08 再会
つい数刻前に通ったばかりの祭壇へ続く道。壁の亀裂も、天井の歪みも、足場のわずかな傾斜も、すべて記憶と一致している。
それでも――空気だけが違う。先ほどの戦闘の余韻が、まだ洞窟に残っている。
鉄と血と、焦げた魔力の匂い。霧は薄れつつあるが、完全には晴れていない。
霧に紛れていたとはいえ、あの敵は霧越しに正確に位置を掴み、迷いなく急襲してきた。
ほとんど詠唱も溜めも感じさせない魔法で盾を一撃で砕く威力。
視界が開けていれば、地力で劣るとは思えない。だがここは洞窟だ。死角が多く、音は歪み、距離感は狂う。
だからこそ、警戒は自然と高止まりしたままだった。
岩を踏む足音が、ほんの一瞬だけ二重に聞こえる。
反射的に全員の身体が強張る。前方からの気配。
イヴが滑るように一歩前へ出る。短剣が鞘を離れ、低く構えられる。
ラルも剣の柄に手をかける。抜きはしない。だが半歩で攻撃を遂行する構え。
リオンは呼吸を整え、音の方向を測る。
やがて暗がりの奥から人影が現れた。歩みは軽く外套が揺れる。芽理の宮の紋。緊張が、わずかにほどける。
リオンは小さく指を動かし、構えを下げる合図を出した。
「無事か。」
メナスの声は、簡潔だ。先ほどあった時のような儀式的な響きはない。状況を緊急と判断している声音。
「今のところはな。」
ラルが答える。若輩の無遠慮な言葉が主君に直接触れぬよう、間に立つ。古い騎士の流儀だ。
その間を制するように、リオンが一歩前へ出る。視線は落ち着いているが、意識の半分は常に奥へ向けられている。
「出口へ続く道が消えていた。直後に崩落。霧が出た。視界を奪われたところで急襲された。」
簡潔にまとめる。だが事態を理解するには十分な言葉だ。
リディアが小さく眉を寄せ、メナスを咎めるように見る。
やはり伝えるべきだった、という無言の指摘。メナスはその視線を、否定も肯定もせず受け流した。
メナスは顎に手を当て、しばし視線を伏せた。洞窟の壁面に埋め込まれた魔晶石の淡い光が、その横顔に陰影を落とす。
「こちらでは魔晶石の経路の切り替わりが観測できた。」
短い言葉。だが、その意味は重い。
「切り替わった?」
リオンが即座に問い返す。
「洞窟内の魔晶石は、互いを繋ぐように魔力を循環させている。一定の流量で、一定の順路を保つ。だが、その流れが変わっている。」
メナスは壁際の魔晶石に軽く視線をやる。
「霧と関係があるのか。」
ラルがメナスの言葉の真意を問う。
「霧そのものの発生要因は推定できない。ただ――」
メナスは一拍置き、言葉を選ぶ。
「例えば、魔晶石の明度や指向性を変えることで、同じ道を“別のルート”として歩かせることは可能だろうな。」
リオンは、一瞬天井を見る。
「つまり、道が消えたのではない。俺たちの認識がずらされた、と?」
「可能性は高いだろうな。」
メナスは淡々と頷く。
薄暗い洞窟に、言葉を飲み込むような沈黙が落ちる。
誰もが、自分の足で辿ったはずの経路を思い返していた。
曲がったはずの角度。戻ったはずの地点。数歩の差しかないはずの距離感。だが記憶を重ねると、どこかが微妙に食い違う。
もし意図的に情報を組み替えられれば、人は同じ道を巡っていても気づきにくい。
だが——。
「偶然で起きる規模じゃないな。」
リオンの声は低く、確信に満ちていた。全員が小さくうなずく。
ラルが、メナスを一瞥する。
「そちらの状況は?」
問いは短い。だがその視線には、探る色がある。
メナスは一瞬だけ言葉を選んだ。気圧されたわけではない。どこまで共有するかを量っている。
