第1話◆ 墓の下から
16歳になった日も、僕は病室にいた。
窓の外には道路が見える。朝は駅へ向かう人が歩き、昼には買い物袋を下げた人が通る。夕方になると、制服を着た学生たちが友達と話しながら帰っていく。毎日見ている景色なのに、その道路を僕が歩いたことは一度もなかった。
「今日は顔色がいいね」
巡回に来た看護師さんが、体温計を受け取りながら言った。
「昨日よりは元気です」
「じゃあ、少し廊下を歩いてみる?」
「あとで。この漫画を読み終わってからにします」
ベッドの上の漫画を指すと、看護師さんは表紙を見て笑った。
「また異世界の話?」
「はい。主人公が、まだ行ったことのない街へ向かうところなんです」
「楽しそうね。歩くのは無理しない範囲でいいから」
看護師さんはそう言って、次の病室へ向かった。
僕が話す相手は、ほとんど決まっている。看護師さんと先生。それから週に一度、会いに来てくれる母さんだ。
昔は母さんが毎日来ていた。今は仕事が忙しいと言う。入院費がどれほどかかっているのか、僕は知らないし、母さんがそのために長く働いているのかも聞いたことはない。ただ、会いに来る回数が減った頃から、母さんの手が荒れ始めた。
漫画を取り出すその手を見るたび、ありがとうより先に、申し訳ないという気持ちが湧く。
「来週は新しい巻、出るんだって」
前に来たとき、母さんはそう言っていた。
「買ってこなくていいよ」
「私も続きが気になるから。先に読んだら怒る?」
「怒る」
2人で笑った。母さんが帰ったあと、静かになった病室でその漫画を開いた。
漫画の主人公は、僕とは違う。朝起きたら旅の準備をして、好きな道を選んで歩ける。誰かと出会えば名前を聞き、別れるときにはまた会おうと言える。危険な森へだって、自分の意思で入っていく。
僕は退院の日さえ、自分では決められない。
体調がよくなって退院の話が出たこともあったが、その三日後には高熱を出し、また検査を受けた。行きたい場所を考える前に、いつも身体が悪くなる。
一度でいいから、知らない場所へ行きたい。
今いる病室から遠く離れたところまで歩いて、初めて会う人と話し、今日どこへ行くかを自分で決めてみたかった。母さんにそんな話をすれば困らせると思い、漫画を読みながら心の中でだけ願っていた。
その日の午後、僕は主人公たちが新しい街の門をくぐる場面を読んでいた。仲間と顔を見合わせて笑うところで、次のページをめくろうとしたときだった。
胸の奥に、鋭い痛みが走った。
「……っ」
息を吸おうとしても、空気が入ってこない。漫画が手から滑り、床に落ちた。
呼び出しボタンへ腕を伸ばす。指先は届かず、扉の向こうから聞こえる足音も遠くなっていく。
声を出せば気づいてもらえる。そう思うのに、喉からは息しか出なかった。
もう駄目かもしれない。
母さんは来週も漫画を持ってくると言っていた。
続きを一緒に読めないかもしれない。
もっと話をすればよかった。
ちゃんと、ありがとうって言えばよかった。
床に落ちた漫画を見ながら、最後に浮かんだのは母さんの顔だった。
ありがとう。
声にはできなかったけれど、それだけは伝えたかった。
僕の意識は、そこで途切れた。
◇
次に目を開けたとき、病室の天井は見えなかった。
どれほど時間が経ったのか分からない。
明かりもなく、顔のすぐ前に何かがある。湿った匂いがして、頬にざらついたものが触れた。
「……ん?」
声を出すと口の中に土が入った。顔を背けようとしたが、肩も膝も何かに押さえつけられ、ほとんど動けない。
手探りで周囲を確かめる。右にも左にも、頭の上にも土があった。
どうして、土の中にいる?
