第4話 断層の爪痕
夜が明け、うっすらと白み始めた京都の空は、立ち上る黒煙によってどんよりと黒ずんでいた。
救護所に指定された基幹病院の一階ロビーは、不眠不休で治療を続けるスタッフたちの疲労と、途切れぬ負傷者の波により、混迷の度を深めていた。
「神谷先生! 警察と自衛隊から緊急打診です!」
無線機を握りしめた黒田が、血走った目で走り込んでくる。
「伏見区の伏見稲荷大社参道付近で、大規模な土砂崩れが発生。参拝客と観光客、約二〇名が倒壊した商店街の建物と土砂に閉じ込められています。現地は二次災害の危険が高く、救急隊だけでは手におえません。現場への出動要請です!」
「土砂崩れ……」
その言葉を聞いた瞬間、神谷の身体がわずかに硬直した。
白石が見逃さなかった。神谷の視線が、無意識のうちに胸のポケット――あの日失った幼い命のお守りへ落ちたことを。
三年前。土砂崩れ現場での判断ミス。危険が迫る中で蘇生処置に執着し、二次崩落に巻き込まれて救助者もろとも命を落としかけた。あのトラウマが、神谷の脳裏に泥流の音とともに蘇っていた。
「……神谷先生」白石が静かに寄り添う。「大丈夫です。あの時と違って、今の先生には私たちがいます」
神谷は固く目を閉じ、深く呼吸を一つ吐き出した。目を開けた時、そこにはいつもの冷静沈着なリーダーの目が戻っていた。
「現場へ向かう。本部の指揮は現地の副院長に引き継ぐ。出動メンバーは私、西園寺、黒田の三名だ」
「待て待て、神谷」
呼び止めたのは三浦だった。三浦は手袋を外し、缶コーヒーのプルトップを引きながら呆れたように首を振る。
「現場の崩落現場で外傷処置をするなら、クラッシュ症候群(長時間の圧迫からの解放時に起こる致死的なショック)の対応が必須だ。現場での高カリウム血症の管理と透析準備、鎮痛コントロールは誰がやる? 僕も行くよ」
「……三浦先生、病院の麻酔科医が手薄になる」
「残りの処置はプロトコル化して看護スタッフに預けてきた。それに、現場で君に無茶をさせない監視役も必要だからね」三浦はニヤリと笑ったが、その目は真剣そのものだった。
「白石はここで受け入れ態勢を整えてくれ。現場から搬送する重症者を受け止める拠点が必要だ」
「承知しました。現場の安全確保を最優先にしてください。みなさん、必ず生きて戻ってきてくださいね」
白石の強い言葉に送り出され、神谷、西園寺、三浦、黒田の四人は、救急資機材を詰め込んだドクターカーに飛び乗った。
伏見の現場は、凄惨を極めていた。
鮮やかな朱色の鳥居が無残にへし折れ、山から削り取られた土砂と倒壊した木造店舗が混ざり合って参道を埋め尽くしていた。土の匂いと途切れたガス管の匂いが漂う中、レスキュー隊が必死に瓦礫を撤去している。
「DMAT到着しました! 状況は!?」
黒田が先陣を切って現場指揮本部へ飛び込む。
「厳しい状態です! 奥の和菓子屋の店舗部分に、修学旅行生と思われる数名と店主が取り残されています。レスキューが隙間を掘り進めていますが、上の土砂がいつ滑り落ちてくるか分からない!」
「現場へ入る!」
神谷たちはヘルメットのあご紐を締め、瓦礫の狭間へと身を躍らせた。
狭く、暗く、湿った瓦礫の隙間。足元は不安定で、頭上からはパラパラと小石が落ちてくる。恐怖で胸が押し潰されそうになる環境の中、奥から少女の弱々しい泣き声が聞こえた。
「助けて……苦しい……足が……」
「今行く! 喋れるか!?」
黒田が匍匐前進で崩れた梁の隙間を潜り抜け、真っ先に奥へと到達した。
そこには、倒れた柱とコンクリート片に両足を挟まれた女子中学生が横たわっていた。その隣には、彼女を庇うようにして倒れ、意識を失っている店主の男性の姿があった。
「先生! 発見しました! 中学生一名、意識あり! ただし右下肢が完全に梁の下敷きになっています! 圧迫時間は推定三時間以上……クラッシュ症候群の危険があります!」
「黒田、よくやった!」
神谷と三浦、西園寺が狭い空間に滑り込む。
「痛い……痛いよぉ……」
少女は恐怖と激痛で全身を震わせていた。西園寺がすばやく少女の手を握りしめる。
「大丈夫! 私たちは医療チーム。もう心配いらないからね。お名前は?」
「……ゆい……」
「由衣ちゃんね。今からここから出してあげる。ちょっとチクッとするけど、頑張れる?」
「うん……っ」
「三浦、急速輸液の準備を! 梁をどかした瞬間に再灌流ショックが来る!」神谷が叫ぶ。
「わかってる! 生理食塩水大量投与、重炭酸ナトリウム投与準備完了! 黒田、輸液バッグを高く掲げておいてくれ!」
「はい!」
黒田は狭い空間の中で腕を伸ばし、輸液バッグを全力で保持する。腕が痺れ、筋肉が悲鳴を上げるが、絶対に下げるわけにはいかない。
「西園寺、梁の除去と同時に切断が必要になる可能性は?」神谷が重い問いを投げかける。
現場での緊急肢切断――瓦礫から救出できない場合、命を優先して現地で足をつなぐ関節を切断する極限の処置だ。
西園寺の指先が一瞬途切れた。外科医として、未来ある少女の足を切り落とすことの残酷さに胸が締め付けられる。だが、その顔には即座に決意が宿った。
「……準備はしておく。でも、絶対に足ごと助ける。私は外科医よ。諦めるためにここに来たんじゃない!」
その時だった。
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
地鳴りのような音が山鳴りとなって響き渡り、頭上の瓦礫が大きく震えた。
「二次崩落だ! 避難しろ! 全員退避!!」
外からのレスキュー隊の警告スピーカーが怒号となって響く。パラパラと天井から土砂が崩れ落ちてくる。
「神谷先生! 危険です、一度引かないと全員埋まります!」黒田が叫ぶ。
三年前の悪夢が神谷の脳裏をよぎる。崩れる土砂。助からなかった命。自分の判断ミスで巻き込まれそうになった仲間たち。
(引くべきか……? ここで撤退するのが、リーダーとしての正しい判断なのか……!?)
