第九話:閉館を告げる少女
校長室を出たあとも、エアリスは通行札を手の中に持っていた。
白い札は軽い。その一枚があれば、この学術院の門を通れる。昨日までの自分にはなかったものだ。
「しまっておきなさい。なくすと面倒よ」
ルセリアに言われ、エアリスは札をカバンに入れた。
「このまま戻りますか?」
「まだ時間はあるわ。見て回りたいのでしょう?」
エアリスは頷いた。
中央棟を出ると、中庭の向こうに講義棟が並んでいた。白い壁に青い屋根。渡り廊下の下を、学生たちが行き交っている。制服の形は同じでも、着こなしは人によって違う。胸元に家の紋章を付けた者もいれば、訓練用の杖を抱えて早足で歩く者もいた。
ゼニスクライムから見下ろした時、学術院は整った建物の集まりに見えた。近くで見ると、そこにはもっと細かな音があった。靴音、話し声、頁をめくる音、遠くの実技場から響く短い詠唱。
「あちらが講義棟。基礎教養、魔導理論、神学、歴史。座学の大半はあそこで行われるわ」
「全部、学べるんですか?」
「時間が足りるならね」
ルセリアは軽く答えた。
「学ぶことは、多いんですね」
「ええ。けれど、多いから楽しいのでしょう?」
「はい」
返事は早かった。
ルセリアはその反応に笑い、歩きながら別の建物を示した。
「あちらが総合実技場。測定室、訓練場、結界室、模擬戦用の小区画がある。あなたもすぐ使うことになるわ」
「私も?」
「学術院に入った以上、魔法の適性は測る必要があるもの」
魔法。
まだ本で読んだ知識と、地下で見たものと、アキが使う力はうまく結びつかない。それでも、ここではそれを学ぶことになる。
中庭の先には礼拝堂があった。建物は小ぶりだが、扉の上には光の神アウレクスの紋章が刻まれている。学生の中には、前を通るたびに足を止める者もいれば、そのまま通り過ぎる者もいた。
「祈らなくてもいいんですか?」
「祈りは強制するものではないわ」
ルセリアの声はやわらかかった。
「ただし、祈りを軽く扱う場所でもない。それを覚えておけば十分よ」
「はい」
その時、学院職員が小走りで近づいてきた。
「大主教閣下」
職員は一礼し、封書を差し出す。
「教廷からの連絡です。学院長室の隣室をお使いくださいとのことです」
「分かったわ」
ルセリアは封を確かめ、エアリスを見る。
「少し席を外すわ。あなたは図書館に行っていなさい。そこから出ないこと」
「分かりました」
「迷ったら、職員に声をかけるのよ」
「はい」
返事を聞いてから、ルセリアは職員とともに中央棟へ戻った。
エアリスは一人で、図書館へ向かった。
扉をくぐると、匂いが変わった。
紙と革とインク。古い棚の木の匂い。
天井は高く、書棚は奥まで続いている。吹き抜けに沿って二階、三階の回廊があり、そこにも本が並んでいた。窓から入る光の中で、細かな埃が浮いている。
エアリスは入り口でしばらく立ち止まった。
書庫とは違う。
ローゼンベルク家の書庫は、家のために閉じられた場所だった。ここは、多くの人が知るために開かれている。
同じ本の匂いがするのに、息苦しくなかった。
近くの机に、利用案内が置かれていた。閲覧札、分類番号、禁帯出の印、貸出制限。エアリスは短い説明を読み、受付の職員に頭を下げる。
「初めて利用します。閲覧札をいただけますか」
職員は通行札を確認し、白い小さな札を渡した。
「本を残す時は、それを挟んでください。続きから読めるよう、受付で預かります」
「分かりました」
エアリスはまず、聖都の地誌を探した。
分類札を追う。歴史、神学、魔導理論、地誌、各国誌。棚の並びは分かりやすい。分かりやすいからこそ、先へ進むたびに読みたいものが増えていく。
セラフィアの地誌。学術院制度の概要。魔導理論の入門書。ゼニスクライム建築史。
一冊取る。席に戻る。開く。
頁をめくるたび、今見た景色に名前がついていった。
外壁に刻まれた結界式。水路の管理。巡礼者の通り。学術院の設立理由。ゼニスクライムの各層に置かれた役所と聖職者の居住区。
読めば、さっき見た景色の意味が少しずつ分かった。
気づけば、窓の光が傾いていた。
最初は近くにいた学生たちも、一人、また一人と席を立つ。閲覧室の奥から聞こえていた筆記音も減っていく。それでもエアリスは、頁をめくる手を止めなかった。
背後から、肩を軽く叩かれた。
「読書中にお邪魔して悪いんだけど、もう閉館の時間だよ」
声は近かった。
エアリスが振り返ると、同じくらいの年頃の少女が立っていた。制服の上に薄い外套を羽織り、片手に本を数冊抱えている。口元には、いたずらっぽい笑みがあった。
「……閉館、ですか?」
「うん。あと少しで鍵を閉める時間。私はここの図書委員みたいなものだから、夢中になってる本好きさんを回収しに来たわけ」
「回収されるほど、奥には行っていません」
エアリスが答えると、少女は一瞬きょとんとしたあと、笑った。
「そこを否定するんだ」
「はい。場所は覚えています」
「じゃあ、時間だけ迷子ね」
言われて、エアリスは机の上を見た。
聖都地誌、学術院制度、魔導理論の入門書、ゼニスクライム建築史。読み終えた本と、まだ途中の本が、きちんと積まれている。
窓の外は、いつの間にか藍色になっていた。
「気づきませんでした」
「見れば分かる。集中すると、周りが遠くなるタイプでしょ」
