第3話◆ 名前のない冒険者
冒険者ギルドは、中央広場に面した二階建ての建物だった。
入口の上には、ガルドさんから教えられた通り、剣と盾を組み合わせた大きな看板が掲げられている。開け放たれた扉からは、武器や防具を身につけた人たちが絶えず出入りしていた。
革鎧を着た若い男。背丈ほどもある弓を持った女性。大きな斧を肩に担いだ獣人らしき人物もいる。
その中で、僕だけが明らかに浮いていた。
泥の跡が残る服に、教会で借りた大きめの靴。その上から革のコートを羽織っているが、きちんとした装備には見えない。
入口の前で立ち止まっていると、後ろから来た冒険者たちが僕を避けて通り過ぎた。
ここまで来たんだから、入らないと。
コートの内側にしまったガルドさんからもらった銀貨の感触を確かめ、僕は意を決して扉をくぐった。
建物の中は、外から想像していたよりも広かった。
正面には長い受付台があり、その奥で数人の職員が仕事をしている。右側の壁には依頼書らしい紙が何枚も貼られ、その前では冒険者たちが掲示板を見上げていた。
反対側には食事のできる場所があり、昼前だというのに酒を飲んでいる人もいる。肉を焼いた匂いに混じって、酒と革、それに金属の匂いが漂っていた。
僕が入った瞬間、近くにいた何人かがこちらを見た。
一度だけなら、見慣れない人が入ってきたからだと思えた。けれど、すぐに目を逸らしたあと、もう一度振り返る人もいる。
やはり、こんな格好で来たのが悪かったのだろうか。
不安になってフードを深くかぶろうとしたとき、食事をしていた女性二人の会話が聞こえた。
「今の子、見た?」
「見た。すごい顔ね」
顔色が悪いという意味だろうか。
教会の鏡を見たときは美男子だと思ったけれど、自分でそう思っただけで、こちらの世界では違うのかもしれない。
急に居心地が悪くなり、僕は空いている受付へ向かった。
受付に座っていたのは、茶色い髪を肩の辺りで切りそろえた女性だった。胸元には、小さな名札がついている。
――受付係、エマ。
見慣れない形の文字なのに、書かれている意味は自然に理解できた。
「こんにちは。本日はどのようなご用件ですか?」
エマさんが穏やかな口調で尋ねてくる。
「あの、冒険者登録をしたいのですが……」
「新規登録ですね。こちらへお掛けください」
受付の前にある椅子を勧められ、腰を下ろす。
名前も分からない僕が本当に登録できるのか不安だったが、エマさんは机の上へ一枚の紙と細長い筆記具を置いた。
「こちらに、お名前、年齢を記入してください」
何を記入すればいいのかは分かる。ところが、筆記具を手に取っても、どう動かせば文字になるのか思い浮かばなかった。
試しに先端を紙へ近づける。頭の中には自分が書きたい言葉があるのに、それを表す文字の形が出てこない。
「どうされました?」
「すみません。僕、文字が書けないみたいです」
「読めないということですか?」
「読めはするんですが、書けないんです。ほら、あの依頼書は読めますよ」
僕は受付の横に貼られた紙を指さした。
「薬草の採取。必要数は10本。報酬は……銅貨30枚、ですよね?」
「ええ、合っています」
エマさんは、僕と依頼書を不思議そうに見比べた。
「文字を読めるのに、書けないのですか?」
「頭の中では意味が分かるんです。でも、自分で書こうとすると、文字の形が思い浮かばなくて……」
「珍しいですね。手を怪我して書けない方や、文字を教わっていない方ならいらっしゃいますけど」
「事故に遭ったらしくて、記憶がないんです。自分の名前も思い出せません」
「名前も?」
「はい」
エマさんの表情が、少しだけ真剣なものに変わった。
「ご家族や、住んでいた場所も分からないのですか?」
「何も……覚えていません」
母さんの顔も、病室で過ごした日々も覚えている。
嘘をついていることに胸が痛んだ。けれど、元の世界から来たと説明したところで、信じてもらえるとは思えない。
