気づいた。
「あっ、すみません。こんなに聞いたら迷惑ですよね」
「大丈夫です。急いでいる方には、隣の受付へ移ってもらいますから」
エマが隣の職員に声をかけると、ダンの後ろにいた冒険者たちが別の列へ移っていく。
「登録したばかりなのですから、分からないことがあるのは当然です。遠慮しなくていいですよ」
「ありがとうございます」
まだ話を聞いてもらえることが嬉しくて、ダンの表情がわずかに明るくなった。
「長期滞在なら、《銀の止まり木》という宿がおすすめです。ここから歩いて5分ほどで、冒険者ギルドの登録証を見せれば10日単位で部屋を借りられます。食事や洗濯も頼めますよ」
「洗濯もしてもらえるんですか?」
「ええ。その服も、そろそろ洗ったほうがいいと思います」
エマの視線が、ダンの服へ向けられた。
教会で見つけた服には土が染みつき、ところどころにゴブリンやホーンラビットの血が付着している。水で軽く洗っただけなので、決して清潔とはいえない。
「やっぱり、かなり汚いですか?」
「かなり、とは言いませんが……その格好で服屋へ入ったら、店員に驚かれるかもしれません」
「そんなに……」
ダンは自分の服を見下ろした。
教会の鏡では顔ばかり見ていて、服装まで気にしていなかった。いくら顔だけ整っていても、これでは周囲から見られるのも当然だった。
「服なら《針と羊》がいいでしょう。新品だけでなく古着もあります。冒険者向けの丈夫な服も扱っていますよ」
「武器屋と防具屋は?」
「武器なら《赤熊の武具店》、防具なら《岩亀の防具店》ですね。どちらも初心者向けの品を置いています」
エマは受付台の上へ簡単な地図を広げ、それぞれの場所を指で示した。ダンは忘れないように、店の名前と曲がり角を頭へ入れていく。
「その短剣を買い替えるなら、《赤熊の武具店》で相談するといいですよ」
腰に差した短剣を見られ、ダンは苦笑した。
「やっぱり、これでは駄目ですか?」
「ホーンラビットを32体も倒せる人が持つ武器には見えませんね」
触手があれば必要ないとは言えない。
「防具も揃えたほうがいいでしょう。これから2階へ進むつもりですよね?」
「はい。そのつもりです」
「2階のケイブマウスは、複数で襲ってくることがあります。1体は弱くても、囲まれれば危険です。命が惜しいなら、防具を買ってください」
真剣な声で言われ、ダンは素直に頷いた。
実際には《超再生》があるため、普通の傷ならすぐに治る。それでも、貧弱な装備のまま大量の魔石を持ち込めば、余計に怪しまれてしまう。
実力を隠すためにも、それに見合った装備が必要らしい。
「分かりました。お金が貯まったら買います」
「全部使い切ってはいけませんよ。宿代と食費も残してくださいね」
「はい」
返事をしたダンだったが、もう1つ聞いておきたいことがあった。
「あの、《隠蔽》のスキル書は、この街だとどこで買えますか?」
「魔道具店の《星読みの小箱》です。ただ、《隠蔽》は欲しがる人が多いので、入荷してもすぐに売れてしまいます」
「やっぱり高いんですか?」
「金貨単位になりますね」
金貨。
銀貨8枚以上を1日で稼いで喜んでいたダンにも、すぐ手が届く金額ではない。
種族だけではない。《触手》《スキル強奪》《超再生》という固有スキルに、《吸血》まである。
第4話でエマから聞いた通り、《隠蔽Lv1》なら同じLv1の《鑑定》を防げる。しかし、高レベルの《鑑定》を防ぐには、《隠蔽》もそれだけ上げなければならない。
高くても必要だ。
それも、できれば1冊だけでは足りない。
「あとで見に行ってみます。それと、そこならマジックバッグも売っていますか?」
