18 脱出
崩落は、轟音というよりも、地の底から這い上がるような低い唸りだった。
石段を駆け上がる足音が重なる。背後で、より大きな崩落音が響く。誰も振り返らない。振り返れば、足が止まると分かっている。
「もうすぐ登りきるぞ。」
先頭のリオンが、短く告げる。
戦闘直後の階段は、想像以上に体に堪える。脚は重く、肺は焼けつく。喉がひりつく。それでも、動く。
理屈ではない。命の危機を、肌が理解している。
リオンの一言は、最後の踏み込みを後押しした。
崩れかけた段を蹴り、手を伸ばし、ついに上層へと抜ける。
背後から賊が追ってくる気配はない。肩で呼吸をしながら、全員がわずかに間を置く。
もともと出口を見つけられず、祭壇から地下へと進んだ。戻るべき道も、確かな保証はない。
この層でも崩壊は進んでいる。天井から粉塵が降り、石が軋む。
そのとき。近くで轟音とともに崩落が起きる。石が飛び、瓦礫が跳ねる。
思わず目を閉じる。衝撃が止み、耳鳴りが残る。このまま留まるのは危険だ。
迷いが生まれかけた、そのとき。
「――光。」
イヴの声が低く落ちる。視線の先。先ほどの崩落で、天井が裂けるように割れている。そこから、淡い外光が差し込んでいた。
砂煙の向こう、確かに空の色がある。
崩落が生んだ、偶然の出口。
「行くぞ。」
リオンが即断する。瓦礫を踏み越え、崩れた傾斜をよじ登る。ロンを背負ったラルが歯を食いしばり、ルーシーが支える。メナスは最後尾で周囲を警戒する。
押し出されるように、地上へと転がり出る。
冷たい外気が肺に流れ込む。
次の瞬間。背後で洞窟の口が崩れ落ちた。土煙が空へ立ちのぼる。
誰も歓声を上げない。ただ、互いを見た。
立っているか。呼吸をしているか。
それを視線で確かめる。崩れた洞窟は、静まり返っている。
生き延びた。その事実だけが、確かだった。
「動ける者から、こちらへ。」
リディアの声は、崩れた洞窟の前に広がる冷たい外気の中でも、はっきりと通った。夕刻まではまだ時間がある。淡い青空が、戦いの余韻を静かに包んでいる。
ルーシーはすでにロンの傍らに膝をついていた。洞窟の中で受けた深手。治療再開している。
リディアは傷の軽重を見極めながら的確に処置をする。
水で傷口を洗い流すと、土と血が混じった濁りが流れ落ちる。術式の描かれた布地を手早く巻きつける。
「自分で回せるなら回して。無理はしないで。」
魔力を扱える者には、最低限の補助のみ。魔力を出せない者には、リディアが直接掌を当て、内側から循環を促す。
やがて、荒かった呼吸が整い、呻き声が静まる。
それは、戦闘の終結を実感させる時間だった。剣の衝突音も、魔法の爆ぜる音も、もうない。
その静寂の中、リオンは岩に背を預け、治療を受けていた。全身に無数の裂傷がある。
「動かないでください。」
リディアが布を巻きながら、淡々と告げる。痛みを抑える応急処置から傷そのものの修復へ。魔術の深さに感慨にふける
そのとき、足音が近づいた。
「リオン様。」
アレンだった。調査員の中でも成人の儀であったときに最も深く礼を尽くした男。だが、今は言葉を選びかねている様子だった。彼の後ろにはメナスが立っている。
アレンは両手で、儀式用の剣を差し出した。
装飾は華美ではない。だが、刃は澄み、柄には古い紋章が刻まれている。長い年月、祭壇に捧げられてきた品であることは一目でわかった。
「これは?」
「本儀の祭壇傍にございました。戻る際に――せめて、これだけでも。と。」
アレンは深く頭を下げる。調査対象でもあった聖地の洞窟を守れなかったこと。その重みが、肩にのしかかっているのは明らかだった。
リオンは剣を受け取り、静かに刃を眺める。
「杯は、持ってこれなかったか。」
無意識にリオンの口から漏れた言葉。
あの杯の水を口にした瞬間、確かに未来の断片を見た。あれは単なる儀式具ではない。芽理の宮にも、ピシア教にも、価値のある遺物だったのであろう。
術式が道中で発動していた事実を考えれば、なおさらだ。
儀式用の剣よりも杯を取る。自身がアレンであればその選択を取っていただろう。
アレンは言葉を失う。代わりに、メナスが一歩前へ出た。
「杯は、あの環境の中では確認できませんでした。」
