第2話◆ 初めての街
朝から歩き続けて、どれくらい経っただろう。
土の道は森の中を緩やかに曲がりながら、どこまでも続いていた。左右には背の高い木々が生い茂り、風が吹くたびに枝葉の擦れる音が重なって聞こえる。
ときどき鳥の声はするが、人の姿は見当たらない。
それでも足元には、幾筋もの車輪の跡が残っていた。完全に消えていないということは、この道を使う人がいるのだろう。このまま進めば、いつか街か村へ辿り着けるはずだ。
木々の隙間から差し込む光は、いつの間にかかなり高い位置から落ちていた。
そう考えながら、僕は自分の足を見た。
教会で借りた靴は少し大きく、歩くたびに踵が浮いている。それなのに足が痛むことはなく、何時間も歩いているというのに靴擦れすらしていなかった。
呼吸も乱れていない。
病室にいた頃なら、廊下を少し歩くだけで息が切れていた。
それなのに今は、知らない森を何時間も歩いている。
「本当に、僕の身体じゃないんだ……」
顔だけでなく、身体そのものが変わっている。
墓の下から這い出したことを思い返すと、今でも現実とは思えなかった。けれど、頬に当たる風も、靴の中で動く足の感覚も本物だ。
知らない場所を、自分の足で歩いている。
ずっと願っていたことが叶ったはずなのに、素直に喜んでいいのか分からなかった。元の世界では、母さんが僕の死を知らされているかもしれない。帰る方法も、この身体が何者なのかも分からないままだ。
考え始めると、胸が苦しくなる。
それでも今は、立ち止まっていても仕方がなかった。まずは人を探し、ここがどこなのかを知らなければならない。
そう思って歩き続けていると、道の向こうから微かな音が聞こえてきた。
まだ姿は見えない。
けれど、規則正しく響く硬い音と、その合間に重なる低い軋みが、なぜかはっきり聞き分けられた。
馬の蹄と、車輪の音だ。
やがて曲がり角の向こうから、1台の馬車が姿を現した。荷台には木箱や麻袋が積まれ、日に焼けた大柄な男が一人で手綱を握っている。
僕は道の端へ寄り、思い切って手を上げた。
「すみません!」
男は僕に気づくと手綱を引き、馬車を止めた。
「どうした?」
「あの、ここはどこですか?」
「ここはどこって……」
男は訝しむように僕を見た。
「お前はどこから来たんだ?」
当然の質問だった。
けれど、墓から出てきましたとは言えない。そんなことを話せば、助けてもらうどころか、魔物だと思われるかもしれなかった。
僕はフードの端を握り、用意していた言い訳を口にする。
「事故に遭ったみたいで、記憶をなくしたんです。住んでいた場所も、自分の名前も思い出せなくて……」
「記憶を?」
男の視線が、僕の頭から足元まで動いた。
教会で借りたコートを羽織ってはいるが、その下の服にはまだ泥が残っている。森の中で一晩過ごしたこともあり、事故に遭ったという話に不自然さはなかったのかもしれない。
「何も覚えてないのか?」
「言葉や物の名前は分かります。でも、自分のことはほとんど思い出せなくて……」
「変わった記憶の飛び方だな」
「自分でも、よく分からないんです」
「怪我はしてないのか?」
「はい。身体は元気です」
「そうは見えん格好だが……」
男は頭をかき、僕が歩いてきた森の方へ目を向けた。
「この先にグランベルって街がある。俺もそこへ向かうところだ。荷台でよければ乗っていくか?」
「いいんですか?」
「ああ。木箱の隣なら一人くらい座れる」
ありがたい申し出だったが、すぐに別の問題に気づいた。
「でも、僕はお金を持っていません」
「街まで乗せるだけで金なんか取らん。こんなところに置いていく方が寝覚めが悪い」
男はそう言って、荷台を親指で示した。
知らない人の馬車に乗ってもいいのか、一瞬迷う。けれど、僕には街がどちらにあるのかも、あとどれだけ歩けば着くのかも分からない。
「ありがとうございます」
頭を下げ、荷台へ乗り込む。
木箱の隙間に腰を下ろすと、馬車がゆっくりと動き始めた。
「あの、なんてお呼びすればいいですか?」
「俺か? ガルドだ」
「ガルドさんですね。よろしくお願いします」