「祭壇で見せた杯が、今は――魔具の反応を示している。関連する何かがないか、調査を進めているところだ。」
含みを残したメナスの答え。だが十分だ。崩落。霧。急襲。魔力経路の変化。そして起動する杯。
リオンの目が細くなる。
「タイミングが出来すぎだな。」
ラルの声は平坦だが、棘がある。何かを隠している――そう感じ取っているのが、言外に伝わる。
洞窟の奥から、わずかな風が流れた。霧はほぼ消えている。だが冷えた気配だけが残っている。
「仮定の話だ。」
メナスは顔を上げる。言葉を選びあぐねるような、迷いを含んだ表情。全員の視線が、自然と彼に集まった。
「この洞窟全体が、一つの巨大な術式だとする。経路に配置された魔晶石、発生した霧――それらは仕組みの一部だ。」
そこまでは、誰もが薄々理解していた。だが、“洞窟全体”という言葉にすると規模が一気に現実味を帯びる。
「本当にそれだけ大きな術式なら、開始条件と目的があるってことね。」
リディアが静かに言葉を添える。
「ああ。条件の一つは成人の儀だろう。過去の我々の調査記録には、これほどの異常を示す記述はない。」
メナスの声には、確信があった。記録にない。それは異常が“常態ではない”証明でもある。
記録にないという事実が、逆に裏付けとなる。
「だが、成人の儀だけでもないだろうね。」
リオンの言葉は自然に出た。
「我々にとっても、過去にこういう話は聞かない。」
メナスは頷くが、まだ結論には踏み込まない。
「イレギュラーがあるとすれば、人数的要素だろうな。洞窟に一定数が入り、祈りを捧げる。感情が高まった状態で。」
言葉が、宙に残る。
「敗戦が濃厚な時。災害で避難する時――か。」
それまで黙っていたロンが、ぽつりと呟いた。
追い詰められ、逃げ込み、願う場所。祈りが“切実”になる状況。洞窟は、そういう時に機能するのか。
「だとすれば、その目的は――」
リオンの声がわずかに上ずる。
理屈より先に、胸の奥が動いていた。
“時の繰り返し”。自分だけが抱えている、あの違和感。
それが、この仮説と繋がるのではないか。期待と恐怖が同時にせり上がる。
イヴが、わずかにリオンを見る。
「力の伝承だろうな。」
メナスは水を一口含み、喉を潤してから静かに続ける。
「霧の聖女の伝承から推測すれば、水の魔法、防御術式――そして予知。」
予知。その言葉が落ちた瞬間、リオンの胸の奥が静かに軋んだ。
過去に戻る自分。起きる出来事を、事前に“知っている”状態。
偶然ではない、と言われているようだった。
リディアが即座に反論する。
「魔法や術式ならまだしも、予知なんて。時間や空間を越える干渉は、王都の学術部門ですら理論が立っていない。」
常識的な意見だ。
時間や空間を越える干渉は、王都最高峰の学術部門ですら理論すら組み立てられない。
ましてや成果が出たなどという話は、聞いたことがない。
「そうだな。」
メナスは否定しない。
「だが、洞窟全体を術式にしている時点で、我々の知見の外にある技術が含まれていても不思議ではない。」
その声は、どこか確信に近づいている。
「俺が見た限り、魔力の揺らぎがおかしい。」
視線が、順に移る。
「失礼だが、リオン様。そちらの短剣の女性。それと――ここにはいないが、杯を見せたロシュフォード。」
リオンは無意識にイヴを見る。彼女は名前が挙がっても無表情だ。呼吸も、姿勢も変わらない。
「纏う魔力が、圧縮されたような密度になっている。少なくとも成人の儀の後にあった時と大きく異なっている。」
メナスの言葉は冷静だ。
「すでに何らかの能力継承の条件が発動している可能性が高い。今は――その途中と見るべきだろう。」
