第24話◆ 墓石に刻まれた名前
翌朝、ダンは宿で朝食を済ませると、手入れを終えた古いコートをマジックバッグへ入れた。
身につけているのは、街で新しく買った濃い灰色のフード付きコートだ。
古いコートをそのまま着て教会へ行くことも考えたが、勝手に持ち出した物を平然と身につけて返しに行くのは、さすがに気が引けた。
足元へ目を落とす。
履いている靴も、あの夜に教会から借りた物だった。
コートと違って代わりを用意していないため、そのまま履いてきたが、こちらのこともきちんと謝らなければならない。
「怒られるかな……」
持ち出したときは、この世界へ来たばかりで、自分が誰なのかすら分からなかった。靴もなく、森の中で夜を明かさなければならなかったとはいえ、無断で持ち出したことに変わりはない。
教会の人が困っていたなら、きちんと謝ろう。
そう決めて宿を出たダンは、グランベルの街を西門から出た。
初めてグランベルへ来たときの道を、今度は逆に辿っていく。
あのときは森を抜けた先で偶然通りかかったガルドの馬車に乗せてもらったが、今では自分の足だけでも大した距離には感じなかった。
レベルが上がったことで、俊敏も大きく伸びている。
以前なら長く感じた道も、今では普通に歩いているだけで周囲の景色が次々と後ろへ流れていった。
しばらく街道を進み、途中から森へ入る。
道らしい道はない。
それでも、木々の並びや地面の傾斜には微かな見覚えがあった。《嗅覚強化Lv4》と《音響察知Lv6》で周囲を確かめながら歩き続けると、やがて木立の向こうに古びた尖塔が見えてきた。
「あった……」
石造りの小さな教会は、満月の夜に見たときと変わっていなかった。
昼の光の中で見ると、壁を覆う蔦や、ところどころ欠けた石材がよく分かる。古びてはいるが荒れ果てているわけではなく、入口へ続く小道からは落ち葉が掃かれていた。
ダンは教会へ入る前に、その裏手へ回った。
墓地には大小さまざまな墓石が並んでいる。その多くは雨風に削られ、表面に苔が生えていた。
その中で、1つだけ倒れたままになっている墓石がある。
あの夜、自分が這い出した場所だった。
掘り返された土には雨が染み込み、崩れた穴の大半が埋まりかけている。
あのときは暗闇と混乱の中で何も考えられなかったが、改めて見ると、自分が墓の中から出てきたことを否定できなかった。
「やっぱり、ここに埋められてたんだ……」
ダンは倒れている墓石へ手をかけた。
最初に目覚めた夜にも、倒れた墓石を元へ戻そうとした。だが、当時は少し動かすことしかできなかった。
それが今では、力を込めればゆっくりと持ち上げることができる。
傾いていた土台を整え、墓石を元の位置へ戻す。
表面へ付着した土を手で払い落とすと、刻まれていた文字が少しずつ現れた。
「ダンテ……ヴァレン……」
その下には、享年16と刻まれている。
ダンは指先で名前をなぞった。
知らない名前のはずだった。
日本で生きていた自分とは何の関係もなく、記憶の中で聞いた覚えもない。
それなのに、胸の奥ではその名前を知っているような気がした。
「ダンテ……」
もう1度、口にする。
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
薄暗い部屋。
窓を覆う厚い布。
ベッドの上に座る自分と、その前に膝をついている銀髪の男。
男の顔はぼやけている。
それでも、赤い瞳から涙が流れていることだけは分かった。
『ダンテ』
低く、震える声が自分の名前を呼んだ。
『すまない……』
次の瞬間、胸へ冷たいものが突き刺さる。
痛みよりも、その男が泣いていることの方が悲しかった。
「父上……」
自分の口から漏れた言葉に、ダンは息を呑んだ。
見えていた景色は消え、目の前には古い墓石だけが残っている。
胸元を押さえても傷はなく、痛みもなかった。
以前、新人を狙っていた3人組を倒したあとに見たものと同じ記憶だ。
