04 襲撃
広がりつつある霧に、誰もが戸惑いを覚えていた。
崩落の直後までは、ただ瓦礫と粉塵に気を取られていた。だが、霧は、ゆっくりと、しかし確実に空間を侵している。
足元から這い上がり、膝を撫で、やがて腰の高さまで届こうとしていた。
イヴは即座に身を翻し、自身とリオンの無事を確かめる。冷静沈着を旨とする彼女の瞳が、わずかに揺れた。
ラルは視線を巡らせる。洞窟の壁、天井、崩れた岩の断面。空気の流れ、湿度、匂い――戦場で培った勘が、理屈よりも先に異常を告げている。自然発生ではない。そう断じるには十分だった。
ロンは天井を見上げたまま動かない。重装の鎧が軋み、小さな石片が兜を叩く音がやけに響く。落石の二次崩落を警戒しているのか。
そしてリオン自身も、状況を把握しきれずにいた。指揮を執る立場であるはずなのに、霧に包まれた世界は輪郭を失い、思考さえ曖昧に溶けていく。何かがおかしい。だが、その正体が掴めない。
「何かいますっ!」
ルーシーの金切り声が鋭く響く。
その一声が、凍りつきかけた時間を叩き割る。
全員の意識が一斉に引き戻され、散りかけた視線が中央へと収束する。
陣形が組まれる。
正面にラル。老いてなお衰えぬ騎士が盾となる。
左右にイヴとロン。機動と重撃、異なる性質の二人が両翼を固める。
中央にリオンとルーシー。
少しの間をおいて、霧の向こうから、小さな歌声が響く。
若い女の声に似ているが、感情が欠落しているのか無機質さが際立っている。
喉の奥で砕けた石を転がすような、不快な響き。
距離は近い。気づけば、音はすぐそこまで迫っていた。
「来るぞ。同士討ちに気をつけろ。」
ラルの声が、洞窟の壁に跳ね返り、重なり、何重にもなって耳に戻る。その反響が、かえって距離感を狂わせる。
わずかな沈黙。ほんの一瞬のはずなのに、時間は異様に引き延ばされる。
気が付けば霧は顔の高さまで立ち込めていた。
心臓の鼓動がやけに大きい。
霧が揺れた。気配が一気に迫る。
最初に狙われたのはロンだった。
甲高い金属音が霧の中で弾ける。
重装の鎧が確かに何かを受け止め、そして弾いた音。刃か、爪か、あるいはそれ以外の何かか。
正体は見えない。ただ、確かな衝撃だけが残響として耳に刺さる。
次の瞬間、霧の中で再び影が伸びた。
影は確かに人のような形をしていた。その影は、刃のように、細く、鋭い形を成す。ロンの首元に触れた。
一拍の静寂。そして、血が噴き上がる。赤が白い霧を染める。
重い身体が膝から崩れ、鎧が岩を打つ鈍い音が洞窟に転がる。
彼の巨躯は、それだけで壁であり盾だった。だが今は、ただ動かぬ塊となって横たわる。
「ロン様!」
イヴの声が裂ける。
常に冷静であった彼女の声音に、露骨な感情が宿る。
持ち場を離れ、膝をつく。血に濡れた岩に手を伸ばす。
その一歩。一瞬。それだけで、陣形は綻んだ。守りの輪が解ける。
誰が正面を担い、誰が背を預けるのか――その均衡が、崩れる。
敵の姿は見えない。
見えるのは、霧の中を滑る影のみ。いまだ輪郭もつかめない。確かに誰かがそこにいる。
霧はさらに密度を増していく。わずかな時間のはずなのに、視界はさらに奪われる。
「下がっておれ。」
低く、しかし揺るぎない声。ラルだ。
浮き足立ちかけたリオンの意識が、その一声で引き戻される。
幼い頃より剣を教わり、幾多の戦場を潜ってきた老騎士。
その声には、理屈を超えた重みがある。信頼とは、こういう不定の時にこそ形を持つ。
見えない何かが、正面から激突する。
凄まじい衝撃。ラルの身体が宙に浮く。
重い鎧ごと弾き飛ばされるなど、常識ではあり得ない。
その体がリオンへとぶつかる。肺から空気が強制的に押し出され、視界が白く弾ける。
