第40話◆ 空を蹴る
閉ざされた《星読みの小箱》をあとにしたダンは、再び青石の迷宮へ入った。
向かったのは、ポイズンフロッグが生息する5階だ。
《嗅覚強化》と《音響察知》は、Lv10へ到達したことで《超嗅覚》と《音響探査》へ進化した。ならば、現在Lv7になっている《跳躍》と《麻痺毒》にも、その先があるはずだ。
ただし、2つのスキルは同じLv7でも進み具合が違う。
《跳躍》はすでに34/128まで進んでいるが、《麻痺毒》は0/128。
両方をLv10まで上げるために必要となるポイズンフロッグは896体だった。
ケイブマウスとケイブバットを大量に狩った直後で、身体には確かな疲れが残っている。それでも、新しいスキルへ進化する瞬間を想像すると、足を止める気にはなれなかった。
5階へ降りると、《超嗅覚》が湿った苔と水の匂いに混じるポイズンフロッグの体臭を捉えた。同時に《音響探査》が、通路の奥で何かが床を蹴った音を拾う。
音の反響から、相手の位置だけでなく、おおよその姿勢まで頭の中へ浮かび上がった。
距離は20歩ほど。
数は4体。
そのうち1体が、こちらへ向かって跳んでくる。
ダンが身体を横へずらした直後、紫色の毒液が先ほどまで立っていた場所へ飛んできた。
「見えなくても分かりますね」
曲がり角の向こうにいるため、まだ姿は見えていない。それでも《超嗅覚》と《音響探査》を組み合わせれば、相手の位置や動きを把握できる。
ダンは床を蹴り、曲がり角へ飛び込んだ。
そこには4体のポイズンフロッグがいた。
最初の1体が口を開くより早く、その横を通り抜けながら後ろ脚を斬る。着地と同時に剣を返し、続けて跳びかかってきた2体目の腹部を剣の腹で打ち据えた。
残る2体が左右へ分かれたが、どちらを先に狙うか迷う必要はない。
右側の個体が床を蹴った音を聞き、振り返らないまま身を沈める。頭上を越えていったところで後ろ脚を掴み、そのまま床へ叩きつけた。
最後の1体が吐いた毒液は左腕にかかったものの、《毒耐性Lv7》のおかげか、痺れはほとんど感じなかった。
「ここまで上げると、この毒はあまり効かないみたいですね」
ダンは毒液を振り払い、最後の1体も立てなくする。
4体へ順番に触手を刺し、必要な量の血を吸って《跳躍》と《麻痺毒》を奪う。すべてのスキルを奪い終えたら触手を抜き、それから首を斬ってとどめを刺した。
4体の身体は光の粒となって消え、代わりに魔石と毒袋が残される。
ダンはドロップ品を中型のマジックバッグへ収め、次の匂いを探した。
2階や4階と違い、5階まで来る駆け出しはそれほど多くない。人目を避けながら狩る必要も少なく、ダンは通路を進んではポイズンフロッグを無力化し、血を吸い続けた。
そして今回94体目。
【《跳躍》を重複強奪しました】
【《跳躍Lv7》が《跳躍Lv8》へ上昇しました】
【強奪数がリセットされました】
【次のレベルまで:0/256】
少し遅れて、128体目。
【《麻痺毒》を重複強奪しました】
【《麻痺毒Lv7》が《麻痺毒Lv8》へ上昇しました】
【強奪数がリセットされました】
【次のレベルまで:0/256】
「やっぱり、《跳躍》の方が先ですね」
これまでに積み重ねていた34体分の差が、そのまま残っている。
《跳躍》のレベルが上がると、床を蹴った際の勢いがさらに強くなった。少し力を入れただけで、身体が想像以上に高く浮き上がってしまう。
最初は天井近くまで跳びすぎて慌てたが、何度も使ううちに力加減が分かってくる。高く跳ぶだけでなく、前方へ低く飛び出したり、着地の直前に身体を捻ったりと、戦い方に合わせた使い分けもできるようになった。
《麻痺毒》も強くなっていた。
腕に小さな傷をつけ、血を剣へ薄くまとわせてからポイズンフロッグの後ろ脚を斬る。浅い傷しかつけていないにもかかわらず、数秒後には脚の動きが鈍り、その場から跳べなくなった。
ダンは血を吸い、とどめを刺し、ドロップ品を回収する作業を繰り返した。
時間の感覚は次第に薄れていった。
腹が減れば硬いパンをかじり、喉が渇けば水を飲む。血を吸っているため食事をしなくても身体は動くが、食べるという人間の習慣まで捨てる気にはなれなかった。
身体が重くなれば、通路の壁際へ座って休む。
眠気はない。
だが、身体の疲労まで消えるわけではない。
腕や脚の重さが抜けるまで休み、再び動けるようになってから狩りを続けた。
マジックバッグがいっぱいになれば、一度地上へ戻る。冒険者ギルドで素材を換金し、空になったバッグを持って、また5階へ戻った。
