第10話◆ 夜の迷宮
夜のグランベルは静かだった。
昼間は人や荷車で賑わっていた大通りにも、今はほとんど人影がない。遠くから聞こえてくる酒場の声と、自分の足音だけが石造りの街に響いている。
前世では考えられなかった、夜中の外出。
それだけでも少し楽しい。
ダンは空の麻袋を両手に持ち、青石の迷宮へ続く北西門を抜けた。
迷宮へ向かう道には、青白い光を放つ魔道具が一定の間隔で設置されている。《夜目Lv1》を持つダンには、必要ないほど明るく感じられた。
やがて青石の迷宮へ到着すると、昼間とは違う門番が椅子に座っていた。
眠そうにしていた男が、麻袋を2つ持ったダンを見て眉を上げる。
「こんな時間から潜るのか?」
「はい。眠くないので」
「眠くないって……まだ子供だろう?」
「16歳です」
「十分子供だ」
男は呆れた顔をしたが、冒険者登録証を確認すると入口を開けてくれた。
「夜は冒険者が少ない。何かあっても助けは来ないと思え。Gランクなら、2階より下へは行くなよ」
「分かりました。ありがとうございます」
頭を下げ、ダンは青石の迷宮へ足を踏み入れた。
迷宮の中は、昼も夜も変わらないらしい。
壁に埋まった青い石が淡い光を放ち、地下へ続く通路を照らしている。昼間には何組もの冒険者とすれ違ったが、今は人の声も足音も聞こえない。
静かな迷宮を、ほとんど独占している。
そう思うだけで、ダンの胸が高鳴った。
まずは《跳躍Lv5》がどれほどのものか確かめることにした。
昼間はスキルを上げることに夢中で、ゆっくり性能を確認していない。
ダンは通路の天井を見上げ、膝を軽く曲げた。
「このくらいかな」
少し力を込めて床を蹴る。
直後、ダンの身体が想像以上の勢いで跳ね上がった。
「うわっ!」
迫ってきた天井へ反射的に両手をつき、首を縮める。頭をぶつける寸前で身体を捻り、どうにか両足から着地した。
高さは3メートル近くあったはずだ。
全力で跳んだわけではない。それなのに、前世では絶対に届かなかった高さまで簡単に跳び上がってしまった。
「凄い……」
驚きよりも先に、笑みがこぼれた。
病室の中を数歩歩くだけで息を切らしていた自分が、今は天井へ届くほど跳べる。
ダンは何度か力を加減しながら跳び、着地を繰り返した。
真上だけでなく、前方や斜めへ跳ぶ。少し慣れると、壁を蹴って進むこともできた。
身体そのものが軽くなったように感じる。
通路の角を曲がったところで、白い影が飛び出してきた。
額に角を持つホーンラビットだ。
昼間なら速いと感じた突進も、今のダンにははっきり目で追えた。
横へ跳んで避けようとした瞬間、身体が数メートル先まで移動する。
ホーンラビットは目標を見失い、通路の壁へ角を突き立てた。
ダンは短剣で左腕へ小さな傷をつけた。
溢れた血が肌の上で盛り上がり、黒みがかった赤い触手へ変わる。
触手は壁から角を抜こうとしているホーンラビットの後脚へ絡みついた。そのまま脚を傷つけて動けなくすると、心臓から離れた腿へ先端を突き刺す。
血が触手を通じて流れ込んでくる。
《吸血Lv1》だった頃とは違い、相手の血をほとんど吸い尽くさなくても強奪条件へ届いた。
「あと31体か……」
昼間より、次のレベルまでに必要な数は大幅に増えている。
ダンは少し考えた。
Lv5でも《跳躍》は十分すぎるほど強い。
Lv6を目指して1階でホーンラビットを狩り続けるより、今は2階へ行って新しいスキルを探したい。
動けなくなったホーンラビットへ触手を振り下ろす。
命を失った身体が光の粒となって消え、小さな魔石と角が床へ落ちた。
それらを麻袋へ入れ、1階の奥にある階段へ向かう。
途中でさらに2体のホーンラビットと遭遇した。
どちらも危なげなく動きを止め、血を吸ってから倒す。
《跳躍》の強奪数は3体分増えたが、わざわざホーンラビットを探して回るつもりはない。
ダンはそのまま下り階段へ向かった。
◇
石造りの階段を下りるにつれ、空気が少し湿っていく。