「扱っていますよ。小型でも高価ですけれど」
「どれくらい入るんですか?」
「小型で、今日持ってきた麻袋10個分ほどです。中型なら30個分ですね。収納した物の重さも、およそ10%になります。ただし、生き物は入れられませんし、中の時間が止まることもありません」
ダンの目が輝いた。
今回、麻袋1つではすぐにいっぱいになった。小型でも、その10倍を持ち帰れることになる。
「欲しい……」
思わず声が漏れた。
エマが苦笑する。
「《隠蔽》とマジックバッグですか。どちらも登録初日に買える物ではありませんよ」
「分かっています。まずは《隠蔽》を手に入れて、その次にマジックバッグを買います」
「ずいぶん大きな目標ですね」
「はい。ですから、たくさん倒してきます」
「え?」
「いえ。いろいろ教えていただいて、ありがとうございました」
ダンは丁寧に頭を下げ、冒険者ギルドを後にした。
◇
最初に向かった《針と羊》では、丈夫なシャツとズボン、下着を2組ずつ購入した。さらに、血や汚れが目立ちにくい濃い色の上着も選ぶ。
服代は銀貨1枚と銅貨30枚だった。
その足で道具屋へ寄り、今度は丈夫な麻袋を2つ購入した。麻袋は1つ銅貨20枚だったため、合計で銅貨40枚になる。
店主から何に使うのかと尋ねられ、ダンがダンジョンの素材を入れると答えると、なぜか妙な顔をされた。
その後、エマに教えられた《銀の止まり木》へ向かった。
宿は石造りの1階と木造の2階からなる建物で、入口に銀色の鳥が止まり木に乗った看板が掲げられていた。扉を開けると、食堂から焼いた肉と香草の匂いが流れてくる。
受付にいた恰幅のよい女将へ冒険者登録証を見せ、長く泊まりたいと伝えた。
「通常は1泊銅貨40枚だけど、10日分を先払いするなら銀貨3枚と銅貨50枚だよ。朝食は宿代に入っている。夕食は必要な日に頼んでおくれ。1食、銅貨15枚だ」
「夕食は毎日頼まなくてもいいんですか?」
「ダンジョンに何日も籠る冒険者もいるからね。食べない日の分まで取ったりしないよ」
ダンは安心した。
「僕も、何日か戻らないことがあるかもしれません」
「出かける前に言っておくれ。戻らなくても契約中は部屋を空けておく。ただし、泊まらなかった日の宿代は戻らないよ」
「部屋に荷物を置いたままでも大丈夫ですか?」
「鍵付きの収納箱がある。貴重品まで安全だとは約束できないけど、普通の荷物ならそこへ入れておけばいいさ」
「分かりました。では、10日分お願いします。それと、今日は夕食も食べたいです。湯と洗濯も頼めますか?」
「夕食が銅貨15枚、湯桶1杯と洗濯1組が銅貨5枚ずつだ」
宿代と合わせて銀貨3枚と銅貨75枚を支払う。
服と麻袋も買ったため、手元に残ったのは銀貨4枚と銅貨11枚だった。
そのうち銀貨1枚は、ガルドから最初にもらったものだ。
できれば、あの銀貨には手をつけたくない。
そう考えると、自由に使えるのは銀貨3枚と銅貨11枚しかない。
生活に必要な物を揃えただけで、今日稼いだ金の大半が消えてしまった。《隠蔽》のスキル書やマジックバッグが、どれほど遠い買い物なのかを改めて思い知らされた。
案内されたのは、2階の奥にある小さな部屋だった。
中にあるのはベッドと机、椅子、それに鍵の付いた収納箱だけ。華やかさはなく、決して広くもない。
それでも、ダンはしばらく部屋の中央に立ったまま動けなかった。
「ここが、僕の部屋……」
前世で長く過ごした病室は、自分だけの場所ではなかった。
カーテンの向こうには他の患者がいて、決まった時間になれば医師や看護師が入ってくる。機械の音や誰かの咳が、夜になっても絶えることはなかった。
