第1話 傾ぐ古都
1千年の歴史を刻んできた街が、わずか三十秒の狂乱によって断末魔の叫びを上げた。
震度六強。京都盆地を南北に走る断層が跳ね上がった瞬間、五条大橋の欄干は弾け飛び、祇園の古い木造家屋は一瞬で崩れ落ちた。鴨川の水面が大きく波打ち、歴史ある寺社仏閣の瓦が豪雨のごとく地上へと降り注ぐ。国宝の三重塔がキシキシと悲鳴を上げ、市街地の至る所で黒い煙が立ち上っていた。
観光客、修学旅行生の学生たち、そしてこの街で暮らす人々。平穏だった午後の街は、一瞬にして数万人の負傷者が彷徨う地獄絵図へと変貌した。
京都市内にある基幹病院のロビーは、すでに床が見えないほどの傷病者で埋め尽くされていた。絶叫、泣き声、うめき声。止まらない出血を衣服で押さえる者、倒れた家族の身体をすがるように揺さぶる者。対応にあたる現地医療陣の顔には、明確な絶望の色が浮かんでいた。
医師が足りない。看護師も、麻酔薬も、点滴すらも底を突きかけている。病床はとうの昔に埋まり、通路に置かれたストレッチャーの列は終わりが見えない。
「――次のトリアージ標識、赤! 三十代男性、腹部穿孔! 手術室空いてないのか!?」
「無理です! 第三分室もすでに埋まってます!」
「酸素ボンベの予備、これで最後です!」
怒号が飛び交い、現場が崩壊寸前に追い込まれていたその時、自動ドアの隙間から冷たい風とともに、五人の影が足を踏み入れようとしていた。
背中に大きく印字された『DMAT』の文字。
先頭に立つ男――神谷聡は、混乱を極めるロビー全体を一度だけ鋭い目で見渡した。三十八歳。数々の惨状をくぐり抜けてきた救急科医の瞳は、恐ろしいほどに静かだった。胸のポケットには、かつて別の現場で救うことができなかった幼い患者の形見である、小さな傷ついたお守りが固く握りしめられている。
「全スタッフ、足を止めろ」
神谷の低く通る声が、喧騒を切り裂いた。
「これより、本機動救護チームがトリアージおよび初期治療の指揮を執る。白石、本部の立ち上げと看護スタッフの再配置を。黒田、救急車の受け入れラインを今すぐ確保しろ」
「了解!」
災害看護認定看護師の白石奈緒が即座に動く。三十一歳とは思えぬ的確さと包容力で、パニックに陥っていた現地の看護師たちの肩を叩き、優しく、しかし毅然と指示を出していく。
「大丈夫です、私たちは諦めません。まずは黄色エリアの患者さんから状態の再評価を行います。ついてきてください」
その横を、最年少の救急救命士・黒田理が疾走する。二十九歳。圧倒的な現場力を持つ一方で、過酷な現場で命を背負う医師たちの背中に、自分はまだ追いつけていないという強い焦燥感を抱えていた。
「車線開けてください! 搬入口の瓦礫、今どけます!」
黒田は叫びながら、崩れた壁の破片を素手で取り除き始めた。手が血に染まるのも構わず、一台でも多くの救急車を招き入れようと必死に汗を流す。
「まったく、相変わらず大雑把な仕切りだな。」
呆れたように呟きながら、医療用バッグを肩にかけ直したのは、外科医の西園寺美咲だった。三十五歳。束ねた髪と鋭い目元が男勝りな印象を与えるが、その指先は数多の命を救い出してきた至高のメスだ。
「西園寺、手術室の状況は?」神谷が問う。
「最悪よ。無影灯の予備電源が落ちかけてる。でも、待ってる暇はないわよね」美咲はフッと口元を緩めると、血と汗に塗れた少女の患者へ寄り添い、その手を優しく包み込んだ。「大丈夫、私が来たからね。絶対に助けるから」
その声には、誰よりも患者を想う温もりが宿っていた。
最後にゆったりと歩を進めたのは、麻酔科医の三浦弦だ。四十二歳。一見すると緊張感のない瓢々とした雰囲気を漂わせているが、その眼光は現場の限られたバイタル情報と薬物の残量を冷徹に計算し尽くしていた。
「まあまあ、焦っても心拍数が上がるだけですよ。神谷先生、麻酔薬はあと二時間分しかない。手際よくやらないと、後半は麻酔なしで縫合することになりますよ」
「……言われなくてもわかっている。行くぞ」
神谷の号令とともに、五人は地獄と化した医療の最前線へと散っていった。
限られた人員。
限られた薬。
限られた時間。
建物の歪む音が響き、余震が不気味に揺れる中、命の選択を迫られる極限の戦いが、今始まった。