途中、《星読みの小箱》が開いている時間に街へ戻ったこともあった。
通りを少し進めば店へ行ける。
所持金も十分にある。
今なら金貨5枚を支払っても、まだかなりの金額が残る。
それでもダンは、青石の迷宮へ続く道と店のある方角を見比べた末、迷宮の方へ身体を向けてしまった。
「……あと少しだけ狩ってからにしましょう」
自分でも、何度目の「あと少し」なのか分からなかった。
《隠蔽》のスキル書は必要だ。
必要だと分かっている。
だが、Lv10の先に何があるのかを知ってしまった今、その答えを目前にして狩りを止める方が難しかった。
今回350体目。
【《跳躍》を重複強奪しました】
【《跳躍Lv8》が《跳躍Lv9》へ上昇しました】
【強奪数がリセットされました】
【次のレベルまで:0/512】
そして384体目。
【《麻痺毒》を重複強奪しました】
【《麻痺毒Lv8》が《麻痺毒Lv9》へ上昇しました】
【強奪数がリセットされました】
【次のレベルまで:0/512】
ここから《麻痺毒》がLv10へ到達するまで、残り512体。
数字だけなら気が遠くなるほど多い。
それでも、《超嗅覚》で群れの位置を探し、《音響探査》で曲がり角の先まで確認できるため、魔物を探す時間は以前より大きく減っている。
剣を使わなくても、飛んできたポイズンフロッグの軌道を読み、脚だけを蹴って床へ落とせるようになった。
複数に囲まれても、背後から吐かれた毒液の音を聞き分け、振り返らずに避けられる。
狩りを続けるほど、進化した2つのスキルが身体へ馴染んでいった。
昼と夜が何度入れ替わったのかは、迷宮の中からでは分からなかった。
地上へ戻ったときに確認した日付から考えれば、エルナたちと食事をしてから、おそらく4日ほどが過ぎている。
その間、エルナたちは10階へ挑戦しているはずだ。
彼女たちが先へ進んでいることを考えても、焦りは感じなかった。
ダンは誰かと競争しているわけではない。
今は目の前のスキルがどのように進化するのか、それを知ることの方が楽しかった。
そして今回862体目。
ポイズンフロッグから血を吸い、《跳躍》を奪った瞬間、待ち望んでいた表示が現れた。
【《跳躍》を重複強奪しました】
【《跳躍Lv9》が《跳躍Lv10》へ上昇しました】
【強奪数がリセットされました】
【《跳躍》が最大レベルへ到達しました】
【進化条件を満たしました】
【《跳躍》が《空歩Lv1》へ進化しました】
「来ました」
ダンの顔に笑みが浮かぶ。
すぐに試したい。
だが、まだ終わっていない。
《麻痺毒》がLv10へ到達するまで、あと34体残っている。
「先に終わらせましょう」
ダンは気持ちを抑え、次のポイズンフロッグを探した。
そして863体目。
《麻痺毒》を奪ったあと、進化したばかりの《空歩》を育てたらどうなるのか気になり、《跳躍》も奪ってみる。
すると、《空歩》へ僅かな成長が加わった。
以前確認したとおり、進化前の下位スキルはLv1につき0.1の成長値へ変換されるらしい。
「ちゃんと増えていますね」
仕組みが確認できれば十分だった。
今は《空歩》をさらに育てるより、《麻痺毒》をLv10まで上げることを優先する。
それ以降は《跳躍》を奪わず、《麻痺毒》だけを強奪していった。
そして896体目。
黒に近い緑色の身体に黄色い斑点を持つポイズンフロッグが、低く鳴きながら喉を膨らませた。
吐き出された毒液を横へ跳んで避け、着地と同時に間合いを詰める。前脚の脇をすり抜けながら後ろ脚を斬り、跳べなくなったところへ触手を伸ばした。
血を吸い、《麻痺毒》へ《スキル強奪》を使う。
【《麻痺毒》を重複強奪しました】
【《麻痺毒Lv9》が《麻痺毒Lv10》へ上昇しました】
【強奪数がリセットされました】
【《麻痺毒》が最大レベルへ到達しました】
【進化条件を満たしました】
【《麻痺毒》が《神経毒Lv1》へ進化しました】
「2つとも進化しました」
ダンはポイズンフロッグから触手を抜いた。
普段ならここでとどめを刺すところだが、動けなくなっている最後の1体を見て手を止める。
まず試したいのは《空歩》だ。
周囲に誰もいないことを《超嗅覚》と《音響探査》で確かめる。
能力へ意識を向けると、使い方が自然と頭へ浮かんできた。
ダンは床を蹴り、通路の天井近くまで跳び上がった。
これまでなら上昇の勢いがなくなれば、そのまま落下するしかない。
しかし今は、空中に見えない足場があるように感じられた。
右足へ力を込める。
何もない空間を蹴ったはずなのに、足裏へ確かな感触が返ってきた。