しかし、この部屋には自分しかいない。鍵を掛ければ、誰も入ってこない。
粗末なベッドへ腰を下ろしたダンは、何度も部屋の中を見回した。病室より狭いはずなのに、不思議なほど広く感じられる。
運んでもらった湯で身体を拭き、新しく買った服へ着替える。
汚れたシャツやズボンは洗濯へ出したが、教会から借りてきた革のコートだけは部屋に残した。
泥や血でかなり汚れている。
普通の服と同じように洗っていい物ではないだろう。
綺麗にして、いつかあの教会へ返さなければならない。
そのためにも、今度きちんと手入れしてくれる店を探そう。
ダンは革のコートを収納箱の横へ置き、食堂へ下りた。
温かいスープと黒パン、焼いた肉が並べられる。
一口食べると、思わず頬が緩んだ。
「美味しい……」
病院食とは比べものにならないほど味が濃い。
食べたい物を自分で選び、自分で稼いだお金で食べている。それだけのことが、ダンには嬉しかった。
ただ、不思議なこともある。
食べ始める前から、それほど空腹を感じていなかった。
今日は朝からほとんど休まず動き続けている。それなのに身体が食事を強く求めていない。
思い当たるのは、ホーンラビットから繰り返した吸血だった。
「血を吸ったから……?」
答えは分からない。
それでも、食事には別の楽しさがあった。
ダンは久しぶりに味わう温かい料理を、ゆっくりと食べ終えた。
◇
部屋へ戻ったダンは、ベッドへ横になった。
今日は森とダンジョンを歩き回り、ホーンラビットを何体も倒した。
普通なら、すぐに眠ってしまうほど疲れているはずだ。
ところが、どれだけ目を閉じても眠気は訪れなかった。
身体も重くない。
しばらくして身体を起こし、ステータスを開く。
【種族スキル:《夜目Lv1》《不眠Lv1》《吸血Lv2》《状態異常耐性Lv1》】
「本当に、眠らなくてもいいんだ……」
窓の外では、街を歩く人の姿が減り、店も次々と明かりを消していた。
普通の人間にとって、夜は休む時間なのだろう。
しかし、ダンには眠る必要がない。
昼に活動したからといって、夜まで部屋でじっとしている理由はなかった。
窓から差し込む月明かりだけでも、部屋の中がはっきり見える。
人の少ない夜なら、《触手》や《吸血》を見られる危険も減る。
何より、まだダンジョンへ行きたかった。
自分の足で歩ける。
魔物と戦える。
スキルを手に入れられる。
今のダンにとって、そのすべてが楽しくて仕方がなかった。
腰に短剣を差し、買ったばかりの麻袋を2つ持って部屋を出ると、受付にいた女将が目を丸くした。
「今から出かけるのかい?」
「はい。青石の迷宮へ行ってきます」
「今から?」
「朝まで、まだかなり時間がありますから」
ダンが当然のように答えると、女将は呆れた顔をした。
「夜は潜っている冒険者が少ないよ。何かあっても、助けてもらえないかもしれない」
「人が少ないんですね」
心配されているのは分かった。
それでもダンにとっては、むしろ好都合だった。
「気をつけます。行ってきます」
宿を出ると、夜の冷たい空気が頬を撫でた。
昼間とは違い、通りを歩く人の姿はほとんどない。
青石の迷宮へ続く北西門は、迷宮へ向かう冒険者のため夜間も開いている。登録証があれば、夜でも出入りできることはエマから聞いていた。
静かな街路の向こうでは、北西門へ続く道を照らす魔道具の明かりが、暗闇の中に点々と浮かんでいる。
普通の人なら、これから眠る時間だ。
僕にとっては、まだ今日が続いている。
ダンは空の麻袋を両手に持ち、その光へ向かって歩き出した。




