05 回帰
崩落の轟音が、ようやく止んだ。
重苦しい静寂の中で、リオンは反射的に目を開く。
視界には、ゆっくりと落ちていく粉塵。耳鳴りが、まだ残っていた。
自分の姿を見下ろすと、膝をついたまま、剣に体重を預けている。柄に食い込む指先の感覚に違和感はない。
おかしい。腹を穿たれたはずだ。影に貫かれ、熱が走り、血が溢れ、膝から崩れ落ちた。
あの温もりも、力の抜ける感覚も、あまりにも鮮明だった。
そっと息を吸い込む。粉塵が喉に入り、思わずむせ返る。咳が胸を震わせる。
だが、その痛みは“生きている者”のそれだ。
腹に手を当てる。
――傷がない。血もない。衣は破れてすらいない。
白昼夢でも見たのか。
だが、あれは夢と呼ぶにはあまりにも具体的だった。仲間の声、鉄の匂い、血の温もり。すべてが現実の重さを持っていた。
周囲の様子に目を配る。
ラルが、ゆっくりと立ち上がろうとしている。
ロンは周囲を警戒するように視線を巡らせている。
「リオン様」
すぐ近くから、イヴの声が届く。
その声が、思考の世界から現実へ引き戻す。やや心配の声色。崩落の直後だからこそ、彼女らしい気遣いだ。
混濁した思考のままではあるが、立ち止まる余裕はない。
鼓動が、やけに速い。再び腹に触れる。やはり、何もない。
「……全員、無事か。」
低く、やや掠れた声。自分でも驚くほど弱々しい響きだった。
「天井の崩れ方が甘い。危険かもしれん。」
ラルが、返事の代わりのように言う。短く、端的に。
「先ほどの衝撃で、構造に歪みが出ていますな。一旦ここから離れるべきでしょう。」
ロンが壁に手をつき、感触を確かめながら告げる。
二人は、いつもそうだ。自ら最善を判断できる力を持ち合わせている。
だが、決して越えない一線がある。仕える身として、最終の決断は主に委ねる。
その在り方は忠誠であり、同時に重圧でもある。
イヴは一歩前へ出て、周囲を睨むように見つめている。
その背中が、ほんのわずかに強張っていることに、リオンは気づいた。
「隊列を詰める。前列はラルとイヴ。ルーシーは俺の後ろ。ロンは最後尾からフォローしてくれ。」
自然と指示が口をついた。考えたというより、身体が動いた感覚に近い。
曖昧な不安を打ち消すには、具体が必要だ。
位置。役割。動線。それだけで、心はわずかに安定する。
「……嫌な、感じがします。さっきより、濃い。」
ルーシーの言葉に呼応するかのように。
壁から、天井から、地面の隙間から白い霧が、じわりと滲み出す。
粉塵とは違う。重く、湿り、どこか粘り気を帯びて広がっていく。意志を持つかのように。
先ほど見た光景と、酷似している。
――あれは、夢ではない。
再び胸の奥で混乱が渦を巻く。
「霧……ね。警戒してっ!」
イヴの鋭い声。ラルが盾を構えて応える。重厚な鉄が軋み、洞窟に低く響く。
イヴも短剣を抜き、霧の向こうを見据えている。
リオンは剣を握り直す。
先ほどの出来事は何だったのか。
夢か。幻か。いや――「加護」だ。
そう、決める。領主たる家に伝わる加護。霧の聖女に守られた者が、稀に垣間見るという未来の断片。
理屈は通らない。
だが、理解不能のまま抱えるよりも、信仰に近い形で枠に収めた方が切り替えられる。
霧が、ゆっくりと揺れた。風もない洞窟の奥で波紋のように歪む。
視界に映るのは白一色。だが、その奥に“いる”。
「何か、来る」
リオンは低く告げた。
声は不思議なほど静かだった。胸の内で荒れ狂う鼓動とは裏腹に、言葉だけが冷えている。
ラルは何も問わず、盾を構える。
鉄と革の重みが両腕に沈み、足裏がわずかに岩を捉え直す。老騎士の呼吸は一定で、恐怖が入り込む隙はない。
長年積み重ねた経験が、感情より先に身体を支配している。
「イヴ、左寄りを注視してくれ」
ラルが短く指示を出す。盾でカバーするが故に盲点となる位置。その声には迷いがない。
イヴは答えない。ただ、重心をわずかに左へ移す。
霧の揺れを読むために、視線を細める。呼吸を浅くする。耳に入るのは、滴る水音と仲間の衣擦れだけ。
次の瞬間、霧が内側から動いた。白んだ霧の奥から、黒い何かが疾走する。
質量を持った“影”。床を蹴る気配すら感じさせず、ただ距離だけを詰めてくる。
ラルの盾に、鋭い衝撃が叩きつけられる。鈍い金属音とともに火花が散り、橙の光が一瞬だけ霧を照らす。
重心が低く、打点は正確。力任せではなく、盾の縁を狙う角度が手練れの戦士のようであった。
イヴは音のした一点へ、迷いなくナイフを投げる。
放たれた刃は空気を裂き、霧の中へ吸い込まれる。
――甲高い金属音。何かに弾かれた。続けて、刃が床を転がる乾いた音。
だが、その一瞬で影がわずかに退く。
距離を測り、反撃の余地を潰す。
イヴはすでに次のナイフに手を伸ばしている。感情は表に出さず淡々と次に備えている。
リオンは剣を構えたまま、意識的に呼吸を整えた。
浅くなりがちな息を胸の奥まで落とす。肺が霧と湿気で重い。
それでも、ここで呼吸を乱せば判断が鈍る。
