第62話◆ 眷属の食事
買い物を終えたダンとエルナが《銀の止まり木》へ戻る頃には、すでに日が傾き始めていた。
中型マジックバッグを買い、《隠蔽》や《鑑定》も強化し、さらに今後の探索に必要な消耗品まで買い揃えたため、朝まで大量に持っていた金貨は一気に減っている。それでも、初級ダンジョンの階層主をあと4回倒せば、ある程度は取り戻せるはずだった。
宿へ入った2人は部屋へ戻る前に、1階の食堂で夕食を頼んだ。
今日の料理は、厚めに切った鳥肉を香草と一緒に焼いたものに、豆と根菜を煮込んだスープ、焼きたての黒パンだった。以前のダンなら量の多さに驚いていたところだが、ダンジョンで何度も戦うようになってからは、これくらいなら無理なく食べられる。
「明日から、また初級ダンジョンですね」
エルナは鳥肉を切り分けながら、楽しそうに言った。
「はい。階層主を倒したのは、まだ3回ですから。あと4回倒して、《威圧》と《号令》と《激昂》をLv3まで上げます」
「11階で待つ時間もありますし、かなりの数を狩れそうです」
「中型マジックバッグが2つになったので、今までより長く籠もれますね。小型も合わせれば、容量は麻袋70個分です」
ダンがそう答えると、エルナは満足そうに頷いた。
これまで使っていた中型マジックバッグはダンが持ち、新しく買ったものはエルナへ渡してある。さらに小型マジックバッグもあるため、荷物がいっぱいになって途中で戻る心配はかなり減った。
エルナの戦力も以前とは比べものにならない。防具を新調し、《防御強化》や《受け流し》を伸ばしたうえに、《魔力障壁》まで手に入れた。ダンほどではないにしても、簡単に傷つくような強さではなくなっている。
それでもダンは、彼女の装備やスキルへ金を使うことを惜しいとは思わなかった。
自分には《超再生》がある。手足を失うような怪我でさえ治るのかは分からないが、少なくとも普通なら命を落とす傷から回復できることは、これまでの戦いで分かっている。
しかし、エルナの再生能力はまだLv1だ。いくらヴァンパイアに近い身体へ生まれ変わったとはいえ、ダンと同じように考えるわけにはいかなかった。
「ダン様?」
「あっ、すみません。少し考え事をしていました」
「また私の装備のことでしょうか」
「どうして分かったんですか?」
「ダン様は私のことになると、すぐに難しい顔をなさいますから」
エルナが小さく笑う。
「私はもう、人間だった頃より遥かに強くなっています。それに、ダン様からいただいた装備もあります。以前のような無茶はしませんから、あまり心配なさらないでください」
「心配するなと言われても、難しいです」
「でしたら、私もダン様を心配します。これでお互い様ですね」
そう言われると、ダンには返す言葉がなかった。
夕食を終えた2人は部屋へ戻り、明日持っていく荷物をベッドの上へ並べた。回復ポーションと魔力回復ポーション、予備の水と保存食、武器の手入れに使う道具もある。
今の身体なら、通常の食事を取らなくても、血を吸えば活動を続けられる。それでもダンには人間として生きていた頃の感覚が残っているため、温かい料理を食べることは今でも楽しみの1つだった。
エルナも同じなのだろう。眷属になってからも、彼女が食事を残したことはない。
そこまで考えたところで、ダンはふと気づいた。
「そういえば、エルナ。聞いてもいいですか?」
「はい。何でしょう」
「エルナが血を吸っているところを、見たことがないなと思って」
エルナの手が止まった。
ダンは彼女のステータスを思い浮かべる。眷属になったエルナには、種族スキルとして《吸血》Lv1が備わっている。それなのに、ダンジョンで魔物を戦闘不能にしたあとも、血を吸うのはいつもダンだけだった。
「遠慮しなくてもいいんですよ。これからは、とどめを刺す前にエルナも吸ってください。Lv1のままでは、必要な血の量も多いでしょうし」
「遠慮しているわけではありません」
「では、血を吸いたくならないんですか?」
エルナはしばらく答えず、気まずそうに視線を逸らした。
「……なります」
「やっぱり」
「戦闘不能になった魔物を前にすると、喉が渇きます。血の匂いが濃い場所では、牙が疼くこともあります」
「そこまで我慢していたんですか?」
ダンは驚いてエルナを見た。
自分は腕へ小さな傷をつけ、そこから生み出した触手で血を吸っている。魔物へ直接触れる必要はなく、相手がゴブリンであろうとポイズンフロッグであろうと、特に気にしたことはなかった。
しかし、エルナには触手がない。
「どうして吸わないんです?」
「私が血を吸うためには、牙を立てなければなりません」
「はい」
「つまり、魔物へ口をつけなければならないのです」
「あっ……」
ようやくダンにも、彼女が何を嫌がっているのか分かった。
エルナは恥ずかしそうに唇へ指を添える。
