11 本儀
地下へ続く階段は、異様なほど静かだった。
誰も言葉を発さず、松明の揺れる光だけが石壁をなぞっている。足音は確かに響いているはずなのに、その余韻はどこか途中で消えてしまうように薄い。
途中、壁に埋め込まれた淡い光を放つ魔晶石の前で、メナスが足を緩めた。
「――この魔晶石の性質をご存じですか。」
唐突な問いだった。だがその声もまた、奇妙なほど広がらない。
リオンは眉をわずかに寄せる。
「何が言いたい。魔晶石は魔力を蓄えて光を放つ。そう言うものだろう。」
答えたのはロンだった。声には明確な警戒が混じっている。
メナスは振り返らない。指先で結晶の表面をなぞりながら、静かに言葉を続けた。
「ええ、魔力を蓄えるのは事実です。ただし、それは用途の一つに過ぎません。」
結晶の内部で、細い光が一瞬だけ走る。
「術式を刻めば、蓄えた魔力の性質を変えることができます。火を生み、水を流し、風を動かす。そうした現象も可能です。」
指先が止まる。
「ですが術式が無ければ、ただ光を放つだけ――そう思われがちです。」
短い沈黙。遠くで、水滴が落ちる音がひとつ響いた。
「しかし魔晶石には、もう一つ性質があります。」
メナスの指が、結晶の縁をゆっくりとなぞる。
「周囲の魔力と接続する性質です。目には見えませんが、結晶は細い経路を張り巡らせ、周囲の魔力へ触れようとする。」
その言葉に、リオンは以前の説明を思い出す。
魔力の流れが変わった、とメナスは言っていた。
「特に、強い魔力を持つ者が近くにいれば――」
足音が止まる。
誰もが自然と呼吸を浅くする。
「その者の魔力を、少しずつ吸い上げます。」
洞窟の光が、かすかに揺れたように見えた。
メナスは、手近の大きな魔晶石に掌を当てる。
「例えば――強い魔力を帯びたまま触れれば、経路は強化されます。」
光が、指先から結晶へと走る。
目に見えなかったはずの“経路”が、今だけははっきりと浮かび上がる。
糸のように細く、しかし複雑に絡み合った魔力の網。壁の奥へ、さらに奥へと伸びている。
「こうして――“はがす”ことも可能です。」
メナスの指がわずかに動く。パキリ、と。乾いた音が、今度は確かに響いた。
反響は短い。吸われるように消える。
石が砕けたわけではない。だが魔晶石は、まるで根を抜かれた植物のように、壁から静かに外れた。
結晶がメナスの掌に収まる。
同時に、周囲の光がほんのわずか弱くなった。見えない網の一部が断たれた――そんな感覚が場に広がる。
取り外された魔晶石の光は、むしろ強くなっていた。
「――なにをした。」
ロンの声が低くなる。その声に警戒の色が強くなる。
「魔力を流し込んだだけですよ。」
メナスは淡々と答え、結晶の側面に小さな刻印を刻み始める。
「未加工の魔晶石は、魔力を溜め込む効率があまり良くありません。」
刃の先が石に触れる音が、かすかに鳴る。
「それでも、この洞窟ではどこを歩いても光が灯っている。」
刻印が半分ほど刻まれたところで、メナスは言葉を続けた。
「つまり――」
リオンの喉が鳴る。嫌な予感が、形を持ち始める。
「すでに誰かの魔力を吸っている。と?」
絞り出すような声。
「その通りです。」
言葉の意味が、ゆっくりと染み込む。
「例の不審者によるものとみて間違いないでしょう。」
刻印が完成する。魔晶石の光が消える。メナスはそれを袖の中へ収めた。
「少なくとも、この場にいる我々の誰よりも強い魔力を持つ者が、この洞窟を通っています。」
その重さを破ったのは、ラルだった。
「杯の異変も含め、事情を把握しているなら――」
視線が階段の下へ向けられる。
「この先で待ち構えている可能性が高い、ということですな。」
誰も否定しない。
こちらは十名。相手は三名。数では優位だ。
だが、質はどうか。少なくとも、魔法の専門家たちがいるにもかかわらず、魔力においては劣る可能性がある。
その事実が、空気をわずかに張り詰めさせる。
芽理の宮の調査員たちが、懐から筒や杖を取り出す。
革と金属が擦れる小さな音が、静かな階段に散った。誰も言葉を発しない。
だが全員が理解していた。この先にある対峙の可能性を。
地下祭壇の空気は、階段を降り切った瞬間にはっきりと変わった。