2階も壁の青い石で照らされていたが、1階より通路が狭く、ところどころに小さな横穴が開いている。地面には何かの爪で引っ掻いたような傷が残っていた。
エマから聞いたケイブマウスの巣穴だろう。
ダンは足音を立てないよう、慎重に進んだ。
まだ《鑑定》を持っていないため、魔物の強さも能力も自分で確かめるしかない。
ケイブマウスがホーンラビットより強いのか、それとも群れでなければ弱いのかも分からなかった。
小さな物音が、右側の横穴から聞こえた。
ダンが立ち止まった直後、灰色の影が飛び出してきた。
犬ほどの大きさがある鼠だ。黄色く濁った目と、口元から突き出た前歯を持っている。
「これがケイブマウス……」
姿を確認した直後、反対側の横穴からも音がした。
さらに背後からも、爪が石床を擦る音が近づいてくる。
現れたケイブマウスは3体だった。
正面の1体が低い姿勢から跳びかかってくる。
ダンは横へ避けようとして、すぐに思い直した。
左右には別の2体がいる。
大きく動けば、どれかに背中を見せてしまう。
腰から短剣を抜き、飛びかかってきたケイブマウスの前脚を斬りつけた。
刃が肉へ食い込み、血が飛び散る。
着地に失敗したケイブマウスが床を転がったが、残る2体が間を置かずに襲ってくる。
ダンは床を強く蹴った。
《跳躍Lv5》によって身体が一気に跳ね上がり、2体の頭上を飛び越える。
ケイブマウスたちはダンが立っていた場所でぶつかり合った。
着地と同時に、左腕から伸ばした触手を振るう。
触手の先端が1体の後脚を打ち、骨の砕ける感触が伝わってきた。
返す動きでもう1体の腹を横から殴りつける。
どちらも床へ倒れた。
だが、まだ生きている。
ダンはそこで動きを止めた。
新しい魔物との戦いに夢中になり、そのまま殺してしまうところだった。
ダンジョンの魔物は死ぬと消える。
スキルを奪うには、生きている間に吸血しなければならない。
「危なかった……」
3体とも立ち上がろうとしているが、傷ついた脚では満足に動けない。
ダンは最初に前脚を斬ったケイブマウスへ近づき、触手を心臓から離れた後脚へ突き刺した。
血が触手を通じて流れ込んでくる。
その間にも、残る2体は這いながらダンへ近づこうとしていた。
無防備なまま待っているわけにはいかない。
ダンは短剣でもう1度左腕を浅く切った。
新たに流れた血が盛り上がる。
今度は、それを2本目の触手へ変えた。
「できた……」
1本目では吸血を続ける。
同時に2本目を鞭のように振るい、近づいてくるケイブマウスを押し戻した。
動かす触手が2本になっても、思ったほど難しくない。
左右の手を別々に動かしているような感覚で、それぞれを操ることができる。
器用の数値が高い影響なのかもしれない。
やがて、頭の中に待ち望んでいた表示が現れた。
【吸血量が強奪条件に達しました】
【固有スキル《スキル強奪》が発動しました】
【《嗅覚強化Lv1》を獲得しました】
【次のレベルまで:0/2】
その瞬間、世界が変わった。
「うっ……!」
湿った土。
苔。
石の隙間に溜まった水。
魔物の毛。
糞。
そして、血。
それまで意識していなかった無数の匂いが、まとめて鼻の奥へ流れ込んできた。
ダンは思わず鼻を押さえた。
しかし、鼻を塞いでも匂いは完全には消えない。
特に強いのは、目の前で倒れている3体のケイブマウスから漂う血の匂いだった。
どこを傷つけ、どの個体が最も多く血を流しているのかまで分かる。
それだけではない。
通路の奥からも、同じ獣の匂いが漂ってきている。
「まだいる……」
姿も見えない。
物音も聞こえない。
それでも、曲がり角の向こうに複数のケイブマウスがいることを、匂いが教えてくれていた。
強烈な匂いに戸惑いながらも、ダンの口元には笑みが浮かんだ。
これは使える。
敵が姿を見せる前に居場所を察知できれば、不意を突かれる危険が減る。
さらにレベルを上げれば、もっと遠くの匂いまで分かるようになるかもしれない。
ダンは残る2体からも順番に血を吸った。