墓から出てきたことなど、なおさら言えなかった。
「森の街道を一人で歩いていたところを、ガルドさんに助けてもらいました。それで、身分証を作るなら冒険者ギルドへ行くといいって」
「運び屋のガルドさんですね。あの方なら、このギルドにもよく荷物を届けに来ます」
「ガルドさんを知っているんですか?」
「ええ。この街で長く運び屋をされていますから」
またガルドさんと会えるかもしれない。
そう思うと、少し安心した。
「文字はこちらで記入できます。ただ、登録には呼び名が必要ですので、あとで何か決めていただきます」
「分かりました。ありがとうございます」
「その前に、過去の登録と犯罪歴を確認しますね」
エマさんは机の下から、両手で抱えられるほどの透明な球を取り出した。内側に薄い霧のようなものが漂っている。
「こちらのオーブへ手を置いてください。犯罪歴や、別の街で冒険者登録をしていないかを確認します」
「犯罪歴まで分かるんですか?」
「すべてではありません。各国やギルドに正式に記録されたものだけです。ただ、重大な犯罪を隠して別人として登録することはできません」
「もし犯罪歴があったら、どうなるんですか?」
「内容によります。罰金を支払って終わっている軽い犯罪なら登録できますが、逃亡中の犯罪者であれば衛兵へ引き渡します」
「このオーブが間違えることは?」
「これまで、そのような記録はありませんね」
「ほかには、何が分かるんですか?」
「過去の登録と犯罪歴だけです。能力値やスキル、種族などは分かりません」
種族という言葉を聞き、鏡に映った青白い肌を思い出した。
エマさんは僕を見たまま、僅かに首を傾げる。
「ほかにも気になることがありますか?」
「すみません。質問ばかりして」
「構いませんよ。分からないまま登録するより、確認していただいた方がこちらも安心できます」
迷惑がられていないと分かり、胸の奥が温かくなる。
知らない相手と、こんなに長く話したのはいつ以来だろう。病室にいた頃は、看護師さんや先生との会話も、体調や検査の話がほとんどだった。
聞きたいことを尋ねれば、エマさんが答えてくれる。
それだけのことが、僕には楽しかった。
「では、手を置きますね」
透明なオーブへ右手を乗せる。
触れた瞬間、内側に淡い光が広がった。白い光は渦を巻くように動き、やがて静かに消えていく。
エマさんはオーブの下にある小さな板を確認した。
「犯罪歴はありません。過去に冒険者登録をした記録もないですね」
「よかった……」
犯罪を犯した記憶などない。それでも、この身体が以前何をしていたのか分からないため、結果を聞くまでは不安だった。
「これなら登録できます。お名前については、ご自身のステータスを確認すれば分かるかもしれません」
「ステータス?」
聞き返した瞬間、食事をしていた人たちの中から小さな笑い声が聞こえた。
顔が熱くなる。どうやら、知っていて当然のことらしい。
エマさんは笑わず、変わらない口調で説明してくれた。
「頭の中で『ステータスを開く』と念じてみてください。最初は名前、種族、年齢、レベルだけが表示されます」
「ほかにも見られるんですか?」
「はい。詳しい項目は、基本情報の下にある詳細表示から確認できます。まずは名前を見てみましょう」
「分かりました」
半信半疑のまま、頭の中で念じる。
ステータスを開く。
その瞬間、目の前に半透明の文字が浮かび上がった。
【名前:※※※】
【種族:ダンピール/混血種】
【年齢:16】
【レベル:1】
本当に表示された。
初めて見るはずの仕組みなのに、そこに書かれている内容は自然に理解できる。
けれど、名前の部分だけは黒く潰れたようになり、何度目を凝らしても読むことができなかった。
「名前は表示されましたか?」
「いいえ。そこだけ読めなくなっています」
「ステータスに名前が出ない……?」
エマさんが僅かに眉を寄せた。
「そんなに珍しいことなんですか?」