岩肌に叩きつけられる鈍い音。ラルの盾が石を打ち、乾いた響きを残して転がった。
「ラル!」
叫んだのはルーシーだった。
白い袖が霧に溶ける。彼女の手は伸びるが、届かない。距離はわずか数歩。だが深い霧がその間を隔てる。
リオンは歯を食いしばる。指揮を執る者が、恐怖に呑まれるわけにはいかない。
だが胸の奥で、確かな焦燥が暴れている。
立ち上がる。剣を抜く。金属が擦れる音が、やけに鮮明だった。
霧の中で、影が再び揺らめく。
見えない敵へ、リオンは刃を構えた。
恐怖は、確かにあった。
だがそれ以上に、胸を締めつけていたのは、理解できぬという感覚だった。
なぜ、霧とともに襲撃を受けているのか。
なぜ、確かにあったはずの出口にたどり着けなかったのか。
なぜ、――
思考は走る。だが答えには届かない。
腹部に、熱を感じた。違和感だった。痛みではない。
身体の奥に、火の芯を押し込まれたような、異様な温度。
視線が落ちる。
霧の中から伸びた影が、いつの間にか身体を穿っている。
痛みは遅れてやってくる。内側を掻き回されるような、鈍く深い痛み。呼吸をするたびに傷口が広がる錯覚に、喉がひりつく。
温かいものが衣を濡らす。腹部からそれを抑える手、そして指先へと伝い落ちる。
血だ、と理解する。その理解だけが、妙に冷静だった。
イヴの声が聞こえる。必死に名を呼んでいるのだろう。だが音は水の底から響くように歪み、意味を持たない。
ラルの怒声も重なる。老騎士の怒りと焦燥が混じった叫び。だがそれも、どこか別の世界の出来事のように霞む。
霧が、白い。あまりにも白い。視界を埋め尽くすその色は、現実感を奪う。
こんなはずではなかった。成人の儀を終えた。従者と共に戻る。それだけのはずだった。
帰還し、城門をくぐる。父に報告する。誇らしげに、あるいは淡々と、儀式の結果を語る。
それが当然の未来だった。
――死ぬ?
その言葉が、心の奥でかすれる。
そんなはずはない、と。まだ、何も成していない、と。
まだ、守るべきものも。まだ、示すべき覚悟も、志も、形にしていない。
終わるには、あまりにも早い。
膝が崩れる。力が抜けたのではない。支えるという意思そのものが、身体から抜け落ちた。
岩の冷たさが、やけに鮮明だ。
背を打ち、肩を打ち、現実を告げるはずのその冷感が、逆に夢のように遠い。
白かったはずの霧が、黒く滲んで見える。
音が遠ざかる。
金属のぶつかる音も、怒号も。すべてが引き潮のように離れていく。
伸ばしかけた指は、何も掴めないまま宙を彷徨う。
助けを求めたのか。剣を探したのか。それさえも分からない。
ただ、空を切る。
視界が、ゆっくりと暗転していく。
割と遅筆です。エピソードを一つ書ききったら、週1で投稿します。
何かあれば、感想の所かXのDMでご連絡いただければ幸いです。
→ https://x.com/feally_leaf
あとがきで、何かしらの設定を1話ごとに描いておきます。
04 イヴ・サートニー
年齢19歳。ピシア領出身の女性。中堅の騎士家系に連なる分家筋の生まれで、現在はリオン・ピシアの直接の従者である。
幼少のころは、騎士になるべく従騎士として訓練していたが、筋肉量が増えにくい体質で純粋な力では劣ることが多い。その後は方針を変え、斥候としての訓練を重ねた。
リオンが16歳のときに出かけた狩りの最中、偶然彼と出会う。広い知識と状況判断の鋭さを見込まれ、「自らの目」として彼に雇われることとなった。
戦闘では投擲武器を用いた中距離戦を得意とし、必要に応じて短剣での近接戦闘にも対応する。基本的な筋力や身のこなしは一般的な騎士に劣る場面が多い。その不利を理解しており、戦場では地形や障害物など環境を活かした戦い方を得意としている。




