03 違和感と異変
成人の儀の由来や手順について、メナスからいくつかの質問が投げかけられた。
リオンは一つずつ答える。事実を。慣習を。家に伝わる解釈を。ひととおりの問いが尽きたのだろう。わずかな間が生まれる。
その隙を縫うように、メナスの背後から一人の男が顔を出した。先ほどの礼の折、頭を下げることなく周囲を観察していた男だ。
目つきは鋭く、場の空気に溶け込むことを拒むような立ち姿。
「リオン様。こちらの杯の印に見覚えは。」
声には、経緯を踏まえぬ直截さがあった。問いの形をとりながら、半ば確信を探る響き。
イヴが一歩前に出る。男から杯を受け取り、無言で検める。
縁の厚み、底の重さ、金属の響き。指先でなぞり、魔力の残滓を探る。
側面に刻まれた紋様は複雑に絡み合い、中心に一つ、家紋にも宗派章にも見えぬ印が据えられている。
模様を除けば、ただの状態の良い古い杯と断言できる。
イヴは無言で、杯をリオンへ手渡す。
リオンは、改めて目を落とす。
家にあった古い写本のいずれの頁にも、この印はなかったはずだ。だが――どこかで、見たような。初めて見るものではないような感覚がぬぐえない。
どこまで語るべきか。知らぬと言えば、それで終わる。だが、この既視感を隠すことが、正しいのか。
わずかな逡巡ののち、リオンは静かに首を横に振った。
「見覚えはありません。」
声は揺れなかった。確信できないことで場を混乱させるわけにはいかないという意思と共に杯を男へ返す。
「ロシュフォード。まさか、遺物を持ち出したのか。」
沈黙を守っていたメナスの声が、低く落ちる。怒鳴りつけるでもなく、ただ規律を踏み外した者を正す、冷えた響きだった。
ロシュフォードと呼ばれた男は、わずかに目を逸らすと、踵を返して後方へと駆け戻る。
その背にあるのは反省とは見えない。――執着。遺物を前にして知識欲が先行しているのだろう。
「申し訳ございません。遺物を持ち帰る意図はございません。私の名にかけて戻すことを誓います。」
深く、深く、メナスは頭を下げる。その姿は誠実そのものだ。
だが、リオンの胸中には小さな棘が残った。
この男もロシュフォードと本質的には変わらないはずだ。知識に操を立てる者たちの誓いとは、神へ立てるものか。それとも、己の信念なのか。
探究を至上とする者にとって、神前での誓約にはどれほどの重みを持つのだろうか。
「ああ、頼むよ。儀式は終わった。俺たちは戻る。」
波を立てぬよう、言葉を短く切る。感情を挟めば、余計な亀裂が入る。
「我々は、もう少し調査を続けます。どうぞ、道中お気を付けください。」
互いに軽く手を挙げ、それぞれの道へと分かれる。
振り返ることなく歩き出しながらも、背に注がれる視線は感じていた。
杯の紋をめぐる、あの微かな違和。その余韻が、まだ空気に残っている。
入口――いや、今は出口へと向かう道。
リオンたちは来た道を戻っている。
一度通ったはずの道。だが往路と復路では、景色の向きが逆になる。
一度見たはずの岩壁が、まるで初めて見るもののように映る。既視と未視が重なり合う、曖昧な感覚。
湿り気を帯びた空気が、じわりと衣にまとわりつく。足音だけが、やけに響く。
出口まで半分ほどは歩いただろうか。
「――リオン様」
後方から、ルーシーの声。
「どうした?」
振り返ると、彼女は胸元で手を重ねたまま、わずかに眉を寄せていた。
「どこか、祈りが――薄い気がします」
小さな声。怯えというより、戸惑いに近い。祈りが薄い。その言葉の意味を、リオンは解釈する。
神域に満ちるはずの、あの静かな圧。祝福にも似た、澄んだ重み。それが、確かに希薄だ。何かが起こる予感と言い換えてもよい。
遠くで水滴が落ちる音だけが、時を刻む。
帰り道を歩いてみて気づいたことがある。ところどころに身を潜めるような窪みや空洞がある。
獣の住処として使えそうな場所も少なくない。湿度は十分。水もある。
それなのに、まるで生き物の痕跡がない。ないことそのものが、異様といえる。
「大丈夫さ。あとは戻るだけさ。」
自分に言い聞かせるように、言葉を絞り出す。
不安を口にすれば、それは形を持つ。形を持てば、群れの中で増幅する。領主という指導者になるということは、答えが見えないときこそ、揺らがぬ姿を見せることだ。
ロンがしきりに振り返り、道筋を記憶と照合している。眉間に皺を寄せ、岩の裂け目や床のひびを確認する。
先頭を行くラルとイヴは、無言のまま周囲を警戒していた。主を害する何かが潜んでいないか。視線が絶えず動く。