【次のレベルまで:2/2】
【《嗅覚強化Lv2》へ上昇しました】
【強奪数がリセットされました】
【次のレベルまで:0/4】
Lv2になった途端、混ざり合っていた匂いを少しずつ区別できるようになった。
不快な匂いが消えたわけではない。
それでも、必要な匂いだけを意識して追える。
「さっきより分かりやすい……」
ダンは傷ついた3体へ止めを刺した。
身体が光の粒となって消えたあとには、それぞれ魔石と灰色の毛皮、鋭い前歯が残された。
拾い上げ、麻袋へ入れる。
毛皮は丸めてもそれなりに嵩張る。
麻袋を2つ持ってきたのは正解だった。
ダンは通路の奥から漂ってくる匂いへ意識を向けた。
まだいる。
しかも、1体ではない。
自然と足がそちらへ向かった。
◇
そこからの狩りは、急速に楽になっていった。
横穴の奥に潜んでいても、曲がり角の向こうで待ち伏せていても、ケイブマウスが近くにいれば匂いで分かる。
見つけた群れの脚を触手で傷つけ、動けなくしてから順番に吸血する。
さらに4体から《嗅覚強化》を奪った。
【次のレベルまで:4/4】
【《嗅覚強化Lv3》へ上昇しました】
【強奪数がリセットされました】
【次のレベルまで:0/8】
レベルが上がるほど、魔物を探す時間は短くなった。
そして、さらに8体。
【次のレベルまで:8/8】
【《嗅覚強化Lv4》へ上昇しました】
【強奪数がリセットされました】
【次のレベルまで:0/16】
「凄いな、これ……」
もう、ただ匂いが強く感じられるだけではない。
どの方向から漂ってくるのか。
近いのか、遠いのか。
何体くらいいるのか。
意識を向ければ、それまでよりずっと判断しやすくなっていた。
何より、魔物を探して歩き回る時間が減った。
誰もいない夜の迷宮では、《触手》を隠す必要もない。
1本で魔物の動きを止め、もう1本で近づいてくる個体を牽制する。
必要になれば吸血しながら戦うこともできる。
昼間よりも狩りの速度が明らかに上がっていた。
ダンは時間を忘れて狩り続けた。
やがて、拾い集めた毛皮と前歯、魔石で麻袋が2つとも膨らんだ。
上から押し込もうとしても、それ以上は入らない。
「2つ持ってきたのに……」
まだ狩りを続けたい。
身体も疲れていない。
眠気もない。
しかし、素材を置いていくのはもったいなかった。
仕方なく、ダンは両手に膨らんだ麻袋を持って青石の迷宮を出た。
◇
外へ出ると、東の空がわずかに明るくなり始めていた。
入口の門番が、パンパンに膨らんだ麻袋を見て目を見開く。
「お前、それを全部2階で?」
「はい。でも、袋がいっぱいになってしまいました」
「……そうか」
なぜか、それ以上話してくれなかった。
ダンは北西門を通って街へ戻り、そのまま冒険者ギルドへ向かった。
しかし、正面の扉は固く閉ざされていた。
「あれ?」
何度か押してみても開かない。
入口の横を見ると、通常の買取窓口は朝の鐘が鳴ってからと書かれている。
「ギルドって、閉まるんだ……」
病院には夜中でも必ず誰かがいた。
そのため、施設そのものが閉まるという感覚が、ダンにはあまりなかった。
朝の鐘が鳴るまで待つことも考えた。
だが、パンパンに膨らんだ麻袋を2つ抱えたまま入口に立っていれば、さらに目立ってしまう。
ダンは来た道を戻り、《銀の止まり木》へ向かった。
宿へ入ると、朝食の準備を始めていた女将が振り返った。
その視線が、ダンの顔から両手の麻袋へゆっくり移っていく。
「朝まで時間があるとは言っていたけどね……」
「ギルドがまだ開いていなかったので、戻ってきました」
「それは見れば分かるよ。その袋、2つともいっぱいじゃないか」
「はい」
ダンは両手の麻袋を見下ろした。
「2つあれば足りると思ったんですけど……」
「……」
「次は、もう少し多く持っていったほうがよさそうです」
女将は何も言わず、深いため息をついた。
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