第30話◆ 念願の隠蔽
青石の迷宮を出た頃には、空が薄く白み始めていた。
街はまだ眠りから覚めきっておらず、石畳を歩く人の姿もまばらだった。夜通し営業している酒場から酔客の笑い声が漏れているものの、商店の扉は固く閉ざされている。
冒険者ギルドも、まだ開いていない。
ダンは宿へ戻ることも考えたが、今から部屋へ戻ったところで眠るわけではない。マジックバッグには192体分のケイブバット素材が詰まっており、できるだけ早く中身を空けてしまいたかった。
「先に朝ご飯を食べようかな」
吸血によって身体は満たされているため、空腹で動けないわけではない。それでも、焼きたてのパンや温かいスープを口にしたいという気持ちは残っている。
ダンは早朝から営業している屋台を見つけ、銅貨15枚を払い、焼いた腸詰めを挟んだパンと野菜のスープを買った。近くの長椅子へ腰を下ろし、湯気の立つスープを少しずつ飲む。
塩気のある温かな味が口の中へ広がり、思わず頬が緩んだ。
「やっぱり、食事はいいな……」
病院にいた頃は、食べられるものも量も限られていた。食欲があっても検査前だからと食事を止められたり、体調が悪ければ点滴だけで1日を過ごしたりすることも珍しくなかった。
今の身体なら、何を食べても胸が苦しくならない。自分の足で好きな店を探し、食べたいものを選べる。
それだけでも、この世界へ来たことが嬉しく感じられた。
朝食を終えたダンが冒険者ギルドの前へ戻ると、ちょうど職員が入口の扉を開けているところだった。掲示板へ依頼票を貼る職員や、受付台の準備をする職員の間を抜け、いつもの受付へ向かう。
「おはようございます、エマさん」
「あら、ダンさん。おはようございます」
エマは笑顔で応じたあと、ダンの装備へ視線を走らせた。
「また迷宮帰りですか?」
「はい。マジックバッグがいっぱいになってきたので、買取をお願いしたくて」
「いっぱい……」
その言葉を聞いたエマの笑顔が、わずかに引きつる。
以前、ダンが90体分ものコボルト素材を持ち込んだことを思い出したのだろう。受付の周囲にいた冒険者たちも、聞き覚えのある声に反応してこちらを見ている。
「今回は何を狩ってきたんですか?」
「ケイブバットです」
「ケイブバットなら、それほど大きな素材ではありませんね。何体分でしょう?」
「192体です」
エマの動きが止まった。
近くで依頼票を眺めていた冒険者も振り返り、受付の端で朝から酒を飲んでいた男は、口に含んだ酒を慌てて飲み込んだ。
「……今、192体と聞こえたのですが」
「はい。かなり狩りました」
「かなりという言葉で片づけていい数ではないと思います」
「でも、コボルトより弱いですし、飛ぶ方向も音で分かるようになったので、途中からはかなり楽になりました」
エマは何かを言おうとして口を開いたが、結局言葉が見つからなかったらしく、小さく息を吐いた。
「ひとまず、買取所へ行きましょう。ここで出されたら受付が埋まってしまいます」
「分かりました」
ダンはエマのあとを追いながら、周囲から向けられる視線を感じていた。
以前は青白い肌や顔立ちのせいで見られることが多かった。今はそれに加え、持ち込む素材の量でも注目されるようになっている。
目立ちたいわけではないが、冒険者として成果を出せていることは素直に嬉しかった。
買取所の奥にある作業台へ到着すると、エマが職員を2人呼び、空の木箱をいくつも用意させた。
「それでは、少しずつ出してください」
「はい」
ダンはマジックバッグへ手を入れ、最初のケイブバット素材を取り出した。
魔石、翼膜、牙。
それらを種類ごとに分け、木箱へ入れていく。10体、20体と増えるうちは職員たちも黙々と数えていたが、50体を超えた頃から作業台だけでは置ききれなくなった。