歩みは一定。だが、時間の感覚だけがずれていく。そろそろ、あの淡い外光が見えてもいいはずだ。
誰もが同じ疑念を抱き始めている。足取りの僅かな重さが、それを物語っていた。
だが誰も口にしない。その言葉を発した瞬間、今の状況が“異常”であると認めることになる。
話題にした途端、それは現実になる。
まるで、出口の光そのものが、言葉に触れれば消えてしまうかのように。
水滴が、また一つ落ちた。その音が、やけに近く感じられた。
あれから、どれだけ歩いただろうか。
足は確かに前へと進んでいる。石を踏み、湿った地を踏みしめ、息を吐き、また吸う。その繰り返しである。
だが、洞窟はまるで彼らを嘲るかのように、出口の気配をいっこうに示さなかった。
外界から差し込むはずの淡い光はなく、ただ魔晶石の淡青の燐光が、脈打つように岩壁を照らしている。
その光は、むしろ視界の奥を歪め、闇を深くする。
「リオン様。ここに先ほど付けた傷が―」
ロンの低い声が、湿った空気を震わせた。
分岐部の壁面。湿った岩肌に刻まれた浅い裂傷。刃で引いた印は、確かに彼らが残したものだ。
指先でなぞれば、まだ新しい石の粉が崩れ落ちる。
歩いても、歩いても――同じ場所へと戻っている。胸の奥が、ゆるやかに冷えていく。
「これは――洞窟が変化している?」
イヴの声は冷静だ。だが、長い時間を彼女と共にしたリオンにはわかる。
その均された声の奥に、ほんのわずかな硬さが混じっていることを。
「先ほどの探索の者たちが、何らかの事態を引き起こしているやもしれませぬ。」
ロンが淡々と告げる。推測に過ぎぬが、無視できぬ可能性だ。
これほどの数の魔晶石が、壁や天井に埋め込まれている洞窟である。
視界を欺き、真の道を覆い隠す。あるいは空間そのものを歪んでいるのかもしれない。
そのようなものを実現する魔具や仕掛けが存在しても不思議はない。
「少し隊列を詰めよう。壁面を確認しながら進もうか」
リオンは短く告げる。判断の迷いは、声に乗せない。距離を詰め、孤立を防ぐ。
目が欺かれるなら、壁を直接触れて確かめながら進めばいい。岩の冷たさ、地の傾き、空気の流れ。五感のすべてで道を測る。
互いの肩が触れるほどに身を寄せ、慎重に踏み出した――その刹那。天井が軋んだ。
嫌な音だ、と認識するより早く、石が落ちる。
「退け!」
ラルの怒号。耳に入って理解するよりも早く、天井が崩落する。
轟音が洞窟を満たし、世界が砕けたかのような衝撃が全身を打つ。
視界が白く弾け、肺に粉塵が流れ込む。耳鳴りが残響と混ざり、上下の感覚が曖昧になる。
少しの時間ののち、崩落の音が収まる。
リオンは膝をつきながらも、剣を支えに立ち上がった。
まだ動く。まだ立てる。
無事を確認しようと声を発しかけた、そのとき。ぞわり、と背筋を何かが撫でた。
空気が変わる。それは風でも、冷気でもない。
――生きているものの、気配。
巻き上がった粉塵とは別に、洞窟の壁から白い霧が滲み出していることに気づく。
粉塵によく似ている。だが、その動きは緩慢で、意志を持つかのように広がっていく。
割と遅筆です。エピソードを一つ書ききったら、週1で投稿します。
何かあれば、感想の所かXのDMでご連絡いただければ幸いです。
→ https://x.com/feally_leaf
あとがきで、何かしらの設定を1話ごとに描いておきます。
03 芽理の宮
ネラート領に本拠を置く芽理の宮は、ルテイア連合国における魔術と学術、教育の中心機関である。魔法学や魔法工学だけでなく、物理学・錬金学・哲学・医学・政治学など多岐にわたる学問が研究され、四年の教育課程を通じて専門知識を備えた人材を各領に輩出している。
組織は知識・探求・実践の三大学派に分かれ、各学派の頂点には賢人が立つ。その下で組織を動かす導師が実務を統括し、職員の修士が存在する。さらに各学問分野の最優秀者は学宰と呼ばれ、学派を超えて学問全体を統括する。学派ごとに異なる思想を持ち、知識派は理論の体系化を重んじ、探求派は未知への挑戦に身を投じ、実践派は学問を現実に応用することを使命としている。
歴史的には、優秀な人物を輩出するがゆえに貴族社会との癒着構造が出来上がっており、学問と政治の双方で大きな影響力を持つ。学問の自由と秩序を信条とし、信仰すら研究対象とするため、時にはピシア教出身者との権力争いに巻き込まれることも少なくない。