「私は初めて聞きました。ただ、ステータスに異常があっても、オーブの確認を通過していれば登録は可能です。ご自分で呼び名を決めていただくことになりますね」
「自分で決めてもいいんですか?」
「これから、その名前で呼ばれることになります。よく考えて決めてください」
突然そう言われても、すぐには思いつかない。
元の世界の名前を使うことも考えた。
母さんがつけてくれた、大切な名前だ。
だからこそ、この身体が誰のものだったのかも分からないまま、その名前を使うことには少し抵抗があった。
元の名前を捨てたいわけじゃない。
むしろ、簡単に別のものへ重ねたくなかった。
僕はもう一度、目の前の基本情報へ視線を戻す。
ダンピール。
聞き覚えのある言葉だった。
漫画か何かで見たことがある。たしか、吸血鬼と人間の間に生まれた存在だったはずだ。
でも、この世界でも同じ意味なのだろうか。
墓の下で目を覚ましたこと。青白い肌。眠らなくても疲れない身体。
それまで別々だった出来事が、頭の中で少しだけつながった。
朝の光を浴びても何も起きなかったことを思い出す。
少なくとも、僕が知っている吸血鬼そのものではないらしい。
「ダン……」
小さく呟く。
「決まりましたか?」
「はい」
もう一度、ステータスに表示された種族名を見る。
「ダンといいます」
「ダンさんですね」
エマさんが紙へ名前を書き込んでいく。
自分で決めたばかりの名前が、初めて文字になった。
母さんにもらった名前とは違う。
それでも、この世界で初めて自分で選んだ名前だった。
「冒険者は全員、Gランクから始まります。ランクは上からS、A、B、C、D、E、F、Gの8段階です」
「依頼をこなせば上がるんですか?」
「依頼の達成数だけでなく、内容や信頼も含めて判断します。強い魔物を倒せても、依頼を守れない方は昇格できません」
「ランクが上がると、何が変わるんですか?」
「受けられる依頼と入れるダンジョンの範囲が増えます。中級の《黒鉄の迷宮》へ入るには、原則としてDランク以上が必要です」
「初級の《青石の迷宮》は?」
「登録したばかりでも入れます。ただし、初心者向けという意味であって、安全という意味ではありません」
エマさんは、少し強い口調で付け加えた。
「毎年、準備不足のまま入って命を落とす新人がいます。ダンさんは武器も防具もお持ちではありませんから、すぐに向かってはいけませんよ」
「分かりました」
そう答えながらも、ダンジョンへの興味は強くなるばかりだった。
エマさんは記入した紙を確認すると、オーブの横にある小さな台へ置いた。淡い光が紙を包み、やがて1枚の金属板が現れる。
「こちらが冒険者登録証です。紛失した場合は再発行に費用がかかりますので、大切に保管してください」
受け取った登録証には、僕が決めた名前とGランクを示す印が刻まれていた。
【ダン/Gランク】
この世界で初めて手に入れた、自分を示すものだ。
指で名前の部分をなぞっていると、エマさんが微笑んだ。
「これで登録は完了です。今日からダンさんも冒険者ですよ」
「僕が、冒険者……」
漫画の中でしか知らなかった言葉が、急に自分のものになった。
「ありがとうございます、エマさん」
「どういたしまして。ところで、ご自分のステータスについては確認できましたか?」
「名前と種族だけです。詳細は、まだ見ていません」
「でしたら、依頼を受ける前に確認しておいた方がいいですね。分からない項目があれば説明しますよ」
「本当ですか?」
「ええ」
まだ話を聞いてもいいらしい。
僕は登録証を握ったまま、エマさんに向き直った。
「聞きたいことが、たくさんあります」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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