「口は食事をしたり、大切な方と言葉を交わしたり……その、口づけをしたりするためのものです。それをゴブリンやコボルトへ押しつけて、そのまま血を吸うことには、どうしても抵抗があります」
「なるほど。僕は触手で吸っているから、平気だったんですね」
魔物へ噛みつかなければならないと考えると、確かにダンも少し躊躇する。ましてや、エルナは眷属になるまで普通の人間だった。魔物の首筋へ牙を突き立てろと言われても、すぐに受け入れられるものではない。
「でも、吸いたいのに我慢し続けるのはつらくないですか?」
「耐えられないほどではありません。食事も楽しめますし、今のところ身体に異常もありませんから」
エルナはそう答えたが、ダンには強がっているように聞こえた。
眷属になってから、エルナは1度も吸血していない。戦いのたびに血への衝動を覚えながら、それをずっと押さえ込んでいたことになる。
ダンは少し考え、自分の左腕を差し出した。
「それなら、僕の血を吸いますか?」
「……えっ?」
「《超再生》があるので、少しくらい吸われてもすぐに戻ります。魔物から吸うよりは、抵抗も少ないですよね」
エルナは差し出された腕とダンの顔を、何度も見比べた。
「ダン様の血を……私がいただいてもよろしいのですか?」
「もちろんです。ただ、明日の戦いに影響が出ないくらいにしてください」
「本当に?」
「はい」
「本当に、本当によろしいのですか?」
「そんなに確認しなくても大丈夫です」
先ほどまで落ち着いていたエルナの様子が明らかに変わっている。頬を赤く染め、ダンの腕を見つめる瞳まで潤み始めていた。
ダンが袖を肘の上まで捲ると、エルナは壊れ物を扱うように、その手首を両手で包み込んだ。
「では……失礼いたします」
エルナの唇が、ダンの手首へ触れる。
一瞬だけ柔らかな感触がした直後、細い牙が皮膚を破った。小さな痛みに続き、傷口から何かを引き出されるような感覚が伝わってくる。
触手で魔物の血を吸うときとは違う。腕から少しずつ熱が抜け、その熱がエルナへ流れ込んでいくのが分かった。
やがてエルナの喉が、小さく動いた。
「んっ……」
漏れた声に、ダンの肩が僅かに跳ねる。
エルナは夢中になっているのか、両目を閉じたままダンの手首を離そうとしない。
吸われている量はそれほど多くないはずだが、このまま長く続けさせるわけにもいかない。
「エ、エルナ。そろそろ……」
その声で我に返ったのか、エルナは慌てて牙を抜いた。
「申し訳ありません!」
「いえ、大丈夫です。少し驚いただけですから」
手首には牙の跡が2つ残っていたが、《超再生》によってすぐに塞がっていく。流れていた血も止まり、数秒後には傷があったことすら分からなくなった。
一方のエルナは、両手で自分の口元を押さえたまま動かない。
「どうでしたか?」
ダンが尋ねると、エルナはゆっくりと顔を上げた。
その瞳は潤み、頬は先ほどよりも赤く染まっている。いつもしっかりしている彼女からは想像できないほど、表情が緩みきっていた。
「……ご褒美です」
「ご褒美?」
「はい。ダン様の血を直接いただけるなんて、私にとっては、これ以上ないほどのご褒美です」
エルナは胸の前で両手を組み、夢見るような表情を浮かべる。
「甘くて、温かくて、身体の奥までダン様で満たされるような……あまりにも幸せすぎます」
「そ、そんなに?」
「はい。毎日でもいただきたいほどです」
あまりに真剣な口調だったため、ダンは思わず身体を引いた。
「毎日は少し多くないですか?」
「では、階層主を倒したときのご褒美にしてください」
「普通に必要なときに吸えばいいと思うんですが……」
「必要だからではなく、ご褒美としていただきたいのです」
エルナはきっぱりと言い切った。
ダンには、その違いがよく分からない。しかし、彼女が先ほどまでとは別人のように幸せそうな顔をしているため、駄目だとも言いにくかった。
「分かりました。頑張ったときなら」
「ありがとうございます、ダン様」
エルナは嬉しそうに微笑んだあと、名残惜しそうにダンの手首へ視線を落とした。
「……今から、もう少し頑張ってきてもよろしいでしょうか」
「今日はもう休みますよ」
「残念です」
真顔で答えるエルナを見て、ダンは困りながらも笑ってしまった。
普段のエルナは頼りになる。戦いでは周囲をよく見ており、買い物やギルドでの交渉でも、ダンが気づかない部分を補ってくれる。
それなのに、ダンの血が関わった途端、驚くほど分かりやすくなってしまうらしい。
明日からは、残る4回の階層主討伐へ向かう。
そのすべてを終えれば、いよいよ中級ダンジョン《黒鉄の迷宮》への挑戦が始まる。
新しい魔物やスキルへの期待を胸に抱きながら、ダンは自分の手首を見つめた。
傷はすでに完全に消えているのに、エルナの唇が触れた感触だけは、なぜかいつまでも残っていた。