リオンは、イヴが“あの繰り返す時間”を共有しているのか確かめようと、唇を開きかけた。
「待って。うちのロシュフォードが!?」
リディアの声が、洞窟の石壁に鋭く跳ね返る。驚きだけではない。警戒と、わずかな焦りが混じっている。
「驚くことはないだろう。」
メナスは落ち着いた声音で続ける。
「術式という仮定に立つなら、対象を細かく選別するものではないはずだ。条件が整った者が巻き込まれる。――状況が人を選ぶ、という形だろう。」
視線が静かに巡る。
「つまり。」
ロンが低く割り込む。その視線が、ゆっくりとルーシーへ向く。
「儀式が他にある。それをあんたは知ってるんじゃないのか。」
一斉に視線が集まる。
ルーシーは小さく息を吸った。肩はわずかに強張るが、目は伏せない。
「ここで行われる成人の儀は、本来“祝福”の儀式です。」
その一言で、洞窟の空気がひやりと冷えたように感じられた。
「成人の儀では、霧の聖女の加護を授かります。水の守りと、災厄から身を退ける術を。」
「退ける、か。」
メナスが静かに繰り返す。
「はい。ただし――」
ルーシーは言葉を選ぶ。喉がわずかに鳴る。
「これはあくまで、一部の間で囁かれている異伝ですが。“聖別”を与える本儀があるとされています。」
リオンの眉が上がる。確かに、経典を含めた公的な文書で見た覚えはない。
「聖別――ということは、選び、力を与えると?」
誰の声か分からない、低い呟き。
洞窟の奥から、細い風が流れ込む。まるで、その言葉に応じるように。
ルーシーは小さく頷く。
「本儀は、“器”を用いて行うと伝えられています。」
リオンの脳裏に、あの杯が浮かぶ。
「地下祭壇にて特別な媒介を通し、水を飲ませることで加護と対象者を結びつける。祝福というより――発現に近いと。」
「発現。」
ロンが低く繰り返す。
「ええ、明確にいつか来る明日の姿を見る力を得られると言われています。」
「メナス。あんた、知ってたの?」
リディアの声は鋭い。外れている部分も多いが一部の内容を言い当てていたのは事実だ。
「宗教史は学問の一部だ。珍しくもない。もう少し勉強するんだな。」
軽く肩をすくめる。だがその目は忙しく動いている。
そして、そのまま頭に手を添える。思考が加速している。
「洞窟全体が術式だと仮定するなら、地下祭壇が中枢。上層は起動条件の確認。いや――」
言葉を止める。答えを口にするのを、ほんのわずか躊躇する。
「杯が本来、地下に安置されていたのだろう。それを誰かが持ち出した。」
リオンの胸がわずかに締まる。
「そして起動条件が満たされ、この回廊は閉じた。魔晶石の経路が切り替わり、出口を持たない迷宮になった。」
一息で話し終えると、メナスは指先でまだ頭をたたいている。
「そもそも起動条件って、何?」
リディアが言う。
「情報が足りないが、あの杯が鍵と仮定するのであれば――」
メナスは遠くを見る。まるで誰かが聞いているのを警戒するようなそぶりだ。
「例えばだが、一つの聖杯を使って何かを飲む儀式はないのか。礼拝でもいい。」
メナスは先ほどよりも声が小さくなる。視線が、ルーシーへと再び向けられる。
彼女は数秒、考え込む。
「婚礼の儀、です。」
ぽつりと落ちる。
「司祭、見届け人、新婦、新郎の順で、同じ杯に注いだ神酒を飲みます。」
洞窟に、わずかな静寂。
メナスが指を鳴らす。
「それだ。構造が近い。」
杯を媒介に、複数人の魔力と意思が循環する。連鎖的な起動条件。
ラルが腕を組む。
「なら、杯をもって本義を執り行い。終えられれば良いということだな。」
