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『スキルを喰らうダンピール ~墓から蘇った少年は、眠らずダンジョンを駆け上がる~』  作者: ミタテ屋


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第54話◆ 温もりの意味

 青石の迷宮を出た頃には、グランベルの空は夕暮れに染まっていた。


 中型と小型のマジックバッグには、8階で倒したポイズンリザードと、9階で狩ったダンジョンウルフのドロップ品が大量に収められ、ほとんど容量が残っていない。


 このまま10階へ進めば、途中で容量が足りなくなる可能性が高かった。


「今日はここまでにしましょうか」


 ダンが迷宮の入口を振り返ると、エルナも素直にうなずいた。


「はい。ダン様がそうお決めになったのでしたら」


「僕だけで決めなくてもいいんですよ。エルナがまだ狩りたいなら、もう少しくらいは付き合いますから」


「いえ、私も一度休んだ方がよいと思っていました。身体には余裕がありますが、装備の手入れをしておきたいです」


 ダンは安心したように笑う。


 エルナは眷属となってから疲れにくくなり、眠る必要もなくなった。それでも、長時間の戦闘を続ければ集中力は落ちる。新しく買った装備も、いくら上等な品とはいえ使い続ければ傷むのだ。


 何より、ダンは久しぶりに温かい食事を取りたかった。


 吸血さえすれば生きていける。空腹もほとんど感じない。それでも病院で過ごしていた頃から、食事は数少ない楽しみの1つだった。


 2人は冒険者ギルドへ寄らず、そのまま《銀の止まり木》へ戻った。


「お帰りなさい。ずいぶん長く潜っていたね」


 宿の女将が、カウンターの奥から顔を出す。


「ただいま戻りました。食事はまだ頼めますか?」


「もちろんさ。2人分でいいのかい?」


「はい。お願いします」


 ダンが答えると、女将はエルナを見て意味ありげに笑った。


 以前までは1人だったダンが、今では若い女性を連れて帰ってくるようになったのだ。何か誤解されている気もしたが、わざわざ説明する方が不自然に思えて、ダンは黙って銀貨を支払った。


