第36話◆ 天井からの毒牙
硬い爪が石を引っかく音は、8階へ続く階段の先から聞こえていた。
それも床ではない。頭上のどこかを、ゆっくりと移動している。
ダンは片手剣を抜き、音を立てないように階段を下りた。
8階は、7階までとは空気が違っていた。湿気を含んだ冷たい空気が肌にまとわりつき、石壁には黒ずんだ苔が広がっている。天井も高く、淡い光を放つ魔石灯の明かりだけでは隅まで見通すことができない。
《夜目Lv1》と《視力強化Lv8》を意識して目を凝らす。
天井には、何もいないように見えた。
しかし、《音響察知Lv8》は爪が石へ触れる微かな音を捉えている。《嗅覚強化Lv7》にも、湿った苔の匂いに混じって、爬虫類に似た生臭い匂いが届いていた。
「いるはずなんだけど……」
ダンは階段を下りきり、通路の中央で立ち止まった。
その瞬間、頭上の音が消えた。
嫌な予感がして、反射的に横へ跳ぶ。
直後、先ほどまで立っていた場所へ暗緑色の塊が落下した。鋭い爪が石床を引っかき、大きな口から2本の牙が覗いている。
体長は尾まで含めれば1.5メートルほど。低い姿勢で床へ張りつき、黄色い目でダンを見上げていた。全身を覆う暗緑色の鱗が苔の生えた石壁とよく似ているため、動きを止めると輪郭を見分けにくい。
「鑑定」
【種族:ポイズンリザード】
【レベル:17】
【状態:警戒】
ポイズンリザードが床を蹴った。
低い姿勢から一気に加速し、ダンの脚へ噛みつこうとする。口の端から滴った毒液が石床へ落ち、薄い煙を上げた。
ダンは半歩下がって牙を避け、片手剣を振り下ろす。
刃が背中へ当たった瞬間、硬い音が通路に響いた。
「硬い!」
斬ったというより、石を叩いたような手応えだった。
剣は鱗に弾かれ、右手首へ痺れが走る。ポイズンリザードの背中には、薄い傷さえついていない。
その隙を逃さず、太い尾が横から振るわれた。
ダンは腕で胸元を庇ったが、尾の一撃を受けて数歩後ろへ押し戻される。革鎧のおかげで痛みは少ないものの、体格から想像していた以上に力が強い。
体勢を立て直した直後、別の方向から爪音が聞こえた。
右の壁に1体。
左奥の天井には、もう1体いる。
「3体……」
最初から群れで待ち伏せていたらしい。
壁にいた個体が飛びかかり、続いて天井の個体も口を開く。ダンは《跳躍Lv7》で後方へ跳び、2体の間を抜けた。
牙が空を噛み、互いの身体が石床へぶつかる。
3体のポイズンリザードはすぐに向きを変えた。硬い鱗を持つだけでなく、反応も速い。ダンの動きを黄色い目で追い、左右へ分かれて包囲しようとする。
背中の鱗へ剣を振っても通らない。
ダンは攻撃を避けながら、ポイズンリザードの身体を観察した。
脚の付け根。
腹部。
口の中。
どの部分も、背中ほど厚い鱗には覆われていない。
「狙うなら、あそこだ」
正面の1体が口を開き、飛びかかってくる。
ダンは横へ避けるのではなく、相手へ向かって踏み込んだ。噛みつかれる寸前に身体を沈め、片手剣を下から斜めに振り上げる。
刃が前脚の付け根へ食い込んだ。
ポイズンリザードの身体が空中で傾き、石床へ横向きに落ちる。そのまま後ろ脚の関節も斬ると、起き上がろうとしても身体を支えられなくなった。
残る2体が左右から迫る。
ダンは1体目を跳び越え、壁を蹴った。《跳躍Lv7》によって身体の向きを空中で変え、右から迫っていた個体の背後へ着地する。
剣を低く払い、後ろ脚の付け根を斬る。
怒ったポイズンリザードが振り返ろうとするが、傷ついた脚では身体の向きを変えられない。
3体目が尾を振り回した。
《音響察知》が尾の鱗で風を切る音を捉え、ダンは上体を反らす。目の前を太い尾が通過した直後、その根元へ片手剣を叩き込んだ。
背中よりも鱗が薄く、刃が肉まで届く。
さらに前脚を斬り、3体目も立てなくした。
ダンは距離を取り、周囲へ意識を広げる。
聞こえるのは、床でもがく3体分の爪音だけだ。ほかの魔物や冒険者が近づいてくる気配はない。
「背中以外なら、斬れる」
初めて戦う相手だったが、弱点が分かれば対応できる。
ダンは左腕へ浅く刃を入れ、傷口から血の触手を伸ばした。
最初に脚を斬ったポイズンリザードの腹部へ、触手の先端を突き刺す。背中の鱗を避ければ、問題なく血を吸えるようだ。
《吸血Lv4》によって、必要な量は約30%まで減っている。
必要な量を吸い上げると、《スキル強奪》が発動した。
【スキル《防御強化Lv1》を獲得しました】
【スキル《反射神経強化Lv1》を獲得しました】
【スキル《毒耐性Lv1》を獲得しました】
「一度に3つ……」
ダンは思わず目を見開いた。
