第2話 黒いタグ
崩落したJR京都駅の南北自由通路から、引きも切らず傷病者が運び込まれてくる。
仮設の救護所となった一階ロビーは、重油の匂いと血液の生臭さ、そして途切れぬ呻き声に満たされていた。余震が起こるたびに天井の蛍光灯が激しく揺れ、軋むような音を立てる。
「神谷先生! 搬入路、もう限界です!」
現場に怒号を響かせたのは、最年少の救急救命士・黒田理だった。汗とススで真っ黒になった顔を拭いもせず、黒田は次々と到着する搬送車を誘導している。その背中を見つめる救急科医・神谷聡の指先には、黒と赤のトリアージタグが握られていた。
トリアージ――傷病者の緊急度と重症度に応じて治療の優先順位を決める作業。
赤(最優先治療群)
黄(待機的治療群)
緑(保留群)
黒(死亡または救命不可能群)
「黒田、落ちつけ」神谷の声は、周囲の狂乱とは対照的なほど静かだった。「パニックは感染する。お前が焦れば、現場の判断が鈍る」
「ですが……! 外にはまだ数十人の重症者が並んでます。このままじゃ、選別する前に死んでいく!」
黒田の苛立ちとコンプレックスは限界に達していた。現場での動出力には自信がある。だが、命の選別という残酷な決断を下す権限も、それを裏付ける圧倒的な医学的知見も自分にはない。医師たちの背中が、あまりに遠く見えた。
その時、ストレッチャーが一台、勢いよく滑り込んできた。
「15歳女性、修学旅行生! 瓦礫の下敷きになり、骨盤骨折の疑い! 収縮期血圧60、脈拍140、意識レベルJCS-300!」
運んできた救急隊員が叫ぶ。少女の制服は血で染まり、顔色は粘土のように蒼白だった。
神谷が即座に聴診器を当て、触診を行う。腹部は板のように硬く張り詰め、体内での大出血を示していた。
「休止期ショック……腹腔内出血だ。西園寺、オペ室へ!」
「了解!」
控えていた外科医・西園寺美咲が飛び出してくる。男勝りな姿勢でストレッチャーに取り付くと、すぐさま少女の顔を両手で包み込んだ。
「聞こえる? 私は外科医の西園寺。大丈夫、絶対にあなたを家に帰してあげるからね。しっかりしなさい!」
その強い口調とは裏腹に、触れる手は驚くほど優しく、温かかった。どんなに悲惨な現場であっても、美咲は患者を単なる「症例」として扱わない。一人ひとりに生活があり、愛する家族がいることを知っているからだ。
「三浦先生、麻酔は!?」
美咲の呼びかけに、ひょっこりと顔を出したのは麻酔科医の三浦弦だった。いつもの如く瓢々とした表情で、手に持ったシリンジを軽く叩いている。
「はいはい、準備できてるよ。ただし西園寺先生、人工呼吸器の予備バッテリーはあと四分しか持たない。麻酔薬もギリギリだ。二十分で腹を開けて止血し、閉腹までやってくれ」
「二十分……!? 無茶言わないで!」
「無茶を可能にするのが僕らの仕事でしょう?」
三浦の眼光が一瞬だけ鋭くなった。飄々とした態度の裏にあるのは、寸分の狂いも許さない精密な計算だ。患者のバイタルデータと残存する医療資源を頭の中で天秤にかけ、極限の状況下で最適解を導き出す。それが三浦の真骨頂だった。
「白石、オペ室の看護師を二人つけてくれ!」
「もう配置してあります!」
災害看護認定看護師の白石奈緒が、指示が出ると同時に動いた。白石は現場の潤滑油だった。混乱する現地の看護師たちのパニックを静め、配置を最適化し、さらには疲弊しきった医療陣のメンタルケアまで目配りを絶やさない。
「西園寺先生、血圧低下時の急速投与用ライン、すでに確保済みです。三浦先生、予備のボンベはこちらに集めました」
「助かるよ、白石ちゃん。相変わらず仕事が早い」
「さあ、命を繋ぎますよ!」
西園寺たちが少女を乗せたストレッチャーを押し、 手術室へと駆け込んでいく。
ロビーに残された神谷は、再びトリアージの最前線へと向かった。
その時、新たな搬送が到着した。
「神谷先生! 五十代男性、倒壊した木造家屋から救出! 心肺停止です!」
駆け寄った黒田が、必死に心臓マッサージを継続している。
「CPR再開! 1、2、3、4……! 先生、アドレナリン投与の指示を!」
神谷は男性の頸動脈に指を当て、瞳孔を開いた。自発呼吸なし。心電図モニターの波形はフラット。瞳孔散大、対光反射なし。
神谷の手が、ゆっくりと黒のトリアージタグへと伸びた。
「先生……!?」黒田の手が止まる。「何してるんですか!? まだ救出されたばかりです! 胸骨圧迫を続ければ、もしかしたら――」
「黒田、手を止めろ」
神谷の声は静かだったが、冷徹だった。
「……嫌です! まだやれます! 救急救命士として、目の前の患者を見捨てるなんてできません!」
「見捨てるのではない」神谷は黒田の腕を強く掴み、強制的に引き離した。「今、この男に注ぐ医療資源と時間は、奥の手術室で戦っている少女の命、そしてこれから運ばれてくる助かる見込みのある命を奪うことと同じだ」
「くっ……!」
「災害医療の目的は『一人でも多くの命を救うこと』だ。一人の命に固執して、十人の命を殺すわけにはいかない」
神谷の瞳に、かすかな影が差した。
かつて、彼は同じ選択を誤った。数年前の土砂災害の現場で、救命不可能な患者の蘇生に固執した結果、搬送が遅れた別の重症者を死亡させてしまった。胸のポケットにある、あの日失われた幼い命の残したお守りが、重く皮膚に食い込む。
神谷は手袋をはめた手で黒のタグを男性の右首元に結びつけた。
「死亡確認……14時32分」
黒田は拳を固く握りしめ、悔しさに唇を噛み切らんばかりに震えていた。自分の無力さと、目の前で途絶えた命の重みに潰されそうになる。
そこへ、白石がそっと歩み寄ってきた。白石は黒田の肩に優しく手を置いた。
「黒田さん。悔しいのは、神谷先生も同じですよ」
「え……?」
「先生はね、あの黒いタグをつけるたびに、自分の魂を削っているんです。誰よりも命の重さを知っているからこそ、その重荷を全部一人で背負おうとしているの」
黒田が神谷の背中を見る。神谷は休む間もなく、次の搬送患者のもとへ駆け寄っていた。その手はかすかに震えていたが、判断に迷いは一切なかった。
「……黒田!」神谷が振り返り、叫ぶ。「何を立っている! 次の傷病者が来るぞ! ラインを確保しろ!」
「――はいっ!」
黒田は腹の底から声を張り上げ、涙を拭った。自分にできることをやる。この地獄のような現場で、一人でも多くの命を救うために。
その時、グラリと大きな揺れが救護所を襲った。余震だ。
「きゃあぁぁっ!」
「天井が崩れるぞ!」
悲鳴が上がる中、非常用発電機のモーター音が途絶え、ロビーの明かりが一斉に消え去った。完全な闇と、静寂。
そして――手術室の方角から、西園寺の叫び声が響き渡った。
「停電!? 嘘でしょ、今バイパスを作るところなのよ! 灯りをちょうだい、早く!!」