ダンの身体が空中で鋭く方向を変え、横の壁へ向かって飛ぶ。
「うわっ」
想像以上の勢いに驚きながらも、壁へぶつかる前に身体を捻り、床へ着地した。
《空歩Lv1》で空中を蹴れるのは、着地するまでに1度だけ。
それでも、跳躍中に方向を変えられるだけで、空中での戦い方は大きく変わる。
「これは面白いですね」
もう1度跳び上がり、今度は天井へ向かって空気を蹴る。
足裏へ返ってきた感触を利用して身体の向きを変え、急降下するように床へ向かう。着地の直前に身体を丸めて衝撃を逃がした。
何度か試したあと、ダンはまだ動けずにいる896体目のポイズンフロッグへ視線を戻した。
次は《神経毒》だ。
腕から流した血を剣へ薄くまとわせ、先ほどとは反対側の後ろ脚へ浅い傷をつける。
ポイズンフロッグは身体を動かそうとしたが、すぐに全身を大きく震わせた。
脚だけではない。
身体全体から力が抜け、その場へ崩れ落ちる。
《麻痺毒》より効き始めるまでの時間が短く、麻痺が広がる範囲も明らかに大きい。
強力な分、人に使えば命を奪う可能性もある。
「使う量には気をつけないといけませんね」
ダンは自分へ言い聞かせるように呟いた。
《空歩》も《神経毒》も、Lv1の時点で進化前とは使い方そのものが変わっている。
さらに育てれば、どこまで変わるのだろう。
興味は尽きなかったが、今はこれで十分だ。
ダンは最後のポイズンフロッグへとどめを刺した。
身体が光の粒となって消え、残された魔石と毒袋を拾ってマジックバッグへ収める。
これで896体。
ダンは地上へ戻った。
今回狩ったポイズンフロッグは896体。
途中で何度も換金しているため、最後に持ち帰った素材はそれほど多くない。
魔石と毒袋の買取は1体分につき銀貨2枚。
896体分で銀貨1792枚になる。
さらに常設討伐依頼は5体につき銀貨3枚。179口分で銀貨537枚となり、端数の1体は素材の買取のみだ。
今回の収入は合わせて銀貨2329枚。
金貨23枚と銀貨29枚になった。
第39話終了時点での所持金は、金貨22枚、銀貨80枚、銅貨54枚。
そこへ今回の収入を加えると――
金貨46枚、銀貨9枚、銅貨54枚。
金貨5枚のスキル書が高いと感じていた頃からは、想像もできない金額だった。
受付にいたエマは、最後の買い取りを終えると、書類から顔を上げた。
「ダンさん」
「はい?」
「ここ数日で、いったい何体の魔物を倒したんですか?」
ダンは頭の中で数を足した。
ケイブマウスが881体。
ケイブバットが768体。
ポイズンフロッグが896体。
「2545体です」
エマはしばらく無言でダンを見つめた。
「どうして即答できるんですか?」
「数えながら狩っていますから」
「そういう問題ではありません」
エマは深く息を吐いた。
何度も大量の素材を持ち込んでいるため、最初の頃ほど驚かなくなっている。それでも、合計数を聞けば呆れずにはいられないらしい。
ダンは報酬の入った袋を受け取ると、今度こそと拳を握った。
「今日は《隠蔽》を買います」
「何度か同じことを聞いた気がしますけど」
「今回は本当です」
「そうですか」
エマの返事には、僅かに疑いが混じっていた。
ダンはギルドを出ると、《星読みの小箱》へ急いだ。
しかし、店へ到着したときには通りの明かりも消え、扉には見慣れ始めた錠が下りていた。
「……またですか」
閉ざされた扉を見つめる。
金は十分にある。
店が開いている時間に地上へ戻ったこともあった。
それなのに、自分から狩りを優先し続けた結果がこれだった。
「完全に僕が悪いですね……」
明日の朝まで待てば、確実に店は開く。
今度こそ宿へ戻り、身体を休めながら朝を待つべきだろう。
そう思ったところで、ダンの頭に9階のことが浮かんだ。
次に向かう9階には、ダンジョンウルフがいる。
エルナたちから聞いた話では、群れで獲物を追い詰める素早い魔物らしい。
今手に入れた《超嗅覚》。
《音響探査》。
そして《空歩》。
それらを実戦で使えば、どんな戦い方ができるのだろう。
ダンは閉ざされた扉から視線を外し、青石の迷宮がある方角を見る。
「……9階を少し見るだけなら」
口にした瞬間、自分でも同じことを何度繰り返しているのか分かった。
少しだけのつもりで入り、気づけば何百体も狩っている。
「でも、本当に見るだけです」
誰に言い訳しているのか分からないまま、ダンは《星読みの小箱》へ小さく頭を下げた。
「《隠蔽》は、今度こそ次にします」
そう言い残し、ダンは9階で待つ新しい魔物を想像しながら、再び青石の迷宮へ向かって歩き出した。




