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瓦礫の街のヒポクラテス  作者: 旭


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最終話 漆黒の地下街

ドクターカーがサイレンを鳴らし、瓦礫の散乱する烏丸通を爆走する。

「被害状況は!?」

助手席の神谷がマイクに向かって叫ぶ。後部座席では、西園寺と三浦が激しい揺れに耐えながら、次の現場に向けた医療資機材の補充と点検を急速に進めていた。

『京都駅前および四条烏丸の地下街です!』

無線から届く白石の声は、途切れ途切れになりながらも切迫していた。

『先ほどの余震で地下街の支柱が崩落。天井の一部が抜け落ち、買い物客や避難していた市民、およそ百名以上が閉じ込められています! さらに悪いことに、途絶していた管からガスが充満し始めている模様……火気厳禁、照明の使用も制限される極限状態です!』

「ガス漏れに落盤……最悪のコンビネーションだな」

三浦が鎮痛剤のバイアルをホルダーに収めながら、苦笑交じりに呟く。

「白石、地上側の救護所はどうなっている?」

『本院の第二チームが地上に簡易テントを設営中です。ですが、地下からの自力脱出者は途絶えています。瓦礫で階段が塞がり、煙とガスで内部の生存者が窒息する危険性が高まっています!』

「わかった。我々は四条烏丸の地下入口から直接突入する。白石は地上での搬送ラインと、酸素投与の準備を限界まで拡充してくれ!」

『了解! みなさん、どうかご無事で……!』

車が大きく旋回し、四条烏丸の交差点で急ブレーキをかけた。かつて賑わっていた地下街への階段は、崩れ落ちた天井のコンクリート片で無残に埋もれ、隙間から不気味な薄い煙と独特の異臭が吹き出していた。

「消防のガス検知器が反応しています!」現場の消防隊長が駆け寄ってくる。「可燃性ガス濃度が上昇中! 火花一散で爆発します。電動の医療機器や通常のライトは使えません! 防爆仕様の防塵マスクと防爆ライトのみです!」

「電気メスも心電図モニターも使えないってことね……」

西園寺が唇を噛む。現代医療の武器をことごとく奪われたに等しい。

「五感と手技だけで診る。昔の医師に戻るだけだ」神谷は防爆ライトを肩に装着し、目元を防塵ゴーグルで覆った。「黒田、酸素ボンベの持ち込みは最小限にし、徒手での救出と搬送に専念しろ。三浦、重症者の現場麻酔は鎮静剤の静注のみ。西園寺、出血部位はすべて直接圧迫止血だ」

「「「了解!!」」」

4人は防塵マスクを装着し、崩れかけた暗黒の地下階段へと足を踏み入れた。

一歩踏み入れると、そこは異次元の地獄だった。

防爆ライトの黄色い光が照らし出すのは、崩落した店舗の看板、散乱する商品、そして充満する煙の中でうずくまる無数の人々だった。

「ゴホッ! 助けて……息が……」

「お母さん! お母さんどこ!?」

暗闇とガスの恐怖、酸欠。悲鳴とも喘ぎともつかぬ声が、閉ざされた地下空間に響き渡る。

「黒田、歩ける者はまとめて地上へ誘導しろ! 誘導灯代わりに防爆ライトを階段に配置するんだ!」神谷が指示を飛ばす。「西園寺と三浦は重症者のトリアージ! 一分一秒を争うぞ!」

神谷は倒れていた老人に駆け寄り、首の脈を診る。弱い。だが、生きている。

「気道確保! 西園寺、この方はCO(一酸化炭素)中毒の疑い強い、地上へ引き上げ! 次!」

「こっちです神谷先生!」

奥のファーストフード店跡から三浦が呼ぶ。駆けつけると、倒れたカウンターの補強材に押し潰されるようにして、若い女性店員が倒れていた。

「腹部と大腿部に強い圧迫。意識障害あり。血圧急降下中……腹腔内破裂の可能性大」三浦がライトの光で瞳孔を観察しながら告げる。「ガス濃度が高すぎて、ここで開腹オペは不可能だ」

「だが、地上まで運ぶ間にショック死するわ!」

西園寺が女性の腹部を触診する。カチカチに硬直した腹壁。

「外部からの圧迫止血帯(ターニケット)で大腿動脈を遮断する! 腹部への血流を物理的に減らして時間を稼ぐわ。三浦先生、現場で使えるギリギリの循環作動薬を!」

「了解。シリンジで直接静注する。西園寺先生、止血帯の固定を頼む!」

暗闇の中、五感だけを頼りにした処置が続く。心電図の警告音も、血圧計の数値もない。三浦は女性の手首に添えた指先から伝わる微弱な脈動のテンポだけで、投薬量をミリグラム単位でコントロールする。西園寺は手探りで大腿の動脈ラインを見つけ出し、力任せに止血バンドを引き締めた。