――見えない。相手の姿も、持つ武器も。
いや、それ以前に、体格すら掴めない。
リオンは視線を、ほんのわずかに下げた。
地を這うように、細い影が走る。蛇のように、音もなく。
「っ——!」
ラルの剣が唸りを上げて空を切る。
手応えはない。刃は霧を断ち、岩肌に火花を散らしただけだ。
霧の流れが乱れ、影の輪郭が一瞬だけ崩れた。
再び、金属音が響く。ラルの盾越しに、圧が伝わる。
鉄が軋む音。老騎士の足が半歩下がる。
「……重いな。この動きは、手練れだ。」
低い呟き。
攻撃の角度、反応の速さ、武器のうち落とし、引き際の判断。
それらを一瞬で束ねた、経験に裏打ちされた結論だった。
視界を奪う霧の下で、自分たちはあまりにも無力だ。
位置も距離も、相手だけが把握している。
この霧をどう打ち払うべきか。リオンが再び思考を巡らせかけた、その瞬間。
――ぱちり。
小さな炸裂音。続いて、衝撃が洞窟全体に走る。
イヴが投げたナイフが、壁面に埋め込まれた魔晶石を貫き、内包された魔力が弾けたのだろう。
霧が一瞬だけ押し流される。一行の視線が霧の流れへと奪われた。
――背後から気配がする。
振り返るよりも早く、ルーシーの声にならない息が漏れる。
嫌な予感が全身を貫く。
即座に振り返ったリオンの視界に飛び込んできたのは、白い衣。
その中央に、急速に広がる赤い点。
次の瞬間、ルーシーの身体が力なく崩れ落ちる。
「ルーシー!」
名を呼ぶ叫び声は誰の発したものであったか。
霧の奥、揺れる黒い影を視認するとロンが踏み込む。
その動きに躊躇いはない。彼の斧が横薙ぎに払われる。洞窟を震わせるような重い一撃。
――再び、金属音。
受け流された。力で受けたのではない。
刃の軌道をずらし、角度で殺す。
やはり、手練れだ。偶然で受けられるほどロンの攻撃は軽くはない。
洞窟の空気が、重く張り詰める。
隊列の穴を探り、反応速度を測る。まるで、こちらの力量を秤にかけるような攻撃。
リオンの喉がひりつく。
霧の奥で、気配が止まる。
こちらの変化を、測っている。そんな間であろう。
――ごろり。
背後で、石が転がる音。
正面に集中していた意識が、音に誘われる。
視界の悪さが、判断を遅らせる。
正面から、再び影。視認した時にはすでに距離が近い。
ラルの盾は、間に合わない。
「下がれ!」
叫びと同時に、ロンの斧が振るわれる。
空間を抉る、渾身の一撃。
薄くなっていた霧が、裂ける。
その一瞬。
――見えた。
細い輪郭。しなやかな体躯。若い女のような姿。
あまりにも、その力量から想像していた像とかけ離れている。
次の瞬間。
ロンの動きが、止まった。
斧を振り切った体勢のまま、固まる。
その背に、白い線が走る。一拍遅れて、血が滲む。
「……っ」
声にならない。膝が折れる。斧が岩を打つ鈍い音。
重い身体が、前のめりに崩れ落ちた。
「ロン様!」
イヴが踏み出す。
彼女を止める声は、間に合わない。
今度は真正面。霧の奥から、影が躊躇なく踏み込んでくる。
速い。迷いがない。
リオンは剣を突き出す。
相手の動きは速い。だが、見慣れてきている。
軌道に合わせこんだ一撃。確実に捉えた――はずだった。
だが、刃は空を切る。
ほんのわずか、ずれている。
影の動きは、こちらの選択をあざ笑うように先回りしている。
腹部に、衝撃が走る。冷たい。前回よりも、はっきりと。
「……読まれてたのか。」
掠れた声が、自分のものだと理解するのに、時間がかかった。
霧の向こう。ほんの一瞬。
白の奥に、女の姿が見えた気がした。
長い銀髪。感情のない目。軽さを重視した細い剣。
膝が落ちる。
イヴの叫びが、遠ざかる。
岩の冷たさが、異様なほど鮮明だ。
――やはり、人だったのか。
視界が白に飲まれ、やがて、暗転した。
割と遅筆です。エピソードを一つ書ききったら、週1で投稿します。
何かあれば、感想の所かXのDMでご連絡いただければ幸いです。
→ https://x.com/feally_leaf
あとがきで、何かしらの設定を1話ごとに描いておきます。
05 ラル・アリッツ
年齢51歳。ピシア領出身の男性。代々ピシア家に仕える筆頭騎士を輩出する名門の家系に生まれる。50歳で騎士団長の役職定年を迎えた後は、剣術指南役として多くの従騎士の育成にあたっている。
騎士として、多くの戦場を渡り歩いていた。特に20年前は領同士の緊張が高く、小規模な衝突が各地で起こっていた。騎士としての武勇だけでなく、戦局を読む力と軍略の才を示したことで頭角を現し、最終的には騎士団長の地位にまで上り詰めている。
二人の息子を持つが、一人は戦地で命を落としている。もう一人は晩年に授かった子で、現在は従騎士として修練を重ねている。
戦闘では片手剣と盾による攻防の均衡を重視した戦いを基本とし、状況に応じて槍を用いた攻撃的な戦法へと切り替える。長年の実戦経験に裏打ちされた、堅実で無駄のない戦い方を得意としている。