神谷の手が止まりかけた、その時。
「神谷! 迷うな!!」
西園寺が神谷の胸ぐらを掴む勢いで叫んだ。
「あんたが背負ってる過去が何だか知らないけど、今のあんたは一人じゃない! 私たちがいる! この子を見捨てて引くなら、私は一人でも残るわよ!」
「西園寺先生の言う通りですよ」三浦が笑みを浮かべながら、輸液チューブのラインをがっちりと固定する。「僕の計算じゃ、あと三分でこの梁は持ち上がる。逃げるより助ける方が期待値が高い」
「俺も……俺も逃げません! 神谷先生、指示を!!」黒田の目が、まっすぐに神谷を見つめていた。
仲間たちの強い瞳。
神谷の胸の奥で、氷ついていたトラウマが激しく溶け落ちていくのを感じた。そうだ。自分はもう、過去の現場に一人で立ち尽くしていたあの日の自分ではない。この最高のチームと共にいるのだ。
「――ジャッキセット!」
神谷の迷いが完全に消え去った。
「レスキュー! 避難指示を解除しろ! あと二分で引き抜く! 油圧ジャッキを投入してくれ!」
「了解!!」外のレスキュー隊から力強い応答が返る。
隙間に差し込まれた油圧ジャッキが、プシューッという重厚な圧力を上げて重い梁を持ち上げ始めた。
「三浦、輸液開始! 西園寺、引き抜きと同時に止血帯を巻け! 黒田、出たらすぐにストレッチャーへ導線を作れ!」
「「「了解!!!」」」
「行くぞ……三、二、一……上がった! 引き抜け!!」
西園寺と神谷が同時に少女の体を抱え引き寄せる。三浦が即座に薬剤を注入し、心電図モニターの波形を凝視する。カリウム値の上昇による心停止を薬物で力づくで抑え込む。
「ショック症状なし! 脈拍保ってます!」
「よし、脱出!!」
崩れ落ちる土砂をすれすれでかわしながら、四人は少女を抱えて瓦礫の狭間から太陽の光が差し込む外へと飛び出した。
直後、彼らがいた空間が音を立てて完全に押し潰された。
命拾いをした呼吸を整えるヒマもなく、青空の下へ救出された少女・由衣が、眩しそうに目を開けた。
「……あ……けて……くれたの……?」
西園寺がその場にしゃがみ込み、少女の頬をなでながら涙を零した。
「そうよ……助かったのよ、由衣ちゃん。足も、ちゃんとあるからね」
現場に集まっていたレスキュー隊、警察、そして遠巻きに見守っていた地元住民たちから、割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
神谷は天を仰ぎ、深く息を吐き出した。胸のポケットのお守りに手を触れる。あの日救えなかった命への罪罪感が消えるわけではない。だが、今日繋いだこの命が、未来へ続いていくのだと確信していた。
「神谷先生」三浦が缶コーヒーを差し出す。「いい判断だったよ」
「……フッ、お前たちの無茶に付き合わされただけだ」
「へへっ、チームですから!」黒田が黒焦げの顔でニカッと笑う。
その時、神谷のトリアージ用無線機から白石の焦迫した声が飛び込んできた。
『神谷先生! 応答してください! 本部に大型余震による第三波の被害情報が入りました! 京都市内中心部で地下街の落盤事故が発生、多数の傷病者が出ている模様です!』
神谷は缶コーヒーを一気に飲み干すと、空き缶を固く握りしめた。
「白石、こちら神谷。現場の救助は完了した。これより全速で本部へ戻る」
神谷は仲間たちを見回した。傷だらけで、疲弊しきっている。だが、その瞳に宿る炎は誰一人として消えていなかった。
「行くぞ、俺たちの戦いは、まだこれからだ!」