新しく取得した《防御強化Lv1》《反射神経強化Lv1》《毒耐性Lv1》は、どれも次のLv2までに2回の重複強奪が必要になる。
どれも使いやすそうなスキルだった。
背中の鱗へ剣が通らなかったのは、《防御強化》の影響もあるのかもしれない。先ほどから動きへの反応が妙に速かったのも、《反射神経強化》を持っていたからだろうか。
そして《毒耐性》。
口から毒を滴らせている魔物が持っていることを考えれば、納得できる。
戦っている最中に感じていた特徴と、奪ったスキルがつながっていく。
ダンは血の触手を抜き、片手剣で1体目へとどめを刺した。身体が光の粒へ変わり、魔石、毒腺、暗緑色の鱗皮を残して消える。
続いて、2体目から吸血しようと近づいた。
脚を斬られて動けないはずのポイズンリザードが、突然首を伸ばす。
「うわっ!」
ダンは腕を引こうとしたが、完全には間に合わなかった。
2本の牙が革の籠手をかすめ、その隙間から左の前腕へ食い込む。
新しく得た《反射神経強化》によって深く噛まれる前に腕を引けたものの、皮膚には小さな穴が開いていた。
《超再生》によって傷口はすぐに塞がる。
しかし、流れ込んだ毒までは消えなかった。
前腕から指先へ、冷たい痺れが広がっていく。
「傷が治っても、毒は残るんだ……」
これまで《超再生》があれば、大抵の傷は問題にならなかった。だが、身体へ入り込んだ毒は傷とは別らしい。
ダンは左手を握った。
指は動く。
痺れはあるものの、腕が使えなくなるほどではない。
《状態異常耐性Lv1》に加え、先ほど獲得した《毒耐性Lv1》も働いているのかもしれない。もし《毒耐性》を得る前に深く噛まれていれば、違う結果になっていた可能性もある。
「危なかった……。動けなくても、口は動くよね」
当たり前のことだが、ゴブリンやコボルトとは身体の作りが違う。
脚を斬っただけで安全だと思い込んだのは失敗だった。
ダンはポイズンリザードの頭が届かない背後へ回り、腹部から血を吸い上げた。
2体目からも《防御強化》《反射神経強化》《毒耐性》を重複強奪する。
これで、3つのスキルはそれぞれ1/2となった。
必要なスキルを奪い、血の触手を抜いてからとどめを刺す。
最後の1体には、血の触手から《麻痺毒》を流そうとした。
しかし、すぐには効かなかった。
先ほど奪った《毒耐性》と同じスキルを持っているのなら、ポイズンフロッグやゴブリンアーチャーのようにはいかないのかもしれない。
量を増やすと動きが鈍くなったものの、完全には止まらなかった。
「同じ毒でも、効きにくいんだ」
新しい発見を頭へ刻み、噛みつかれない位置から吸血する。
3体目からも《防御強化》《反射神経強化》《毒耐性》を奪ったところで、それぞれの強奪数が必要値へ到達した。
【《防御強化》を重複強奪しました】
【《防御強化Lv1》が《防御強化Lv2》へ上昇しました】
【強奪数がリセットされました】
【次のレベルまで:0/4】
【《反射神経強化》を重複強奪しました】
【《反射神経強化Lv1》が《反射神経強化Lv2》へ上昇しました】
【強奪数がリセットされました】
【次のレベルまで:0/4】
【《毒耐性》を重複強奪しました】
【《毒耐性Lv1》が《毒耐性Lv2》へ上昇しました】
【強奪数がリセットされました】
【次のレベルまで:0/4】
ダンは血の触手を身体へ戻した。
腕に残っていた痺れが、少しずつ薄れていく。《毒耐性》がLv2へ上がったことで、影響が弱まったのかもしれない。
続いて《防御強化》を意識する。
身体の表面を薄い膜が覆うような感覚が広がった。外見には変化がなく、鱗が生えることもない。それでも、自分の腕を指で押すと、いつもより硬くなっているように感じる。
《反射神経強化》も、すぐに効果を実感できた。
床へ落ちた小石を軽く蹴り上げ、左手を伸ばす。以前なら目で追ってから掴んでいたはずだが、今は考えるより先に指が動き、落ちる前に受け止めていた。
「音で分かって、目で見えて、身体もすぐ動く」
《音響察知》と《視力強化》に、《反射神経強化》が加わった。
相手の攻撃を察知できても、身体が間に合わなければ避けられない。そのわずかな遅れを、新しいスキルが埋めてくれる。
ダンは3体目へとどめを刺し、残されたドロップ品を確認した。
魔石が3個。
毒腺が3個。
鱗皮が3枚。
さらに3体目からは、濃い紫色をした毒牙が1本ドロップしていた。
すべてを中型マジックバッグへ入れる。
ゴブリンアーチャー96体分の素材が入っていても、まだ十分な余裕が残っている。
次のポイズンリザードを探そうとしたとき、通路の奥から人の声が聞こえた。
ダンは左腕の傷が完全に消えていることを確認し、片手剣を握ったまま待つ。