湿った洞窟の匂いは薄れ、代わりに削り出された石の乾いた冷気と、わずかな鉄分を含んだ水の香りが漂う。
「――ここが、本祭壇か。」
誰かの呟きは、驚くほど反響しなかった。
声は壁に当たる前に、空間そのものに吸い込まれるように消える。音が留まることを、この場所が拒んでいるかのようだった。
広間はほぼ円形だった。
天井は高く、崩落の痕跡はない。岩肌は粗いが、削られた線には一定の規則がある。自然に生まれた洞窟というより、明確な意図をもって掘り出された空間だった。
中央には浅い円環が床に刻まれている。
その手前に、腰ほどの高さの石の台座。台座の表面は、長い年月に磨かれたように滑らかだった。
周囲にはいくつかの品が置かれている。質素な皿。金属の冠。小さな杯。鞘に収まったままの剣。
どれも豪奢ではない。だが粗末でもない。用途を持って作られ、そして役目を終えたかのような静けさがあった。
自然に散らばったものとは思えない。誰かがこの場所に入った痕跡だった。
「――静かすぎるな」
ラルの声には警戒の色が灯る。
剣の柄に手を添えたまま、周囲を見渡している。盾を持たない彼にとって、この広い空間は警戒すべき構造だった。
誰も否定しなかった。言葉の代わりに、視線だけが広間の縁をなぞるように動く。壁、柱の影、天井の継ぎ目。どこに敵が潜んでいても不思議ではない。
「警戒を解くな。うかつに台座には近づくなよ。」
低い指示に、全員が無言で従った。
壁際には魔晶石が多数配置されており、広間の外縁部は比較的明るい。対して中央へ行くほど影が濃くなる。
一行は外側から、角度を変えながら慎重に確認を進めていく。足取りは遅く、音を殺し、呼吸すら意識的に抑えていた。
少しずつ、円環の内側へ。
そのときだった。ごく小さな、水音。しかしこの空間では、異様なほど鮮明に響いた。
壁際には魔晶石が多数埋め込まれている。外縁部は比較的明るいが、中央に近づくほど影が濃くなる。
一行は広間の外側から、死角を埋めるように角度を変えながら慎重に確認を進めていく。
足音は抑えられ、呼吸すら意識的に浅い。少しずつ、中央の円環へ距離を詰める。
そのときだった。小さな水音。この空間では、異様なほど鮮明に響いたようにリオンの耳に届いた。
リオンの視線が、音の発生源へと向く。
ロシュフォードが手にしていた杯――その内側で、水が揺れている。
「――水?」
イヴが静かに息を呑む。
杯は、確かに空だった。
ロシュフォードの左手には杯。右手には戦闘用の小筒。両手がふさがっている以上、水を注ぐことはできない。
滴も落ちていない。どこからも流れ込んでいない。
それでも――杯の内側では、水面が静かに満ち始めていた。
青白く光る透明な水が、ゆっくりと、自然に。まるで最初からそこにあるべきもののように。
「ロシュフォード、杯の魔力反応が――強まっている。」
メナスが一歩踏み出しかけ、しかし踏みとどまる。
ロシュフォードは遺物を誰にも触れさせようとしなかった。それを取り上げれば、この場で揉める可能性がある。
しかも敵襲の可能性は消えていない。ここで混乱は作れない。
「――そうだな」
ロシュフォードの声は、妙に落ち着いていた。
学者としての冷静さなのか、それとも杯に魅入られているのか。判別がつかない。
「魔具が、この場所に戻ったことで本来の効果を発揮し始めた――そんなところだろう。」
彼の視線は、杯から一瞬たりとも離れない。恐怖でも歓喜でもない。知的好奇心とも異なる。何かに引き寄せられているような、奇妙な光が宿っていた。
「魔力を帯びた水――だとしたら、やるべきことは――」
「待ちなさい。」
リディアが鋭く制止する。だが、その声は彼に届いていなかった。杯がゆっくり持ち上げられる。動作は慎重で、丁寧で、そして――迷いがなかった。
「やめなさい。本儀には資格が――!」
ルーシーの叫びが広間に響いた。それまで抑え込まれていた声が、一気に解き放たれたような鋭さだった。
「本儀か――それは、確認する必要があるな。」
ロシュフォードは静かに答え、水面を覗き込む。
「危険すぎる!」
リディアが一歩踏み出す。その声に引きずられるように、リオンたちの視線も一斉にロシュフォードへ集まる。
だが、誰も間に合わなかった。