「脈、少し持ち直した! 今だ、運ぶぞ!」

そこへ、地上への第一陣の誘導を終えた黒田が呼吸を乱しながら戻ってきた。

「神谷先生! 階段ルートの瓦礫がさらに崩れて、一人ずつしか通れません! ストレッチャーが通らない!」

「何だと……!?」

「俺が背負います!」

黒田が女性の前に背中を向け、ひざまずいた。

「黒田、お前、伏見の現場からぶっ通しで体力が――」西園寺が案じる。

「関係ありません! 救命士の体躯は、こういう時のためにあるんです!」

黒田は女性を背中に担ぎ上げると、力強く立ち上がった。その脚は疲労でかすかに震えていたが、踏み出す一歩には一切の迷いがなかった。

「先生方は次の患者を! この人は俺が絶対に地上まで届けます!」

「……頼んだぞ、黒田!」

神谷の言葉を背に、黒田は暗闇の階段を一段、また一段と駆け上がっていった。

だが、地獄はまだ終わっていなかった。

地下街のさらに奥――ブティックの立ち並ぶ通路の奥から、ドスン、ドスンという不気味な衝撃音が響いてきた。

「助けて!! 誰か、誰か撃ち抜いて!!」

男性の錯乱した叫び声。

神谷たちがライトを向けると、そこには崩れ落ちた天井のシャッターとコンクリートブロックの間に足を挟まれ、パニックに陥った中年男性が、自分の脚を抜こうと狂ったように暴れていた。

そのすぐ上――亀裂の入った天井の巨大なコンクリート梁が、ミシミシと音を立てて今にも完全に落下しようとしている。

「触るな! 暴れると上が落ちてくる!」神谷が叫びながら駆け寄る。

「嫌だ! 死にたくない! 助けてくれええっ!」

男性が暴れた瞬間、頭上の梁からドサッと大量のコンクリート片が降り注ぎ、神谷の肩を直撃した。

「ぐっ……!」

「神谷先生!」

西園寺が咄嗟に神谷を庇うように抱きかかえる。

「大丈夫だ……」神谷は激痛に顔を歪めながらも、男性の足元を照らした。「西園寺……見ろ」

西園寺の表情が凍りついた。

男性の右足首から先は、数トンはあるコンクリート塊の完全に下敷きとなり、破砕されていた。そして、頭上の巨大な梁は、あと一分……いや、数十秒で完全に崩落する。油圧ジャッキを持ち込む時間も、瓦礫を撤去する時間もない。

「逃げて……! もういいから逃げてくれぇぇ!」

状況を理解した男性が、今度はボロボロと涙をこぼしながら絶望の悲鳴を上げた。

現場に沈黙が走る。

命の選択。

このまま救出を試みれば、数分以内に崩落が起き、救命チームごと全員が圧死する。男性を諦めて撤退するか。それとも――。

神谷の手が、ゆっくりと腰の医療用ウエストポーチへと伸びた。

引き出されたのは、一本の冷たい金属光沢――メスだった。

「……西園寺」神谷の声は、恐ろしいほど静かだった。「現場肢切断(フィールド・アンプテーション)を行う」

西園寺の息が止まる。

麻酔も、十分な照明も、無菌状態もないこの劣悪極まりない暗闇の中で、生きた人間の足を切断する。それは外科医にとっても、悪夢以外の何物でもない。

「神谷、正気か!?」三浦が叫ぶ。「無麻酔で切断すれば、痛みのショックだけで心停止を起こす! それに止血が間に合わなければ出血性ショックで即死だ!」

「鎮静剤を最大量投与して意識を飛ばす。止血帯を膝上で限界まで絞め上げろ」神谷は迷いのない目で三浦と西園寺を見つめた。「断ち切るのは足じゃない。この人を死へ引きずり込もうとする『運命』だ」

神谷の瞳には、かつて救えなかった命の影はもうなかった。目の前の命を救うためなら、どんな泥を被ろうと、どんな悪魔の決断を下そうと躊躇わない。それが、このチームのリーダーとしての覚悟だった。