胸の痛みは消えていて、息もできる。それなのに地面の下にいる理由を考えた途端、嫌な想像が浮かんだ。
僕は死んだのか。だとしたら、ここは――。
「嫌だ!」
両腕を頭の上へ押し上げると、土が少し崩れた。さらに力を込めたところで、頭上にあった硬いものがずれる音がした。
驚いて動きを止める。
病室では、重い本を何冊か持つだけで腕が疲れた。そんな僕が今、土の重みを押しのけている。
もう一度押すと、硬いものがごり、と動いた。
隙間から白い光が差し込む。
僕はその光へ向かって指を伸ばし、土をかき分けた。顔に泥が落ちるたびに目を閉じ、肩をよじって隙間を広げる。
あと少し。
どうにか頭を外へ出した瞬間、冷たい空気が頬に当たった。
「ぷはっ!」
思いきり息を吸ってから腕を地面につき、身体を引き上げる。足は途中で引っかかったが、膝を曲げると抜けた。
しばらくその場に座り、呼吸を確かめた。土を掘り、頭の上にあったものを押しのけ、地面の下から這い出したのに、息が切れていない。胸も痛まなかった。
顔を上げると、木々の向こうに満月が浮かんでいた。
土の中で見えたのは月の光だったのか。青白い光に照らされた周囲には墓石がいくつも並び、僕の足元には土の盛り上がった場所があった。その横には、大きな石が倒れている。
「……墓?」
出てきた穴と、倒れた墓石を交互に見る。僕はそこに埋められていて、自分の手で土と石を押しのけたらしい。
墓石の表面には文字が刻まれていた。泥を払ってみたが、端が欠け、名前らしい部分も土に埋まっていて、何と書いてあるのか分からない。
石は、僕一人では運べそうにないほど重い。これを押しのけたのかと思うと、泥だらけの手に目がいった。
見慣れた手ではなかった。指が長く、肌は満月の光のせいだけとは思えないほど青白い。腕も、病室にいた頃よりしっかりしている。
試しに立ち上がると、膝は震えなかった。一歩歩いても息苦しくならず、土に足を取られたときも、すぐに身体を支えられた。
「歩ける……」
墓石に目を戻す。
自分がどうなったのか分からないのは怖い。それでも今、病室では考えられなかった力で立ち、自分の足で歩いている。
嬉しさが胸に広がり、同時に母さんの顔が浮かんだ。
母さんは今頃、どうしているんだろう。
僕が死んだと聞かされて――。
そこから先を考えられなかった。
倒れた墓石を元に戻そうと端に手をかけたが、少し動かせただけで、うまく持ち上げられない。下から押しのけたときとは違い、手を掛ける場所がなかった。
「ごめんなさい。あとで戻せるなら戻します」
墓の持ち主に向けて小さく謝る。
森の奥に、木々の間から淡い明かりが見えた。誰かがいるかもしれないと思い、僕は服についた泥を払いながら、その方へ歩き出した。
◇
明かりのそばには、古い教会があった。
高い窓と、細かな飾りが彫られた扉を持つ洒落た建物だったが、壁には蔦が伸び、窓の一つは割れている。訪れる人がいるのかどうか、外からは分からなかった。
「すみません。誰かいますか?」
返事はない。
もう一度呼んでから扉を押すと、ゆっくり開いた。中には椅子がいくつか並び、奥に小さな灯りが残っていたが、人の気配はない。
誰もいない教会に入るのは気が引ける。それでも、夜の森で人を探すよりは安全そうだった。
僕は奥へ歩き、壁に掛かった曇りの残る鏡の前で足を止めた。
「……誰?」
鏡に映っているのは、知らない青年だった。西洋人のような整った顔に、泥のついた髪。肌は、さっき見た手と同じように青白い。
僕が顔を近づけると、青年も近づける。頬に触れてみれば、鏡の中でも同じ場所に手が上がった。
「これが僕なのか?」
病室の鏡に映っていた僕とは、何一つ似ていない。
墓から出てきて、身体も顔も変わっている。ここまでの出来事を思い返すと、ある言葉が頭に浮かんだ。
「ゾンビ……?」
口に出した途端、急に怖くなって首や腕を調べる。腐ったところも傷も見当たらないし、泥の冷たさも、頬に触れる指の感覚もちゃんと分かる。
けれど、墓の下で目を覚ました理由は説明できなかった。
教会の外へ出ると、壁際に古い井戸があった。そばには木桶も置かれている。
縄を使って水を汲み、手足と顔の泥を洗い流した。水が冷たく、何度も手を止めたが、泥が落ちるにつれて肌の白さがはっきりしていく。
もう一度教会へ戻り、鏡を見た。
今度は顔がよく分かる。
「……美男子だ」
自分の顔にそんな言葉を使う日が来るとは思わなかった。
試しに笑うと、鏡の青年も笑った。知らない顔のはずなのに、その表情だけは僕のものだった。
教会の隅には、古びた靴と、埃をかぶったフード付きの革のコートが置かれていた。持ち主が戻ってくるかもしれないと迷った末、僕はそれを借りることにした。
靴は少し大きかったが、裸足で森を歩くよりいい。コートを羽織れば、泥のついた服も隠せる。
「持ち主を見つけたら返します」
誰もいない教会で、そう声に出した。
このままここにいて人が戻ってきたら、何と説明すればいいのか分からない。「墓から出てきました」と言えば、きっと騒ぎになる。
僕は森へ戻り、太い木の根元へ腰を下ろした。
目を閉じると、病室のベッドや読みかけの漫画、週に一度来てくれる母さんの顔が浮かんだ。会いたいと思ったが、今の僕には帰る方法がない。
木に背を預けたまま、眠ろうとする。
夜が深くなっても眠気は訪れなかった。何度目を閉じても眠れず、一睡もしないまま空が白んでいく。
鳥が鳴き、木の間から朝の光が差した。それなのに、疲れはない。
「これも、ゾンビだからなのかな」
朝の光を手のひらで受けてみる。肌は痛まず、何も起きなかった。
僕は立ち上がり、森の向こうに続く土の道を見た。
どこへ行けばいいのか分からないし、知っている人もいない。けれど、歩ける身体がある。
僕は道へ出て、行けるところまで歩いてみることにした。
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