第55話◆ ダン様と呼ぶまで
エルナが初めてダンを見たのは、冒険者ギルドの買取窓口だった。
依頼を終えて戻ってきたエルナたちが、混み合う受付の列へ並ぼうとした時、奥の買取窓口から驚きの声が上がった。
何事かと目を向けると、そこには見覚えのない少年が立っている。
年齢はエルナより少し下に見えた。透き通るような白い肌に整った顔立ち。冒険者らしい荒々しさはなく、貴族の屋敷にいてもおかしくないほど綺麗な少年だった。
それだけでも人目を引くというのに、カウンターには大量のコボルトのドロップ品が積まれている。
魔石や牙、毛皮がマジックバッグから次々と取り出され、職員たちが慌ただしく仕分けていた。
「何、あの量……」
エルナが思わず呟くと、隣にいたカイルも目を丸くする。
「1人で狩ったのか?」
「まさか。どこかのパーティーが、まとめて持たせたんじゃない?」
リナはそう言ったものの、少年の近くに仲間らしき姿はなかった。
あれだけの量を持ち帰ったのだから、相当な実力者なのかもしれない。
しかし少年には、自分の強さを誇示する様子がなかった。それどころか、周囲から向けられる視線を気にするように何度もフードへ手を伸ばし、職員から買取金額を伝えられると丁寧に頭を下げている。
変わった冒険者だと思った。
同時に、もう少し近くで顔を見てみたいとも思った。
「ちょっと話してくる」
エルナが歩き出すと、背後からカイルの笑いを含んだ声が飛んできた。
「勧誘か? それとも顔が気になったのか?」
「戦力になりそうだからよ」
振り返らずに答えたが、自分でも少し苦しい言い訳だと思った。
エルナはリーダーとして、常にパーティーのことを考えている。
前衛を務める自分、斥候役のカイル、回復を担当するリナ。3人でも均衡は取れているが、もう1人前衛が加われば、さらに深い階層まで進めるはずだった。
だから、これはパーティーのための勧誘だ。
そう自分へ言い聞かせ、買取を終えた少年へ声をかけた。
近くで見ると、やはり驚くほど整った顔をしていた。
しかしエルナがパーティーへ誘うと、少年は困ったように眉を下げる。
「すみません。しばらくは1人でやってみたいと思っているんです」
断り方まで丁寧だった。
冒険者の中には、女から誘われたというだけで下卑た笑みを浮かべる者もいる。それどころか、エルナたちの実力を聞きもせず、女が2人いるなら入ってやると言い出した者までいた。
目の前の少年からは、そうした嫌な視線をまったく感じない。
断られたことを残念に思いながらも、エルナはそれ以上強く誘えなかった。
「そう。気が変わったら声をかけて。私はエルナよ」
「はい。僕はダンです」
ダン。
その名前を心の中で一度繰り返した。
名前を聞けただけでも十分だと思ったはずなのに、仲間のところへ戻る足取りは、自分でも分かるほど重かった。
「見事に振られたな」
ニヤニヤしながら待っていたカイルの脇腹へ、エルナは無言で肘を入れた。
それからも、ダンの姿をギルドで何度か見かけた。
彼は戻ってくるたびに大量のドロップ品を持ち帰り、信じられない速さで迷宮の奥へ進んでいく。
少し前まで見たこともなかった新人が、あっという間に自分たちの背中へ迫ってくる。
強い新人が現れたことを喜ぶ気持ちよりも、焦りの方が大きかった。
エルナは冒険者として経験を積み、レベル21まで上げてきた。カイルとリナの命を預かるリーダーでもある。
昨日今日冒険者になったばかりの少年に、簡単に追いつかれてたまるものかと思った。
それでも、不思議とダンを嫌いにはなれなかった。
ギルドの酒場で見かけた時も、気づけば同じテーブルへ誘っていた。
彼が断らずに席へ座ってくれたことが嬉しくて、普段よりも多く話したことを覚えている。
ダンは自分の強さを自慢しなかった。
それどころか、エルナたちの冒険について興味深そうに尋ね、どのような魔物と戦ったのか、パーティーではどう連携するのかと楽しそうに話を聞いてくれた。
自分ばかり彼を意識していることが悔しくて、別れ際には強がった言葉を口にした。
次に会う時まで、席は取っておく。
いつかダンが1人で戦うことに限界を感じたら、自分たちを選んでほしかった。
しかし実際には、限界を迎えたのはエルナたちの方だった。
ダンは1人のまま進み続け、ついには10階まで追いついてきた。
10階の奥で彼の姿を見つけた時、エルナは嬉しさと同時に強い焦りを覚えた。
ダンはもう、後ろから追いかけてくる新人ではない。