追加の木箱が運ばれ、床へ並べられていく。
「まだありますか?」
「まだ4分の3くらいです」
「今ので4分の1……」
職員が遠い目をした。
ダンは少し申し訳なく思いながらも、素材を取り出し続けた。
やがて最後の牙を木箱へ入れると、買取所の一角がケイブバットの素材で埋め尽くされていた。魔石が192個、翼膜が192組、牙が384本。数を確認した職員が帳簿へ記録し、別の職員が素材の状態を調べていく。
ダンジョンの魔物が残すドロップ品は、倒し方によって傷つくことがない。今回もすべて問題なく買い取ってもらえるようだ。
なお、7階で倒したゴブリンアーチャー3体分の魔石や弓弦、矢、それに使い込まれた短弓は、今回はマジックバッグへ残してある。短弓は《弓術》の練習にも使いたかった。
「確認が終わりました」
エマが帳簿を見ながら、金額を読み上げる。
「ケイブバット1体分の素材は、魔石、翼膜1組、牙2本を合わせて銀貨1枚です。192体分で銀貨192枚になります」
「はい」
「それから常設討伐依頼が8体につき銀貨4枚です。今回は24回分達成していますので、こちらが銀貨96枚。合計は銀貨288枚です」
金貨に換算すれば、金貨2枚と銀貨88枚。
ケイブバットは1体あたりの報酬こそコボルトより少ないが、これだけの数を狩れば大金になる。
「お願いします」
「すぐに用意します。ところで、ゴブリンアーチャーとは戦わなかったのですか?」
「少しだけ戦いました。3体です」
「無事に倒せたんですね」
「はい。でも、3体に別々の方向から矢を撃たれて、1本だけ鎧をかすめました」
ダンが脇腹の傷を見せると、エマの表情が引き締まった。
「負傷はありませんでしたか?」
「鎧が受け流してくれました。買っておいてよかったです」
「本当にそうですね。ゴブリンアーチャーは接近されると弱い魔物ですが、複数を相手にすると危険です。十分に注意してください」
「はい。気をつけます」
ダンは素直に頷いた。
今なら《音響察知》がLv8まで上がっているため、複数の弦音が重なっても聞き分けられるはずだ。しかし、そのことをわざわざエマへ話す必要はない。
《スキル強奪》は、絶対に知られてはならない能力だ。
自分がスキルを持っていることよりも、魔物から奪って成長させられることの方が危険な秘密である。以前より人と話す機会が増えたからこそ、どこまでなら話してもいいのかを考えなければならなかった。
しばらくすると、硬貨の入った袋が運ばれてきた。中身を確認して受け取る。
迷宮へ入る前の所持金は、金貨3枚、銀貨5枚、銅貨24枚。先ほどの朝食に銅貨15枚を使い、今回の買取と討伐報酬で銀貨288枚を受け取った。
これで所持金は、金貨5枚、銀貨93枚、銅貨9枚。
ついに必要な金額へ届いた。
「エマさん。以前教えてもらった《隠蔽》のスキル書なんですが、まだ白梟の書庫にありますか?」
「価格が金貨5枚のものですね。昨日の時点では、まだ売れていないはずです」
「今から行ってきます」
「ずいぶん急ですね」
「ずっと欲しかったんです」
ダンが答えると、エマは興味深そうに首を傾げた。
「装備よりも《隠蔽》を優先するんですか?」
「人に知られたくないことがあるので。冒険者なら、自分の手の内を隠すことも必要ですよね?」
「確かに、珍しいスキルを持っている冒険者ほど、自分の能力を伏せています。ですが、金貨5枚は大金ですよ」
「もう決めています」
種族がダンピールであることを知られたために、ガレスたちを殺すことになった。もし相手が犯罪者でなければ、ダンは今でもどうすればよかったのか分からない。
同じことを二度と起こさないためなら、金貨5枚を惜しいとは思わなかった。