曖昧さのない報告。メナスは手振りでアレンを下がらせる。
「リオン様。思うところはおありでしょうが――」
“命があっただけ良い”——その言葉を、メナスは飲み込んだ。
彼自身、調査員を二名失っている。下手に言えば、この若き次期領主へ嫌味にも聞こえる。言葉として適切ではない。しばし沈黙が落ちる。
「いずれで構いません。芽理の宮に学びに来られてはいかがでしょう。」
メナスは懐から一枚のコインを取り出す。魔鉄と呼ばれる特殊素材で作られた、重みのあるものだ。表面には複雑な紋様と、裏面に芽理の宮の紋章が刻まれている。
それをリオンの手に置く。
「この金盤を芽理の宮の者に示せば、あなたの望む物が与えられます。」
芽理の宮は魔術の中心地であると同時に、学問、戦術、政治、歴史、あらゆる分野において最高峰の教育機関でもある。
リオンは領主となる立場にある。
戦場での盤面を読む力はある。剣術も努力で磨いてきた。だが、先の戦闘で明らかになったのは、積み重ねた努力では役に立たなかったという事実である。
与えられる経験をこなすだけでは、届かない高みがある。芽理の宮は、そこへ向かうための場所でもある。
リオンはすぐには答えられなかった。
視線を落とし、崩れた洞窟の跡を見る。岩の奥には、杯だけではない何か——過去の象徴のようなものが埋もれている気がした。
手の中の金盤が、ひやりと重い。
「少し、考えさせてください。」
それだけを告げる。メナスは、静かに頷く。
少し離れた岩陰。ラルは腕を組み、イヴを正面から見据えていた。
「――聞きたいことがある。」
周囲に聞かせる気はないのが伝わる低く抑えた声。
イヴはわずかに顎を引き、背筋を伸ばす。彼女はラルと同じリオンの護衛として同行している。
だが、ラルは領主に仕える騎士であり、イヴはリオン個人に仕えている。
主は同じ領内にあるが、忠誠の向きは違う。だからこそ、この会話は必要だった。
「――ロシュフォードは杯の水を飲んで、何かを見ていたようだな。」
確認の形をとっているが、推測ではない。観察を積み上げた上での言葉。
「ええ。終始、何かに怯えていましたね。」
イヴの声は平坦だ。事実だけを置く。ラルの視線がわずかに鋭くなる。
「イヴ。お前は何かを見たのか。」
ほんの一瞬、イヴの呼吸が止まる。だが表情は変わらない。
確かに杯の水を飲んだ後、景色を見た。それが未来か、ただの幻視かは分からない。そもそも、杯の水が引き金だったという確証すらない。
「私は特に何も。見ていません。」
イヴの回答は嘘ではない。断言もしていない。ただ“見たと断定できるものはない”という意味での否定。
「では、なぜ。杯の水をリオン様に飲ませた。」
ラルの問いは静かだが、核心に触れている。
イヴは視線を逸らさない。
「本儀と呼ばれるものがあれば、対象にリオン様が含まれるはずです。」
合理的な説明。だが、動機の確信が足りない。故にラルは退かない。
「あの切迫した状況で、飲む意味は。得られるものがあると分かっていなければ、割に合わない。違うか。」
理詰めだ。感情ではなく、判断の妥当性を問う。
「そのような意図はありません。」
イヴの声にわずかな硬さが混じる。答えには不十分。
なぜここまで追うのか。
ラルは一歩、距離を詰める。声はさらに小さくなる。
「お前とリオン様だけが、特別な条件を満たした可能性はないか。そして、あのロシュフォードも。」
条件――血筋か。資格か。信仰か。あるいは“覚悟”か。あるいは、杯そのものが選別をしていたのか。
ロシュフォードは明らかに怯えていた。リオンは沈黙したまま、何かを飲み込んだような顔をしていた。
自分はどうか。理解したふりをして、整理できない違和感を胸に押し込めただけだ。
「――わかりかねます。」
少しの沈黙ののち、イヴは絞り出すような返答する。
ラルはしばらく彼女を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「わかった。信じよう。」
だが、その後に続いた言葉は重い。
「あの杯の中に水が入っているように振る舞ったのは、ロシュフォードとお前、それとリオン様だけだ。」
イヴの瞳がわずかに揺れる。
「――どういう意味ですか。」