少しでも足を止めれば、自分たちを置いて先へ行ってしまう存在になっていた。
だから、これから11階へ進むところだと告げた。
本当は、カイルもリナも10階でもう少し戦いに慣れてからの方がよいと考えていた。
それでもエルナは、自分たちなら大丈夫だと2人を説得した。
危なくなれば、すぐに戻ればいい。
その時は、本気でそう考えていた。
けれど今なら分かる。
焦っていたのだ。
ダンに追いつかれたことに。
そして、このまま置いていかれることに。
リーダーなら、そんな感情より仲間の安全を優先しなければならなかった。
それができなかった。
11階で最初の魔物と遭遇した時も、まだ戦えると思っていた。
オークウォーリアの攻撃を自分が受け止め、カイルが側面へ回り、リナが後方から援護する。
これまでと同じように3人で連携すれば、多少強い相手でも倒せるはずだった。
しかし、インプメイジの魔法がリナを狙い、影の中からシャドウパンサーが飛び出したことで陣形が崩れた。
さらに遠くで別のシャドウパンサーが吠え、仲間を呼び寄せる。
増え続ける敵を前に、気づいた時には撤退する余裕さえ失われていた。
カイルがエルナを庇って倒れ、その直後にリナの叫び声が聞こえた。
振り返った時には、彼女も床へ倒れていた。
自分が11階へ行こうと言わなければ、2人は死ななかった。
その事実を理解した時には、エルナも立っていられないほどの傷を負っていた。
血に濡れた床へ倒れ、霞んでいく視界の中で魔物が近づいてくる。
自分もここで死ぬのだと思った。
怖かった。
だが、それ以上に苦しかった。
自分の判断で仲間を死なせておきながら、それでも助かりたいと願っていることが許せなかった。
その時、階段から駆けてくる足音が聞こえた。
現れたのはダンだった。
どうして来てしまったのかと思った。
助けてほしいと願う一方で、彼まで死んでしまうことが怖かった。
エルナたちには絶望的だった敵が、ダンにはほとんど相手にならない。
その姿を見ながら、エルナは安堵していた。
ダンなら大丈夫だ。
もう誰かが自分のせいで死ぬことはない。
戦いを終えたダンは、倒れているエルナのもとへ駆け寄った。
すぐにポーションを使ってくれたが、傷は深すぎた。
命が消えかけていることは、自分自身が一番よく分かっていた。
そこでダンは、自らがダンピールであることを明かした。
眷属になれば助けられるかもしれない。
ただし、人間ではなくなり、契約は二度と解除できない。
ダンの命令には逆らえず、彼の秘密を他者へ漏らすこともできなくなる。
その説明を聞いても、エルナは迷わなかった。
死にたくなかったからだけではない。
もっとダンと話したかった。
隣で戦ってみたかった。
そして、いつか空けておくと言った席に、今度こそ座ってほしかった。
「私の意思で、ダンの眷属になります」
あの時、確かに自分の意思で選んだ。
再び目を覚ますと、世界の見え方が変わっていた。
身体にはこれまで感じたことのない力が満ち、死ぬほど深かった傷も消えている。
それ以上に大きく変わったのは、ダンへ向ける感情だった。
彼の姿を見ただけで胸が満たされ、声を聞けば安心する。
命令されれば、それに従うことを当然だと感じた。
何よりも優先し、自分のすべてを捧げたい。
そんな強烈な忠誠心が、最初から自分の中にあったもののように深く根を張っていた。
そして、目を覚ましたエルナがダンへ声をかけようとした時だった。
「ダン様……」
考えて選んだ呼び方ではなかった。
それまで自分は、彼をダンと呼んでいたはずなのに。
けれど、口から出たのは「ダン様」だった。
一瞬だけ、自分でも不思議に思った。
しかし、言い直そうとは思わなかった。
むしろ「ダン」と呼び捨てにする方が、ひどく不自然なことのように感じられた。
それからずっと、エルナにとって彼はダン様になった。
けれど、ダン様はエルナを道具のように扱わなかった。
カイルとリナの亡骸を一緒に背負い、葬儀にも付き添ってくれた。
小型マジックバッグを渡し、新しい装備を選び、自分の秘密まで打ち明けてくれた。
狩りではエルナが成長できるよう、トドメを任せてくれる。
2人で稼いだお金もエルナのために使い、必要なスキル書を次々と買い揃えようとしてくれた。
だからこそ、ダン様の役に立ちたいと思った。
もっと強くなり、彼の隣に立つのに相応しい存在になりたかった。
しかし、そう願うほど、別の不安も膨らんでいった。