 食堂の隅にある席へ座ってしばらく待つと、焼きたてのパンと野菜のスープ、厚切りの肉を香草と一緒に焼いた料理が運ばれてきた。


「わあ……」


 思わず声を漏らしたダンを見て、エルナが柔らかく笑う。


「ダン様は、本当に食事がお好きなのですね」


「はい。食べなくても平気だと分かっているんですけど、やっぱり食べたくなります。エルナは違いますか?」


「私も食べたいです。必要がないと言われても、温かい料理を見るとお腹が空いたような気がします」


「よかった。僕だけ人間らしさが抜けていないのかと思いました」


「それなら、私も同じです」


 2人は顔を見合わせて笑った。


 スープは野菜の甘みが溶け込み、冷えた身体を内側から温めてくれた。香草の利いた肉は少し硬かったが、噛むたびに肉汁が口の中へ広がる。


 食事を必要としない身体になっても、美味しいと感じる心までは失われていない。


 そのことが、ダンには少し嬉しかった。


 食事を終えた後は順番に湯浴みを済ませ、ダンの部屋で装備を手入れすることにした。


 防具についた迷宮の埃を落とし、革の部分へ薄く油を塗り込む。ダンは買ったばかりの片手剣を布で拭い、刃こぼれがないか確かめた。


 向かいに座るエルナも、自分の剣を丁寧に磨いている。


「この剣、すごく使いやすいです。前に使っていたものより軽いのに、ずっとよく斬れます」


「無理をしてでも、良いものを買って正解でしたね」


「はい。ありがとうございます、ダン様」


「エルナが自分で稼いだお金も入っているんですから、お礼はいりませんよ」


「それでも、私のために選んでくださったことが嬉しいのです」


 エルナはそう言って、磨き終えた剣を鞘へ納めた。


 ダンも手入れを終えた片手剣を壁へ立てかけ、今度は短剣を布で拭き始める。


 部屋の中に、布が刃を擦る小さな音だけが続いた。


 しばらくして、その音が途切れる。


 顔を上げると、エルナがこちらを見ていた。


「どうしました?」


「ダン様」


「はい」


 エルナは何かを言おうとして、一度口を閉じた。


 迷宮で魔物と向き合っているときには見せない、迷うような表情だった。


「私は……これからも、ダン様のおそばにいてよいのでしょうか」


 思いもしなかった言葉に、ダンの手が止まる。


「もちろんです。どうして急にそんなことを?」


「分からないのです」


 エルナは自分の膝の上へ視線を落とした。


「今の私は以前より強くなりました。ダン様と一緒に戦うこともできます。荷物を持つことも、魔物へトドメを刺すこともできます」


「十分すぎるくらい助けてもらっています」


「ですが……」


 エルナの指が、膝の上でわずかに握られる。


「いつか、私より役に立つ人が現れたら。そのとき、私は必要なくなるのではないかと考えてしまうのです」


「エルナ……」


「おかしいとは分かっています。ダン様がそのような方ではないことも分かっています。それでも、時々怖くなります」


 ダンは何も言わず、エルナの言葉を待った。


「カイルとリナがいなくなって、私もあのとき死ぬはずでした」


 静かな声だった。


「ダン様に助けていただいて、人間ではなくなって、それでも生きています。今の私が帰る場所を考えたとき、最初に浮かぶのはダン様のところなのです」


 エルナが胸元へ手を当てる。


「だから、ダン様のお役に立ちたいと思います。もっと強くなりたいです。何でもできるようになりたいです。でも……」


 一度、言葉が途切れた。


「それは本当に私がそうしたいからなのか。それとも、眷属だからそう思うのか。自分でも分からなくなることがあります」


 ダンは短剣を机へ置いた。


 それは、ダン自身も考えたことがある。


 眷属契約によって、エルナはダンへ逆らえない。秘密を漏らすこともできない。


 記憶も性格も以前のままだと分かっている。


 それでも、ダンを慕う気持ちのすべてが契約と無関係だと断言できるわけではない。


 だからこそ、ダンは命令したくなかった。


「僕にも分かりません」


 ダンは正直に答えた。


 エルナが顔を上げる。


「眷属になったことで、エルナの気持ちがどこまで変わったのか、僕にも分かりません。でも、1つだけ分かることがあります」


「何でしょうか」


「僕は、エルナが眷属だから一緒にいるわけではありません」


 エルナの瞳が揺れた。


「僕は1人で異世界に来て、ずっと自分だけで何とかしなければならないと思っていました。誰かに秘密を知られるのも怖かったし、誰かと一緒に行動することも避けていました」