「周囲から見れば、杯は空だった。」
淡々と告げられる事実。
誰もが青白く光る水を見ていた――そう思い込んでいた。だが実際には、三人だけが“何か”を口にしていた。
他の者からは、空の杯に唇をつけているようにしか見えなかったのだとすれば。疑念が生じるのは当然だ。
では、自分たちが飲んだあの水は何だったのか。存在したのか。選ばれた者にしか見えないものだったのか。
言外の警告は明白だった。証明できない現象が起きている。軽率に語るな。筋の通らない説明をするな。必要なら、今のうちに整えておけ。
同行していたロンは疑い深い男だ。回復すれば、必ず探りを入れてくる。
ラルが単独で来た意味。それは、問題を拡大させないための先手だった。
「――忠誠は疑っていない。」
最後に、そう付け加える。それは慰めではない。
「承知しています。」
イヴは静かに頷いた。
「何もないことを祈る。」
ラルは、それ以上踏み込まなかった。断定できる証拠はない。ただ、何かが起きている確信に近い違和感だけが胸に残る。
リオンへと視線を移した。入る前と今とで、顔つき、判断基準、行動力が急激に変化していた。まるで、何度かの戦場の経験を詰め込んだような成長。それが何かを、
「――忠誠は疑っていない。」
最後に、そう付け加える。それは慰めではない。事実確認の一部だ。
「承知しています。」
イヴは静かに頷く。理解できない現象の中心に自分が立っている可能性は否定できない。
「何もないことを祈る。」
ラルはそれ以上踏み込まなかった。証拠はない。ただ、強い違和感だけがある。
視線をリオンへと移す。
洞窟に入る前と、今とでは明らかに違う。判断の速さ。戦場での指示。迷いの削ぎ落とされ方。自身が知っているリオンの経験の量と噛み合わない。
その違和をラルはまだ言葉にできなかった。
西の空が、ゆっくりと赤に沈みはじめていた。
洞窟の崩落跡はすでに静まり返り、粉塵も風に流されつつある。
応急処置はひととおり終わった。ルーシーとリディアの魔法が行き渡り、重傷者は命をつなぎとめ、軽傷者も最低限の動きは取り戻している。
だが、それは“立てる”というだけの話だ。疲労は残る。血も失っている。精神の摩耗は、なおさらだ。
メナスとリオンは、少し離れた場所で向き合った。
言葉は多くない。互いに戦場を共にし、生き延びた。それだけで、必要な理解は共有されている。
メナスが先に右手を差し出す。リオンは一瞬だけ目を細め、それを強く握り返した。握手は短いが、固い。
「ご無事で。」
「そちらも。」
それだけだった。
杯のことも、崩れた祭壇のことも、頭目の女の行方も、今は語らない。
語るには材料が足りず、そして何より、互いに疲れ切っている。
メナスはわずかに頭を下げる。その仕草は、社交辞令ではない。実戦を共にした者への敬意だ。リオンもまた、同じ角度で応じる。
帰る先は違う。
だが、いずれ再び交差する可能性を互いに感じていた。
割と遅筆です。エピソードを一つ書ききったら、週1で投稿します。
何かあれば、感想の所かXのDMでご連絡いただければ幸いです。
→ https://x.com/feally_leaf
あとがきで、何かしらの設定を1話ごとに描いておきます。
18 成人の儀
他領には同様の慣習は存在せず、ピシア領の文化と政治体制を象徴する行事の一つである。儀式は十八歳になる年に行われ、日常から切り離された特別な環境に身を置くことで自らの在り方を見つめ直し、認識と覚悟を新たにすることを目的としている。
宗教的な観点から見れば、本来この儀式はピシア教の次期教主となる女系の後継者こそが受けるべきものである。しかし、実際には儀式の対象は男系の後継者に限られており、大きな矛盾が存在している。そのため成人の儀は、宗教的な祝福を象徴する行事であると同時に、政治的意味合いの強い儀礼として扱われている。
実際にピシア家は宗教的象徴として特別な立場にあるが、政治や軍事の実務においては有力な名家が複数存在する。そうした勢力の中で正統性を保つためには、領主となる者が特別な資質を持つ存在であると示す必要があり、次代の領主に権威を与える政治的装置としての役割も担っている。