眷属となったエルナには、今の自分が帰る場所と呼べるところは、もうダン様のそばしか思い浮かばない。
しかしダン様には、これから先も多くの出会いがある。
新しい仲間が増えるかもしれない。
自分より強く、役に立つ者が現れるかもしれない。
その時、自分は必要とされなくなるのではないか。
宿の部屋で装備を手入れしている間も、その不安を抑えられなかった。
何度も口を開きかけた。
けれど、聞くのが怖かった。
もし本当に、いつか必要なくなると言われたら。
そう考えるだけで、胸の奥が冷たくなった。
それでも、確かめずにはいられなかった。
「私は……これからも、ダン様のおそばにいてよいのでしょうか」
口にしてから、聞かなければよかったと思った。
だが、ダン様は驚いただけだった。
自分はもう十分すぎるほど役に立っていると言ってくれた。
それでも不安を消せず、エルナは胸の内を話した。
もっと役に立たなければならないと思っていること。
いつか必要なくなるのではないかと怖いこと。
そして、自分がダン様の役に立ちたいと思う気持ちさえ、どこまでが自分自身のものなのか分からないこと。
眷属だから、そう思っているのかもしれない。
そう告げたエルナへ、ダン様は簡単に否定しなかった。
『僕にも分かりません』
その言葉を聞いた時、少しだけ驚いた。
大丈夫だと言ってくれると思っていたからだ。
全部エルナ自身の気持ちだと。
眷属になっても何も変わっていないと。
けれど、ダン様は分からないことを分からないままにして、そのうえで自分の気持ちだけを伝えてくれた。
『僕は、エルナが眷属だから一緒にいるわけではありません』
その言葉が、何より嬉しかった。
たとえ自分より強い者が仲間になっても。
失敗しても。
迷惑をかけても。
必要なくなるわけではない。
何度聞いても、何度でも答える。
エルナを必要ないなんて言わない。
そう言ってくれた。
胸の奥に溜まっていた冷たいものが、少しずつ温かいものへ変わっていった。
だから、もう1つだけ願ってみたくなった。
『抱きしめていただけますか?』
そんなことを頼んだのは初めてだった。
戦うためでもない。
役に立つためでもない。
ダン様のために何かをするのでもない。
ただ自分が、そうしてほしかった。
ダン様は少し戸惑いながらも立ち上がり、壊れ物へ触れるように、そっと腕を回してくれた。
胸へ頬を寄せる。
思っていたよりも温かかった。
耳を澄まさなくても、すぐ近くから速い鼓動が聞こえてくる。
『ダン様の心臓、すごく速いです』
『それは……仕方ないじゃないですか』
『私を抱きしめているからですか?』
『聞かないでください……』
あの時のダン様の困った顔を思い出すと、今でも少し笑ってしまう。
自分と同じように、ダン様も緊張してくれていた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
眷属となったから、ダン様を慕っているのか。
ダン様を慕っていたから、眷属になることを迷わず選べたのか。
今のエルナには、まだ答えを出せない。
眷属になった直後、考えるより先に「ダン様」と呼んだ。
そこにはきっと、契約によって生まれた感情も含まれているのだろう。
けれど、1つだけ確かなことがある。
冒険者ギルドで初めて見かけた日。
大量のドロップ品を前にしながら、周囲の視線を気にして困ったように立っていた綺麗な少年を、エルナは目で追わずにはいられなかった。
声をかけたのも。
断られて残念だったのも。
酒場で同じ席へ誘ったのも。
追いつかれそうになって焦ったのも。
すべて、眷属になる前の自分だ。
あの日の胸の高鳴りだけは、眷属契約によって与えられたものではない。
最初に口から出た「ダン様」は、眷属となった自分にとって自然な呼び方だったのかもしれない。
けれど今は、それだけではない。
命を救ってくれた人。
秘密を預けてくれた人。
自分を道具ではなく、仲間として必要だと言ってくれた人。
そして、何も差し出さなくても、そばにいてよいと言ってくれた人。
そんな人だから、自分はこの人をダン様と呼びたい。
『もう少しだけ、強くしていただけますか?』
そう願うと、ダン様の腕に力がこもった。
エルナは目を閉じ、その胸へ身体を預ける。
あの温もりの中では、強くなくても、役に立たなくても、ただエルナとしてそこにいてよいのだと思えた。
今はまだ、それだけで十分だった。