 今でも警戒心がなくなったわけではない。


 自分が何者なのかさえ、まだ分かっていない。


 それでも今は、迷宮へ入れば隣にエルナがいる。


 魔物を探せば、同じ方向へ歩いてくれる。


 食事をすれば、向かいで笑っている。


「今はエルナがいてくれて、本当に心強いです」


「ダン様……」


「だから、もっと役に立たなければとか、何かをしなければとか、そんなことを考えなくていいです」


 ダンは少し考え、言葉を続けた。


「たとえ僕より強い人が仲間になっても、エルナが必要なくなるわけじゃありません」


「本当ですか?」


「はい」


「私が失敗しても?」


「僕も失敗します」


「迷惑をかけても?」


「僕もかけると思います」


「もっと強い人が現れても?」


「何回聞くんですか」


 思わず苦笑すると、エルナの口元もほんの少し緩んだ。


「何回でも聞きたいです」


「それなら、何回でも答えます。エルナを必要ないなんて言いません」


 しばらく沈黙が続いた。


 やがてエルナが、小さく息を吐く。


「では……1つだけ、お願いをしてもよろしいでしょうか」


「僕にできることなら」


「抱きしめていただけますか?」


 予想していなかった願いに、ダンの動きが止まった。


「抱きしめる……?」


「はい」


 エルナは恥ずかしそうに視線を逸らした。


「今は……ダン様の温もりを感じたいのです」


 断る理由はなかった。


 それなのに、いざ立ち上がろうとすると妙に緊張する。


「分かりました」


 ダンは立ち上がり、エルナの前へ移動した。


 どうすればいいのか分からず一瞬迷ったあと、壊れ物へ触れるように、そっと両腕を回す。


 エルナの身体は思っていたよりも温かかった。


 吸血眷属となっても、体温まで失われたわけではない。


 エルナもゆっくりとダンの背中へ腕を回し、胸元へ頬を寄せた。


「ダン様……」


「はい」


「もう少しだけ、強くしていただけますか?」


「これくらいですか?」


 少しだけ腕へ力を込める。


「はい」


 エルナの身体から、ゆっくりと力が抜けていく。


 その変化が分かると、ダンも少し安心した。


 しかし別の問題があった。


 近い。


 誰かをこんなふうに抱きしめた経験などない。


 胸の奥で心臓がやけに速く動いている。


「ダン様の心臓、すごく速いです」


「それは……仕方ないじゃないですか」


「私を抱きしめているからですか?」


「聞かないでください……」


 エルナが小さく笑った。


 その笑い声に、先ほどまで滲んでいた不安はない。


 ダンは安堵し、しばらくの間、彼女を抱きしめたまま動かなかった。


 温かい。


 食事をしなくても生きていける身体になった。


 眠らなくても生きていける。


 以前の自分なら当たり前だと思っていたものが、今の身体には必要なくなっている。


 それでも、温かい料理を美味しいと思う。


 誰かの笑顔を見れば嬉しい。


 こうして人の温もりに触れれば、安心する。


 必要だから求めるのではない。


 必要ではなくても、大切なものはある。


 ダンはそんな当たり前のことを、今になって知った気がした。


 やがて、エルナの腕から力が抜ける。


「ありがとうございます。もう大丈夫です」


「本当に?」


「はい。ダン様が私を必要としてくださっていると分かりましたから」


 エルナが身体を離す。


 少しだけ名残惜しいような気がして、ダンは自分でも戸惑った。


「これから不安になったら、ちゃんと言ってください」


「そのたびに抱きしめていただけますか?」


「えっ」


「何回でも答えてくださると言いました」


「それは言葉の話です」


「そうでしたか」


 真面目な顔で答えたあと、エルナが笑う。


「冗談です」


「エルナも、そういう冗談を言うんですね」


「ダン様と一緒にいると、少しくらいなら言っても大丈夫な気がします」


「それなら……まあ、いいですけど」


 ダンが椅子へ戻ると、エルナも向かいの席へ座り直した。


 再び装備の手入れを始める。


 ダンも短剣を手に取り、布で刃を拭いた。


 だが、先ほどとは少しだけ部屋の空気が違う。


 何度も同じ場所を磨いていることに気づき、慌てて持ち替えた。


「ダン様。そこは先ほども磨いていませんでしたか?」


「……しばらく話しかけないでください」


「かしこまりました」


 そう答えながらも、エルナの頬は緩んでいる。


 戦いの中で結ばれた主従の契約が、これからどのような関係へ変わっていくのか、ダンにはまだ分からない。


 ただ、腕の中に残る温もりは嫌ではなかった。


 翌日は、10階へ向かう。


 ゴブリンファイターとゴブリンメイジを狩り、《筋力強化》《受け流し》《火球》《魔力操作》を鍛える予定だ。


 けれど今夜くらいは、強くなることを忘れてもいい。


 ダンは隣にいる仲間の気配を感じながら、いつもより時間をかけて剣を磨き続けた。

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