西園寺が深く息を吸い込み、涙を拭った。

「……了解。三浦先生、鎮静剤!」

「クソッ……乗りかかった船だ!」三浦が注射器を男性の静脈に突き刺す。「鎮静剤全量静注! 十秒で落ちる!」

男性の瞳が急速に焦点を失い、崩れ落ちるように意識を失った。

「西園寺、大腿動脈の圧迫止血! 三浦、切断と同時に断端の止血鉗子をかけろ!」

「了解!!」

「切断開始――!」

神谷のメスが、暗闇の中で一閃した。

「先生! 来たぞ! 搬送だ!!」

地上の光が差し込む地下街の出口で、白石奈緒が叫んだ。

崩れ落ちる地下の恐怖から逃れてきた人々を、白石率いる看護チームが次々とトリアージし、応急処置を施していく。

そこへ、血と土煙に塗れた黒田が、背中に倒れていた女性店員を抱えて地下から飛び出してきた。

「白石さん! 腹腔内出血の疑い! 止血帯装着済みです!」

「黒田さん! よくやったわ、すぐ第三テントへ!」

白石が指示を出し、自らもストレッチャーに取り付く。黒田はその場に崩れ落ちそうになる膝を、気力だけで支えていた。

「ハァ……ハァ……神谷先生たちは……まだ下に……」

「大丈夫」白石は黒田の泥だらけの顔を優しく見つめ、力強く頷いた。「あの人たちは絶対に帰ってくる。私たちのリーダーと、最高のチームだから」

その時だった。

ドドドオォォォンッ……!!

四条烏丸の交差点の地面が激しく揺れ、地下街の階段口から凄まじい爆風と土煙が吹き出した。内部での大規模な崩落事故の発生を示していた。

「神谷先生ぇぇぇっ!!」

黒田が叫び、白石の手から書類がこぼれ落ちる。

周囲が静まり返り、噴き出す煙だけが空へ昇っていく。誰もが息をのんだその刹那。

けほっ、けほっ……と咳き込む声とともに、煙の奥から影が浮かんできた。

神谷が、男性の上半身を抱え、肩を貸していた。その隣には、血に染まった手で止血用のガーゼを強く押し当て続ける西園寺。そして、後ろから二人を支える三浦の姿。

男性の右足首から先はなかった。だが、その胸はしっかりと上下し、力強い鼓動を刻んでいた。

「……白石」

煙の中から現れた神谷が、かすれた声で言った。

「……輸血と……オペ室の準備を……急げ……」

「――はいっ!!」

白石の目から溢れ出た涙が、頬を伝って落ちた。白石は叫んだ。

「全スタッフに通達! 重症患者搬入! 直ちにオペ室と集中治療室を解放してください! DMAT、全員帰還です!!」

わあっと、地上救護所全体から地鳴りのような歓声が上がった。


地震発生から七十二時間――命の選別と救命の限界点とされる「黄金の72時間」が経過した。

京都市内の至る所で復興への歩みが始まり、全国から集まった支援物資と追加の医療チームが街を行き交っていた。

病院の屋上ヘリポート。

朝日に照らされた京都の街並みを、神谷、西園寺、三浦、白石、黒田の五人が並んで見つめていた。全員、顔には疲労の色が色濃く残っていたが、その表情は澄み渡っていた。

「……由衣ちゃん、意識が完全に戻ったわよ」西園寺が爽やかな風に髪をなびかせながら言った。「足の経過も良好。将来、また走れるようになるって」

「地下街の切断患者も、感染症を起こさずにバイタルが安定した」三浦が缶コーヒーを軽く掲げる。「奇跡的な手際だったよ、神谷先生」

「僕らの力だけじゃない」黒田が自分の両手を見つめながら言った。「現地で踏ん張った看護師さんや、救急隊、自衛隊、そして生きようとした患者さんたちみんなの力です」

白石が笑う。「ふふっ、黒田さん、すっかり立派な顔つきになったわね」

「えっ、そうですか!?」照れる黒田の背中を、西園寺がバシッと叩いた。

「当たり前でしょ! あんたがいなきゃ、あの地下街で全員埋まってたわよ」

神谷は胸のポケットに手を伸ばした。

あの傷ついた小さなお守りを取り出し、朝日にかざす。かつて救えなかった命への傷痕は、永遠に消えることはない。だが、自分はこの街で、仲間たちと共に多くの命を未来へ繋ぐことができた。

神谷はお守りを愛おしそうに握りしめると、再びゆっくりとポケットに収めた。

「神谷先生」白石が尋ねる。「次の要請ですか?」

神谷の腰の無線機が、小さくノイズを上げた。広域災害救急医療情報システム(EMIS)からの新たな通知。

「ああ」神谷は振り返り、四人の仲間たちをまっすぐに見つめた。「北部の支援チームから増援要請だ。まだ救いを待っている人がいる」

「やれやれ、休む暇もないね」三浦が肩をすくめる。

「望むところよ!」西園寺が不敵に笑う。

「どこへでもついていきます!」黒田が胸を張る。

「行きましょう。私たちの現場へ」白石が微笑む。

五人は誰からともなく歩き出した。

古都を照らす朝陽の中、背中に『DMAT』の文字を躍らせて。

命がある限り、彼らの戦いは終わらない。


完

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