やがて、3人の冒険者が姿を現した。
先頭を歩いていた赤髪の女性が、ダンを見て目を見開く。
「ダン?」
「エルナ。お疲れさまです」
エルナの後ろには、斥候のカイルと治癒役のリナがいた。装備に汚れはあるものの、3人とも大きな怪我はしていない。
「あなた、どうして8階にいるの?」
「今日、初めて来ました」
「初めてって……1人で?」
「はい。さっきポイズンリザードを3体倒したところです」
エルナがダンの足元に残された爪痕と、すでに回収されたドロップ品の跡へ目を向ける。
「3体を1人で倒したの?」
「背中は硬かったんですが、脚の付け根なら剣が通りました。音で居場所も分かったので、なんとか」
「なんとか、ね……」
エルナはダンの顔を見つめた。
以前に声をかけたとき、ダンはまだ6階を主な狩り場にしていた。それから、それほど長い時間は経っていない。
そのダンが、もう8階へ到達している。
横にいたカイルが、軽い調子で笑った。
「もう俺たちに追いついたな」
その瞬間、エルナの表情がわずかに硬くなった。
ほんの一瞬だったため、カイルもリナも気づいていないようだ。
ダンも何か気に障ることを言ったのかと思ったが、すぐにエルナは普段どおりの笑顔へ戻った。
「私たちは9階から戻ってきたところよ。あそこにはダンジョンウルフが出るわ」
「どんな魔物ですか?」
「1体ずつなら、それほどでもない。でも、必ず群れで動くの。仲間同士で連携して、前後から挟んでくるわ」
「何体くらいで現れるんですか?」
「少なくて4体、多ければ8体以上。倒れたふりをして注意を引く個体までいるから、8階までとは戦い方が変わるわ」
ダンは興味深く話を聞いた。
新しい魔物の特徴を知ることも楽しいが、誰かと会話しながら情報を教えてもらえることが嬉しかった。
「エルナたちは、これから地上へ戻るんですか?」
「ええ。今日は戻るわ」
「次も9階ですか?」
エルナはすぐには答えなかった。
カイルとリナへ目を向けてから、腰の剣へ手を添える。
「いいえ。私たちも、そろそろ10階を目指そうと思っているの」
「もう10階へ行くの?」
リナが驚いた声を上げた。
「9階では何度も狩っているでしょう。私たちなら行けるわ」
「でも、もう少しダンジョンウルフとの連携に慣れてからでも……」
「いつまでも同じ場所にいたら、強くなれないわよ」
エルナの声は穏やかだったが、決定を変えるつもりはなさそうだった。
カイルが困ったように肩をすくめる。
「まあ、入口だけ見て危なそうなら戻ればいいだろ」
「そうですね。それなら……」
リナも不安そうにしながら頷いた。
ダンは3人のやり取りを見ながら、自分も早く9階へ行ってみたいと思った。
ただ、今はポイズンリザードから得たばかりのスキルを上げる方が先だ。
「気をつけてください」
「あなたに言われるとは思わなかったわ」
エルナは苦笑し、ダンの肩にある中型マジックバッグへ目を向けた。
「それ、新しく買ったの?」
「はい。中型です。たくさん入るんですよ」
「本当に楽しそうね」
「楽しいです」
迷わず答えると、エルナは眩しいものを見るように目を細めた。
「それじゃあ、またね。無理をして9階へ来たら駄目よ」
「はい。まずは8階で狩ります」
エルナたちは7階へ続く階段へ向かって歩き出した。
3人の姿が角の向こうへ消えたあとも、《音響察知》には小さな話し声が届いていた。
「本当に次は10階へ行くのか?」
「行くわ。あの子だって、もう8階まで来ているのよ」
「ダンと張り合う必要はないでしょう?」
「張り合ってなんかいない。ただ、私たちも先へ進めると思っただけよ」
声が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
ダンは、エルナがなぜ急に10階へ行こうとしたのか分からず、少しだけ首を傾げた。
それでも、他人のパーティーへ口を出せるほど、自分は冒険者について詳しくない。
エルナたちは自分より長く迷宮で戦っているのだから、きっと考えがあるのだろう。
ダンは気持ちを切り替え、8階の暗い天井へ耳を澄ませた。
少し離れた場所から、複数の爪音が聞こえる。
《防御強化》。
《反射神経強化》。
《毒耐性》。
どれも、この先へ進むために役立つスキルだった。
「もう少し、ここで狩っていこう」
ダンは新たな爪音の方向へ、片手剣を構えながら歩き出した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
物語の感想や印象に残った場面など、ひと言でもいただけると今後の執筆の励みになります。