ロシュフォードは杯を傾ける。水が口へ流れ込む。口元からこぼれた雫が、青白い光を帯びながら床へ落ちた。
その瞬間、広間の魔晶石が一斉に明滅する。ごく短い、強い閃光にリオンが目を瞑る。
ロシュフォードの喉が動いた。小さな水音。
しかし、その音はこの空間では妙に大きく響いた。
次の瞬間。ロシュフォードの身体が、びくりと跳ねた。
「――っ、ぁ――?」
指から杯が離れる。石床に落ちた杯が、乾いた音を立てて転がった。反響の少ない広間で、その音だけが異様に鋭い。
転がった杯は、横倒しになったまま静止した。だが――水は、零れない。
確かに杯の内部には水が満ちている。青白い光を帯び、ゆっくり揺れている。それでも、縁を越えない。
まるで透明な膜に包まれているかのように、水は器の内に閉じ込められていた。
リオンとイヴの視線が、同時にそこへ誘われるように吸い寄せられる。
ロシュフォードの喉から、掠れた声が漏れた。
「見える――」
呼吸が荒い。
「見える――」
意識が、彼へと引き戻される。
「死にたくない――!」
震えているのは声だけではない。腕も脚も制御を失ったように震えている。瞳孔は大きく開き、焦点が合っていない。
「ロシュフォード!? 何が見えた!」
リディアが駆け寄ろうとした。しかしその腕を、メナスが掴む。
「――待ってください。居ます。」
小声だった。だが、その視線は広間の奥へ向けられている。
足音。ゆっくりとした歩調。警戒する気配はない。
むしろ、こちらの緊張を嘲笑うかのような、余裕のある間合い。
「――待ってたよ」
女の声が響いた。淡々としている。感情の起伏がほとんどない、乾いた声音。
暗がりから三つの影が現れる。
先頭は女だった。背筋がまっすぐ伸び、金のように輝く髪が印象的だ。余計な力みがない歩き方。その後ろに、若い男と女。
三人とも、目つきが異様だった。社会の中で削られていくはずの角が残っている。
いや、むしろ研ぎ澄まされている。何かへ一直線に進み続ける者の目。狂信者に近い光だった。
メナスの予測通りの三人組。壁の魔晶石が、彼らの背後で強く輝く。
魔力の流れが、彼らを中心に変質しているのが分かる。
構えは取っていない。だが、それは無防備ではない。いつでも動ける臨戦態勢であった。
ロシュフォードがゆっくり顔を上げる。
三人を見た瞬間、その瞳がさらに見開かれた。歯が小刻みに鳴り始める。
「俺は――もう、この場で――」
途切れ途切れの声。
だが、そこにあるのは恐怖だけではない。確信が含まれていた。まるで、避けられない未来を見てしまった者の絶望の色に染まっていた。
「十人ね」
金髪の女が、広間を見渡す。
「数が多いから――少し減らしておきましょうか」
抑揚がない。命を数としてしか見ていない口調だった。
その言葉に弾かれたように、背後の若い男が走り出した。床を蹴る音。一瞬で距離を詰める加速。
イヴの心臓が強く打つ。
――あの男だ。
巻き戻りの直前。調査隊員三人を、ほとんど抵抗させずに殺した男。
割と遅筆です。エピソードを一つ書ききったら、週1で投稿します。
何かあれば、感想の所かXのDMでご連絡いただければ幸いです。
→ https://x.com/feally_leaf
あとがきで、何かしらの設定を1話ごとに描いておきます。
11 霧の聖女
ピシア教の開祖される人物。その名前や出自、性格など、個人を特定できる記録は残されていないとされている。一般的な伝承では、霧の聖女には三人の従者を連れていたと語られている。
霧の聖女は三つの奇跡を起こしたと伝えられている。
一つ目は休火山の噴火を予知し、人々を洞窟へ導いて火砕流や噴石から守ったこと。
二つ目は霧の中から命を生み出したこと。
三つ目は、水不足に苦しんでいた地域に安定した降雨をもたらしたこと。である。
彼女の指揮によって建てられた教会にはいずれも貯水機能が備えられていた。水不足に悩まされやすい島国であったルテイアにおいて、この技術は極めて大きな意味を持ち、結果としてピシア教は水の管理とともに急速に勢力を広げていった。一方で、霧の聖女には光の側面だけでなく、暗い面を記した異伝の経典が存在するとされる。その内容は教団によって厳重に管理されており、一般の信徒が触れることは許されていない。