銀髪の男は、この身体の父親だった。
そのことだけは、不思議なほど強く残っている。
【失われた情報の一部が復元されました】
突然、頭の中に声が響いた。
ダンは周囲に誰もいないことを確かめ、小さく息を整える。
自分のステータスを確認する。
【名前:ダンテ・ヴァレン】
【登録名:ダン】
【種族:ダンピール/混血種】
【年齢:16】
【レベル:8】
これまで伏せられていた名前が、はっきりと表示されている。
「僕は……ダンテ・ヴァレン」
日本で生きていた自分の名前は覚えている。
しかし、この身体にも名前があり、家族がいて、16年の人生があった。
どちらが本当の自分なのかは、まだ分からない。
冒険者登録をしたとき、ダンは《ダンピール》という種族名から「ダン」と名乗った。
それなのに、この身体の本当の名前はダンテだった。
「ダンピールから取ったつもりだったのに……」
偶然なのだろうか。
それとも、何も覚えていなかった身体のどこかに、ダンテという名前だけが残っていたのだろうか。
ダンはステータスを閉じると、墓石の上部へ目を向けた。
名前の上には、文字とは別の模様が彫られている。
茨に囲まれた三日月。
石に色は残っていない。
だが、その形には見覚えがあった。
ダンはマジックバッグから古いコートを取り出し、胸元に刺繍された紋章と墓石を見比べる。
黒い茨に囲まれた、銀色の三日月。
細かな茨の絡み方まで、墓石の模様と一致していた。
「このコートも、ヴァレン家の物なのか?」
自分が這い出した墓の近くの教会に、その墓と同じ紋章が入ったコートが置かれていた。
偶然とは考えにくい。
父親の物なのか。
それとも、自分を埋葬した誰かが残したのか。
墓石の周囲にほかの手掛かりがないか調べていると、裏側の下部に浅い傷のようなものを見つけた。
ダンはしゃがみ込み、土を払い落とす。
そこには、表の名前とは違う、不揃いな文字が刻まれていた。
職人が彫ったものではない。
誰かが刃物のような物を使い、自分の手で刻んだように見える。
『お前を、あの方には渡さない』
文字を読んだ瞬間、再び銀髪の男の姿が脳裏に浮かんだ。
『他の者の手にかかるくらいなら……』
胸へ剣を突き立てながら、父親はそう言っていた。
墓石の言葉を書いたのも、あの男なのだろうか。
「あの方って……誰なんだ?」
答える者はいない。
ただ、思い出した父親の表情には、息子を憎むような感情はなかった。
むしろ、自分の胸へ剣を突き立てることに、耐えられないほど苦しんでいたように見えた。
父親は、自分の胸へ剣を突き立てた。
そして墓石の裏には、
『お前を、あの方には渡さない』
と刻まれている。
もし、この言葉を刻んだのも父親なのだとしたら――。
父親は、自分を何者かから守ろうとしていたのかもしれない。
だが、なぜ剣を突き立てる必要があったのか。
誰が自分を狙っていたのか。
そして、なぜ自分は墓の中で目を覚ましたのか。
何も分からなかった。
ダンはコートを畳み直し、マジックバッグへ戻した。
考えているだけでは答えは出ない。
まずは、この教会にいる人へ話を聞くべきだろう。
正面へ回り、木製の扉を開ける。
あの夜と同じように、細長い礼拝堂には木の長椅子が並んでいた。壁に設けられた色ガラスから朝の光が差し込み、床へ淡い色を落としている。
「すみません。どなたかいらっしゃいますか?」
声をかけると、奥から何かを置く音が聞こえた。
「はい。少々お待ちください」
しばらくして現れたのは、灰色の法衣を着た初老の男性だった。
白髪交じりの髪を短く整え、穏やかな目をしている。
「お待たせしました。旅の方でしょうか?」
「グランベルから来ました。ダンと申します」
「私は、この教会を預かっているオルドです。本日はどのようなご用件ですか?」
「あの……まず、謝らなければならないことがあります」
ダンはマジックバッグから古いコートを取り出した。