「ああ。そういや、お前は自分の名前も分からないんだったな」
「はい」
「不便だろうが、記憶が戻るまでは何か呼び名を決めた方がいいぞ」
「そうですね……」
自分の名前。
元の世界で母さんからもらった名前は、もちろん覚えている。しかし、この世界でその名前を名乗っていいのか迷った。
鏡に映っていたのは、まったく知らない青年だった。この身体には、本来の持ち主がいるのかもしれない。墓石に刻まれていた文字を読めていれば、その名前も分かったのだろうか。
答えを出せないまま、馬車は森の道を進んでいく。
揺れる荷台から眺める景色は、歩いていたときよりも速く流れていた。木々の隙間から差し込む朝の光が、道の上を次々に通り過ぎていく。
ガルドさんは、ときどき後ろを振り返った。僕が荷台から落ちていないか、確かめてくれているらしい。
それだけのことが、嬉しかった。
病室では看護師さんや先生が毎日話しかけてくれた。けれど、それ以外の人と話す機会はほとんどなかった。知らない人に自分から声を掛け、その人の馬車に乗せてもらうなど、昨日までの僕には想像もできないことだった。
「ガルドさん。グランベルは、どんな街なんですか?」
「一言でいえば、ダンジョンで食ってる街だな」
「ダンジョンがあるんですか?」
思わず身を乗り出すと、ガルドさんが振り返った。
「なんだ。ダンジョンは覚えてるのか?」
「あ……名前を聞いたことがある気がして」
危なかった。
自分のことは覚えていないと言ったばかりなのに、漫画で得た知識を当たり前のように話すところだった。
ガルドさんは深く考えなかったようで、そのまま話を続けた。
「グランベルには2つある。北西にある《青石の迷宮》と、北東の《黒鉄の迷宮》だ」
「2つも……」
「《青石の迷宮》は初級だ。駆け出しの冒険者でも、浅い階ならどうにかなる。《黒鉄の迷宮》は中級で、経験のない奴が入ればすぐ死ぬぞ」
グランベルは、もともと小さな宿場町だったらしい。
30年ほど前に《青石の迷宮》が発見され、魔物の落とす魔石や素材を求めて冒険者が集まり始めた。その冒険者を相手に商売をする者が増え、宿屋や武器屋が建ち、街を守るための城壁まで造られた。
さらに6年前、《黒鉄の迷宮》が見つかったことで、街の発展は一気に加速したという。
「今じゃ建物も宿も足りてない。街の外まで広げるってんで、城壁の工事も始まってる。俺みたいな運び屋は仕事が増えて助かるがな」
「僕にも、できる仕事はありますか?」
「身体が動くなら、何かしらあるだろう。街には冒険者ギルド、商業ギルド、建設ギルドがある。記憶が戻るまでだって、食っていかなきゃならんからな」
ガルドさんの言葉に、僕は自分の両手を見た。
これまで働いた経験はない。学校にもほとんど通えず、できることといえば本や漫画を読むくらいだった。
しかし、この身体には墓石を押しのけるほどの力がある。何時間歩き続けても疲れず、馬車に揺られていても眠気すら感じない。
今の僕なら、仕事をして自分でお金を稼げるかもしれない。
◇
1時間ほど経った頃、木々の向こうに灰色の城壁が見えてきた。
「あれが、グランベルですか?」
「そうだ」
森を抜けると、なだらかな丘の先に街の全景が広がった。
高い城壁の内側から、赤褐色や焦げ茶色の屋根がいくつも突き出している。その向こうには建築途中らしい建物の骨組みが見え、遠くからでも槌を打つ音が聞こえてきた。
城壁の外にも、切り出された石や木材が積み上げられている。資材を運ぶ荷馬車が列を作り、大勢の職人が声を掛け合いながら作業を続けていた。
完成された古い街というより、今も大きくなり続けている街だった。
門へ近づくにつれて、行き交う人や馬車が増えていく。腰に剣を下げた人、大きな盾を背負った人、ローブを着た人。中には、頭に獣のような耳を持つ人もいた。
目に入るものすべてが初めてだった。
僕は荷台から周囲を見回しながら、胸が高鳴るのを感じていた。
漫画の中でしか見たことのない異世界が、目の前にある。
西門の前には、街へ入る順番を待つ馬車が並んでいた。ガルドさんもその最後尾へ馬車をつけ、少しずつ門へ近づいていく。
