第44話◆ 間に合わなかったもの
ダンは階段を飛び下り、11階へ駆け込んだ。
着地と同時に《超嗅覚》が濃い血の匂いを捉え、《音響探査》が通路の奥で続く戦闘音を拾う。金属のぶつかる音に混じって、獣の唸り声と何かを引きずるような音が聞こえていた。
エルナたちの匂いは近い。
「エルナ!」
返事はない。
《疾走》を使って通路を駆け抜けると、床や壁に大量の血が飛び散っていた。落ちている盾には鋭い爪痕が刻まれ、その近くには魔石と黒い毛皮が転がっている。
魔物を倒した痕跡だ。
それでも、戦闘は終わっていない。
曲がり角の先から何かが叩きつけられる音が響き、ダンはさらに速度を上げた。
広い空間へ飛び込んだ瞬間、凄惨な光景が目に映った。
壁際に倒れているカイルの胸には、大きな穴が開いていた。折れた短剣を握ったまま動かず、見開かれた目にも光はない。
その少し先には、リナがうつ伏せに倒れている。カイルへ伸ばした右手が血に染まり、その首元には獣に噛み裂かれた跡が残っていた。
そして、部屋の奥ではエルナが壁に背を預けていた。
右肩は黒く焼け、左脚の防具は噛み砕かれている。脇腹の革鎧は大きく裂け、その下から流れ出した血が床へ広がっていた。
剣を手放してはいない。
だが、切っ先は床を擦り、身体を支えることさえできていなかった。
そんなエルナの前で、巨大な斧を持つ豚の頭をした魔物が腕を振り上げている。その後方には翼を持つ小柄な魔物が浮かび、さらに黒い豹のような魔物が3体、エルナを囲んでいた。
ダンは迫る魔物へ《鑑定》を使った。
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【種族:オークウォリアー】
【レベル:27】
【状態:戦闘】
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【種族:インプメイジ】
【レベル:24】
【状態:戦闘】
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【種族:シャドウパンサー】
【レベル:25】
【状態:戦闘】
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どれも初めて見る魔物だった。
普段のダンなら、どんなスキルを持っているのか確かめ、生かしたまま戦闘不能にする方法を考えただろう。吸血する順番を決め、それぞれからスキルを奪うことまで考えたはずだ。
だが今は、そんなものはどうでもよかった。
オークウォリアーが斧を振り下ろす。
ダンは床を蹴り、エルナとの間へ割って入った。片手剣を横から叩きつけると、巨大な戦斧が軌道を変え、石床へ深々と突き刺さる。
「間に合え!」
そのまま踏み込み、オークウォリアーの首を刎ねた。
緑色の巨体が光の粒へ変わるより先に、背後から黒い魔力弾が迫る。
《音響探査》が発射音を捉えていたダンは、振り向かずに身をかわし、左腕へ短剣で切り傷を作った。
傷口から伸びた血の触手が、空中に浮かぶインプメイジの胸を貫く。
吸血はしない。
スキルも奪わない。
触手を引き抜くと、インプメイジは床へ落ちる前に光となって消えた。
残ったシャドウパンサーが、左右と正面から同時に飛びかかってくる。獲物を逃がさないための連携なのか、1体がダンの上半身、もう1体が脚、最後の1体が傷ついたエルナを狙っていた。
ダンの目には、その動きがあまりにも遅く見えた。
エルナを狙った個体の前へ回り込み、下から片手剣を振り上げる。刃はシャドウパンサーの胸から首までを切り裂き、その身体を宙へ跳ね上げた。
脚を狙った個体は蹴り飛ばし、壁へ激突したところを血の触手で貫く。
最後の1体が牙を剥いて迫る。
ダンは半歩だけ身体をずらし、すれ違いざまに片手剣を振り抜いた。
シャドウパンサーの首が宙を舞った。
倒れた魔物が次々と光の粒へ変わり、あとには魔石や毛皮、武器などが残される。
これまでなら胸が躍っていたはずの光景だった。
けれどダンはドロップ品へ目を向けることなく、エルナの前へ膝をついた。
「エルナ、聞こえますか!」
「……ダン……?」
かすれた声が返ってきた。
エルナの瞳は焦点が合っておらず、呼吸をするたびに唇から血がこぼれている。脇腹の傷は深く、手で押さえていても出血が止まっていない。
ダンはエルナの首元へ指を当てた。
脈は弱く、次の鼓動までの間隔が長い。
「待っていてください。今、何か――」
言いかけたダンは、周囲へ目を走らせた。
傷薬なら持っている。
だが、これほど深い傷には役に立たない。
そのとき、倒れているリナの腰に小さなポーチが残っていることに気づいた。
治癒術士なら、回復薬を持っているかもしれない。
ダンはすぐにリナの元へ駆け寄り、腰のポーチを開いた。
中には小瓶が数本入っている。
回復薬だ。
「……借ります」
返事がないことを分かっていながら呟き、1本を掴んでエルナの元へ戻った。
蓋を開け、エルナの口元へ運ぶ。
少量ずつ流し込むと傷口が淡く光り、血の流れがわずかに弱まった。
それでも、傷が塞がることはない。
「リナ……を……先に……」
エルナの目が、倒れている仲間へ向く。
ダンは返事ができなかった。
エルナを横たえ、最初にカイルへ駆け寄る。
首元へ指を当てるまでもなく、《超嗅覚》はその身体から血が巡る匂いが消えていることを伝えていた。
それでも胸元へ耳を当て、鼓動を確かめる。
何も聞こえない。
リナも同じだった。