冒険者ギルドを出たダンは、商業区にある《白梟の書庫》へ向かった。
白い梟が本を抱えた看板の下に、木製の扉がある。中へ入ると壁一面の棚に本や巻物が並び、その一部は鎖のついたガラス棚へ厳重に収められていた。
店の奥には、細い眼鏡をかけた老店主が座っている。
「いらっしゃい。何を探している?」
「《隠蔽》のスキル書を買いたいのですが、まだありますか?」
老店主はダンを頭から足元まで眺めたあと、背後にある棚から1冊の薄い本を取り出した。
「これだ。価格は金貨5枚。購入後の返品は受けつけん。それでもいいか?」
「はい」
「スキル書を使ったことは?」
「ありません」
「表紙へ手を置き、習得する意思を込めればいい。この本なら《隠蔽》を持たない者はLv1を習得し、すでに持っている者は1段階上がる。ただし、Lv2からLv3へ上げても効果が倍になるわけではない。分かった上で買うのだな?」
「分かっています」
ダンは金貨5枚を差し出した。
老店主が硬貨を1枚ずつ確認してから、スキル書をカウンターの上へ置く。念願だった本を前にすると、触れる指先が少し震えた。
これを買うために魔石を集め、素材や装備を売り、ダンジョンで何百体もの魔物を狩ってきた。
ダンは表紙へ右手を置き、強く念じた。
――《隠蔽》を上げたい。
次の瞬間、スキル書が淡い光に包まれた。
文字のような光がページから浮かび上がり、ダンの腕を伝って身体の中へ吸い込まれていく。すべての光が消えると、残っていた本も細かな粒子へ変わり、跡形もなく消滅した。
【スキル書を使用しました】
【《隠蔽Lv1》が《隠蔽Lv2》へ上昇しました】
ダンは礼を告げて店を出ると、人目の少ない路地へ移動した。
「ステータスオープン」
半透明の画面が現れ、スキル欄を確認する。
【通常スキル】
《短剣術Lv6》
《跳躍Lv6》
《嗅覚強化Lv6》
《音響察知Lv8》
《鑑定Lv1》
《気配察知Lv1》
《筋力強化Lv1》
《斧術Lv1》
《隠蔽Lv2》
《剣術Lv6》
《麻痺毒Lv6》
《弓術Lv2》
《視力強化Lv2》
間違いなく、《隠蔽》がLv2へ上がっている。
効果を意識すると、頭の中に操作方法が浮かんできた。Lv1では隠せる項目が1つだけだったが、Lv2では2つの項目を同時に偽装できる。
ダンが最初に選んだのは種族だった。
【種族:ダンピール/混血種】
表示を書き換える。
【種族:人間】
次に名前を選ぶ。
【名前:ダンテ・ヴァレン】
墓石を見たことで判明した、自分の本当の名前。これも冒険者ギルドへ登録した名前に変更する。
【名前:ダン】
偽装を決定すると、表示が淡く揺れた。
【《隠蔽Lv2》を発動しました】
【隠蔽対象】
【名前:ダン】
【種族:人間】
ダンは何度も表示を確認し、ようやく大きく息を吐いた。
これで《鑑定》を使われても、簡単にダンピールだと知られることはない。本当の名前がダンテ・ヴァレンであることも隠せる。
絶対に見破られないとは限らない。《隠蔽》よりも高いレベルの《鑑定》や、特殊な能力を持つ相手なら看破される可能性は残っている。
それでも、1つしか隠せなかったこれまでとは違う。
「これで、少し安心できる」
所持金は銀貨93枚と銅貨9枚まで減った。
金貨5枚が一瞬で消えたと思うと寂しさはあるが、後悔はなかった。マジックバッグの大部分も空き、再び大量のドロップ品を持ち帰れる。
《音響察知》はLv8。
種族と本名を守る《隠蔽》もLv2。
次にやることは決まっている。
「今度こそ、7階で狩ろう」
重なった弦の音を聞き分け、飛んでくる矢を避けながらゴブリンアーチャーを狩る。その先には、まだ見たことのない8階も待っている。
ダンは軽くなったマジックバッグへ触れながら、再び青石の迷宮へ向かって歩き出した。