単純だ。だが、現状を打破するためには、現実的な選択肢である。
「完遂できればな。」
ロンが低く付け足す。
リオンの胸の奥では、別の疑念が膨らむ。
――そもそも誰が杯を持ち出したのだろうか。
方針がまとまり、ようやく進むべき道が見えかけた、その時。
洞窟の奥から、鋭い悲鳴が響く。短く、途切れ、押し潰されたような声。
「――!」
次の瞬間には、メナスとリディアが弾かれたように走り出していた。
声を聴くと同時にはじかれるように声のした方に走り出す。
この洞窟の中には、未知の敵勢力がいる。
芽理の宮の探索隊の残りのメンバーが襲われたのであろう。
リオンが、一拍遅れて追い始める。ラルとロンはさらに後方だ。しかし、イヴだけが二人へ追いつく。
息が肺を焼く。靴底が石を蹴る。魔晶石の青白い光が、走る影を断続的に照らす。
曲がり角を抜ける。空間が開けた。ぼう、と光る洞窟の中。静止した空気。
床に転がる三つの体。
そして、その傍らに――見覚えのない若い男。
遅かった。その感覚が、冷水のように全身を巡る。
男は無言だった。息も乱れず、血を吸い込んだような鈍く光る剣を握る。
その刃が、ゆっくりと倒れている一人の首元へ。
横に滑る。肉を裂く、湿った音。赤がじわりと広がる。
三人は動けない。飛び込めば間に合う可能性は高い。
だが、男は“待っている”。
剣の角度。足の開き。視線の余白。わずかに踏み込めば、即座にこちらへ刃が向く。飛び込めば、もう一人倒れる。その可能性は高い。
男は淡々と次へ移る。抵抗できない研究者の喉元へ、刃を当てる。
まるで儀式のように迷いなく、横へ引く。
ロシュフォードだった。
最後まで目を見開いたまま、何かを言おうとしたように口が動く。だが声は出ない。
イヴはナイフを構えながら横目でメナスたちを見る。
メナスの声が響く。魔法の詠唱に入る。リディアは、腰の細い剣を抜く。メナスのサポートに入る構えだ。
相手は、こちらを見ている。あの霧の中の目とどこか似ている。
ロシュフォードの身体の動きが完全に止まる。
男の視線が、ゆっくりとこちらへ向く。
その瞬間。イヴの視界が、すっと暗くなる。
光が遠ざかり、音が沈む。冷たい感覚が、首筋をなぞる。
――また。これで3度目になる。
その言葉が、思考の奥で形になる前に世界が暗転した。
割と遅筆です。エピソードを一つ書ききったら、週1で投稿します。
何かあれば、感想の所かXのDMでご連絡いただければ幸いです。
→ https://x.com/feally_leaf
あとがきで、何かしらの設定を1話ごとに描いておきます。
08 リディア・イライナ
年齢17歳。ネラート領出身の女性。芽理の宮に所属する実践閥の修士であり、今回はその腕を買われ、メナス・リドルの護衛として同行している。
一般家庭の生まれで、溺愛している二歳年下の弟が一人いる。生まれたネラート領では騎士団員に対して魔法の素養を重視している。そのため、従騎士としての実地訓練の一環として芽理の宮での勤務が求められている。リディアは魔術理論の理解が早く、吸収力にも優れているため、将来有望な騎士候補として名前が挙がっている。多くの経験を積ませる目的で様々な案件に派遣されている。
戦闘では細剣を主武器とし、理学魔法に加えて精霊魔法も扱う。光、熱、音といった現象を操る精霊魔法によって敵の注意や視界を乱し、その隙を突いて細剣で仕留めるのが基本戦術である。魔法と剣技を組み合わせた技巧的な戦い方を得意とするが、防御を重視した持久戦の展開にはやや弱い面も持つ。