「数日前、僕はこの教会に置かれていたコートを、勝手に持ち出してしまいました。それと、今履いている靴もです」
「こちらのコートと、その靴を?」
「はい。そのときは事故で記憶を失っていて、服も靴も泥だらけでした。森を歩くために必要だったとはいえ、無断で持っていったことに変わりはありません。本当に申し訳ありませんでした」
ダンは深く頭を下げた。
オルドは驚いた様子でコートを受け取ると、表と裏を確かめた。
「顔を上げてください。正直に返しに来てくださったのでしょう?」
「はい。靴は代わりを用意していなくて、まだ履いてしまっていますが……必要なら、新しい物を買ってから返します」
「その必要はありませんよ」
「いいんですか?」
「ええ。その靴も、長い間使われていなかった物です。必要としている方に使っていただけたのなら、それで構いません」
「ありがとうございます」
ダンはもう1度頭を下げ、それからコートへ目を向けた。
「ただ、返す前にお聞きしたいことがあります。そのコートが誰の物なのか、ご存じありませんか?」
「いえ……」
オルドは胸元の紋章を見つめながら首を横へ振った。
「私がこの教会を引き継いだときには、すでに奥の物置にありました。教会の備品だと思っていましたが、記録に記載はありません。私も、この紋章を見るのは初めてです」
「そうですか……」
「なぜ、このコートの持ち主を?」
ダンは、どこまで話すべきか迷った。
自分が墓から這い出したことも、ダンピールであることも言えない。
相手が善良そうに見えても、どこから純血のヴァンパイアへ情報が伝わるか分からなかった。
ダンは一度言葉を選び、それから答えた。
「教会の裏に、ダンテ・ヴァレンという人の墓があります。その墓石と、このコートに同じ紋章がありました」
「ダンテ・ヴァレン……」
「僕は事故で記憶の一部を失っています。自分の家族についても、ほとんど覚えていません。ただ、この紋章を見たとき、どこかで見たことがあるような気がしました。おそらく僕は、ダンテ・ヴァレンの親類なのだと思います」
嘘をついたことに、胸が僅かに痛んだ。
自分は親類ではない。
墓に入っていたダンテ本人だ。
それでも、正直に話すわけにはいかなかった。
オルドはしばらくダンの顔を見つめていたが、疑うような様子は見せなかった。
「申し訳ありません。あの墓についても、教会には記録が残っていないのです」
「記録がないんですか?」
「墓石がある以上、誰かが埋葬を行ったはずです。しかし、ダンテ・ヴァレンという名前は埋葬者名簿にありません。前任者からも、特別な話は聞いていませんでした」
コートだけでなく、墓の記録まで残っていない。
まるで、ダンテ・ヴァレンという存在を誰かが意図的に隠したようだった。
「このコートは、あなたがお持ちください」
「ですが、教会にあった物です」
「教会の所有物だという記録はありません。それに、墓石と同じ紋章があるのなら、ヴァレン家に関係する物なのでしょう。親類であるあなたが持っていた方が、このコートも役に立つはずです」
ダンは差し出されたコートを両手で受け取った。
「ありがとうございます。大切にします」
「何か分かったことがあれば、私からもお伝えしましょう。あなたも、ご家族のことを思い出せるといいですね」
「はい」
もう1度礼を言い、ダンは教会を出た。
知りたかったことの多くは分からないままだった。
それでも、自分の名前と家の紋章を知ることができた。
そして父親が、自分を何者かから守ろうとしていた可能性もある。
新しく買ったコートの下へ、古いコートを抱える。
これはもう、借り物ではない。
ダンテ・ヴァレンへ残された、最初の手掛かりだった。
ダンが森の中へ消えてから、しばらくの時間が流れた。
教会の裏に立つ墓石には、柔らかな朝の光が降り注いでいる。
やがて、茨に囲まれた三日月の紋章が、血を流したように赤く染まった。
その光は一瞬で消え、墓地には再び静寂だけが残った。