血はまだ温かい。
けれど心臓は動いておらず、息もしていない。
ダンの固有スキル《眷属化》は、死者には使えない。
どれだけ身体が温かくても、命が失われたあとでは遅い。
拳を強く握りしめてから、ダンはエルナの元へ戻った。
「2人は……?」
嘘をつくことはできなかった。
「……間に合いませんでした」
「そう……」
エルナの瞳から涙がこぼれ、血と埃で汚れた頬を伝った。
「私が……11階へ行くって……決めたから……」
「今は話さないでください」
「私の……せいで……」
「エルナのせいじゃありません!」
思わず声を強めたダンは、すぐに口を閉じた。
何が起きたのか、ダンにはまだ分からない。
それでも、散らばっている魔石や黒い毛皮を見る限り、3人は最後まで戦ったのだ。
エルナの指から力が抜け、剣が床へ落ちた。
脈を確かめると、先ほどよりさらに弱くなっている。呼吸も浅く、止まっている時間の方が長い。
迷っている猶予はなかった。
「エルナ。僕なら、助けられるかもしれません」
閉じかけていた瞳が、わずかに動いた。
「本当……?」
「ただし、普通の治療ではありません。助かったとしても、今までと同じ人間ではいられなくなります」
ダンは唇を噛んだ。
《眷属化》を使えば、エルナを生かせるかもしれない。
だが、その契約は解除できない。
命を助ける代わりに、エルナの自由を奪うことになる。
相手が死にかけている今、すべてを説明したとしても、本当に自由な意思による選択と呼べるのか分からなかった。
それでも、黙って眷属にすることだけはできない。
「僕は……人間ではありません」
エルナの目を見ながら、ダンは初めて自分の正体を口にした。
「人間とヴァンパイアの混血、ダンピールです」
エルナの表情に驚きが浮かぶ。
しかし、声を出すだけの力は残っていなかった。
「僕の血を分けることで、生きている人間を眷属として生まれ変わらせることができます。心臓が動いている限り、今の傷も治せるかもしれません」
「眷属……」
「種族が変わり、レベルも1に戻ります。ただ、記憶や人格まで消えるわけではありません。エルナはエルナのままです」
そこまで説明し、ダンは一度言葉を止めた。
都合のいい部分だけを話してはいけない。
「でも、契約は絶対に解除できません。眷属になれば、僕を主人として絶対に裏切れなくなり、僕の命令にも逆らえなくなります。僕やダンピールに関する秘密も、誰かに話せなくなります」
エルナの呼吸が止まる。
ダンは青ざめ、首元へ指を当てた。
数秒後、かすかな鼓動が返ってくる。
「僕は、エルナへ無理な命令をするつもりはありません。今までどおりでいてほしいと思っています。でも、僕がそう思っていても、契約そのものは消せません」
エルナがわずかに唇を動かした。
声が出ていない。
ダンは顔を近づけ、その言葉を聞き取ろうとした。
「……助かったら……ダンの……奴隷になるってこと……?」
「奴隷ではありません。でも、命令に逆らえない以上、違うとも言い切れません」
ここで綺麗な言葉へ置き換えることはできなかった。
「だから、僕には決められません。エルナが選んでください」
エルナは苦しそうに息を吸い、倒れているカイルとリナへ目を向けた。
2人の姿を見つめたまま、涙を流す。
「私……死ぬの……怖い……」
「はい」
「でも……2人を置いて……自分だけ……」
「エルナまで死んでも、2人は喜ばないと思います」
「そんなの……分からないでしょう……」
「分かりません。僕は2人と、ほとんど話したこともありませんから」
ダンはエルナの血に濡れた手を握った。
「でも、エルナには生きてほしいです。これは僕の勝手な願いです」
握った手から、わずかに力が返ってきた。
エルナは目を閉じたまま、何度か途切れそうになる呼吸を繰り返す。
ダンには、残された時間の中で答えを探しているように見えた。
「ダンは……私に……何をさせたいの?」
「何もさせたくありません。これまでと同じように、自分で決めて生きてほしいです」
「命令には……逆らえないのに?」
「だから僕は、エルナの生き方を決めるような命令はしません」
エルナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「ダンらしい……答えね……」
再び長い沈黙が訪れる。
脈が、さらに弱くなる。
「エルナ、もう時間がありません」
「分かってる……」
エルナは残された力を振り絞り、薄く目を開いた。
焦点の合わない瞳が、それでもまっすぐダンへ向けられる。
「私の意思で……ダンの眷属になります」
その言葉が響いた直後、ダンの前へ半透明の文字が現れた。
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対象者から明確な同意を確認しました。
エルナを眷属化しますか?
契約成立後の解除は不可能です。
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震えるエルナの手が、ダンの指を握っている。
ダンは最後にもう一度、その瞳を見つめた。
「絶対に、後悔させません」
表示された問いに意識を向ける。
――はい。
ダンは短剣で自分の手首を切り、流れ出した血をエルナの唇へ落とした。
「《眷属化》」
固有スキルを発動した瞬間、エルナの身体が深紅の光に包まれた。
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