やがて僕たちの番になると、槍を持った門番が御者台のガルドさんへ声を掛けた。
「積み荷は?」
「西の村で仕入れた小麦と干し肉だ。商業ギルドの印もある」
ガルドさんが書類を渡す。門番は荷台を覗き込み、木箱の間に座っている僕を見つけた。
「そっちの奴は?」
「森の街道で拾った。事故に遭って、記憶がないらしい」
「記憶が?」
門番の視線が僕へ向けられる。
顔を隠していた方がいいのか迷った末、フードを少し上げた。門番は僕の顔と泥の残る服を見比べ、腰や手元へ視線を動かした。武器を持っていないことを確かめているようだった。
「名前は?」
「それも思い出せないそうだ」
「身元を確認できる物は?」
「何も持っていません」
僕が答えると、門番は困ったように眉を寄せた。
「ガルド。お前が連れてきた以上、街へ入るまでの責任は持てよ」
「分かってる。こいつは冒険者ギルドへ連れていく」
「なら、西門から入ったことはこちらで記録しておく。日が暮れるまでにギルドで登録を済ませろ。それまでは問題を起こすなよ」
「はい。ありがとうございます」
ガルドさんが顔見知りだったからか、それ以上追及されることなく門を通ることができた。
城壁をくぐった途端、周囲の音が一気に増した。
大通りの中央には石畳が敷かれていたが、両端はまだ土のままで、荷車が通るたびに乾いた埃が舞い上がる。道の左右には石造りと木造の建物が混在し、その間には新しい店や宿を建てるための足場が組まれていた。
槌の音、材木を切る音、商人の呼び声。荷車の車輪が石畳を鳴らし、通りに面した露店からは焼いた肉と香辛料の匂いが漂ってくる。
「すごい……」
思わず声が漏れた。
紙の上の絵とは違う。人々の話し声が聞こえ、料理の匂いがして、すぐそばを通り過ぎた人の肩が僕の腕に触れる。
「初めて街を見るみたいな顔だな」
ガルドさんが笑う。
「そんな感じがします。何もかも、知らないものばかりで……」
「記憶をなくしてるなら仕方ないか」
ガルドさんは中央広場に近い通りで馬車を止めた。荷台から降りた僕に向かって、広場の先に見える大きな建物を指さす。
「剣と盾の看板が見えるか? あれが冒険者ギルドだ」
「はい」
「自分が何者か分からないなら、まずはそこで登録してこい。犯罪歴さえなければ登録できるし、身分証も手に入る」
僕が礼を言おうとすると、ガルドさんは懐から1枚の銀貨を取り出した。
「ほら」
「これは?」
「最初の飯代だ」
「でも、街まで乗せてもらっただけでも十分です。お金まで受け取れません」
「名前も分からん奴が、どうやって今日の飯を食うつもりだ?」
何も答えられなかった。
ガルドさんは僕の手を取り、その上へ銀貨を置いた。
「ずっと人に頼れとは言わん。仕事はたくさんあるんだから、これから自分で生活できる分を稼げ。これは最初だけだ」
手のひらに載った銀貨は、見た目よりも重く感じられた。
「ありがとうございます。必ず返します」
「返したくなったら、稼いでから返せ」
「ガルドさんは、どこに行けば会えますか?」
「この街で運び屋をしていれば、そのうち見かけるだろうよ」
ガルドさんは笑って御者台へ戻った。
僕は馬車が人混みの向こうへ消えるまで見送り、それから手の中の銀貨を強く握った。
名前も、身分証も、泊まる場所もない。
けれど、歩ける身体があり、最初に進むべき場所も教えてもらった。この銀貨を使い切る前に仕事を見つけ、自分の力で生活できるようになればいい。
広場の向こうに建つ冒険者ギルドへ目を向ける。
入口からは武器を持った人たちが絶えず出入りしていた。
僕は銀貨をコートの内側へ大切にしまい、その建物へ向かって歩き出す。
そこで、ふとガルドさんの言葉を思い出した。
――記憶が戻るまでは、何か呼び名を決めた方がいい。
冒険者として登録するなら、名前を聞かれるはずだ。
僕は歩きながら、胸の奥で小さく息を吐いた。
「……名前、どうしよう」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
物語の感想や印象に残った場面など、ひと言でもいただけると今後の執筆の励みになります。