「はい。遠くなります」
「素直でよろしい」
少女は慣れた手つきで本を揃えた。動きは軽いが、扱いは丁寧だった。
「この本は、明日も読めますか?」
「読めるよ。閲覧札を挟んでおけば、しばらく預けておける。名前は?」
「エアリス・アウレリア・ヴァレンです」
少女は札に目を落とし、それからエアリスを見た。
「へえ。今日来た編入生?」
「はい」
「噂、早いんだよね。学院って」
「もう噂になっているんですか?」
「昼過ぎには、もう第一版が回ってた」
「第一版?」
「噂にも版があるんだよ。大主教閣下が連れてきた子だからね。目立たない方が難しいと思う」
少女は閲覧札に名を書き、本へ挟んでいく。
「はい、これで明日も続きから読める。初日から閉館まで読む子は珍しいけど、図書館としてはありがたい利用者かな」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。明日から授業でしょ。寝坊しないようにね」
「努力します」
「そこは自信ないんだ」
「本を読むと、時間の感覚が薄くなります」
「言い方はきれいだけど、要するに読みすぎるってことね」
エアリスは否定しなかった。
少女は本を抱え直し、出口へ向かう。エアリスもカバンを手に取った。
「あなたの名前を聞いてもいいですか?」
少女は足を止めた。
「今日はまだ」
「まだ、ですか?」
「名前って、出すタイミングがあるから」
「難しいですね」
「難しくしてるだけかもね」
少女は肩越しに笑った。
「また明日も来るなら、その時に考える」
「では、明日も来ます」
「いい返事。図書館としては歓迎」
エアリスは少し考え、頷いた。
「よろしくお願いします」
「はいはい。閉館前に出てくれる利用者は好きだよ」
図書館を出ると、廊下は昼間とは別の顔をしていた。窓の向こうに、聖都の灯りが並んでいる。白い都市は、夜の灯りの下でも白く見えた。
ゼニスクライムへ戻る頃には、夜は深くなっていた。
ルセリアの私邸には、灯りが残っていた。机の上には書類が広げられている。ルセリアはペンを置き、エアリスを見た。
「遅かったわね」
「図書館にいました」
「でしょうね」
「分かるんですか?」
「顔に書いてあるわ。楽しかった、って」
エアリスは自分の頬に手を当てた。
「そんなに?」
「そんなに」
ルセリアは笑い、温かい茶を出した。
「明日は初登校よ。今日は早めに休みなさい」
「はい」
エアリスが椅子に座ると、カバンの中の魔導書が勝手に開いた。
アキが、いつもの調子で顔を出す。
「聖都初日、どうだった?」
「大きかったです」
「感想が建物寄りだね」
「白かったです」
「さらに建物寄りだ」
ルセリアが呆れた目を向ける。
「聞き方が雑なのよ」
「じゃあ言い直す。エアリス君、初めての聖都と学術院は楽しかった?」
エアリスは湯気の立つ茶を見た。
ゼニスクライムの高さ。学術院の中庭。図書館の匂い。名乗らなかった少女。
「はい。楽しかったです」
「明日の授業は?」
「楽しみです」
「いいね」
アキは満足そうに頷いた。
それから、何でもない話の続きのように言う。
「じゃあ、ついでに覚えておいて。邪教とノクティラについて、何か耳に入ったら気にしておいて」
机の端に置かれていた黒曜石の小さな棺が、低く光った。
次の瞬間、ノクティラの姿が現れる。漆黒の髪と瞳。幼い少女の姿なのに、室内が冷えた。
「アキ」
声は低かった。
「それは、我と貴様の間の話だ。なぜ他者へ告げる」
「他者って言うけど、今の僕らは全員エアリス君の関係者だよ」
「詭弁だ」
「それに、君も僕も、エアリス君からあまり離れられない。君が一人で調べられるなら、僕も黙ってる」
ノクティラは怒りを隠さずアキを見たが、否定はしなかった。
「……真相、ですか?」
エアリスが尋ねると、アキは椅子の背に寄りかかった。
「全部は分からない。ただ、この棺に施された封印は普通じゃない。葬夜の棺。そう呼ぶべきものだと思う」
「葬夜の棺」
エアリスは小さく繰り返した。
黒い棺は、光を返さない。
「複数の神の手が入っている。しかも、念入りでしつこい。ノクティラが封じられた理由には、表に出ていない事情がある」
「貴様が軽々しく語ることではない」
「分かってる。だから、今は決めつけない」
アキはそこでルセリアを見る。
「もう一つ。ルセリアが襲われた件も、偶然とは考えにくい。邪教が葬夜の棺の降下地点か、運搬経路を知っていた可能性がある」
ルセリアの表情が変わった。
「神授物の情報を、邪教が事前に得ていた……?」
「普通なら無理だろうね」
ルセリアの顔から、笑みが消えた。
エアリスは、今出た言葉を一つずつ思い返した。
葬夜の棺。
複数の神による封印。
邪教の襲撃。
ルセリアの幽閉。
どれも、無関係とは思えなかった。
「私は、何をすればいいですか?」
「今は何もしなくていい。学術院で聞こえることを、覚えておくくらいで十分」
「分かりました」
「ルセリアには、できれば内密に調べてほしい。情報科の記録、関係者の動き、収容科に残る神授物の報告。騒ぎにせずにね」
「ええ」
ルセリアは短く答えた。声はもう、大主教のものだった。
「ただし、エアリスを巻き込みすぎないこと。それは条件よ」
「もちろん」
「信用しきれない返事ね」
「ひどいなあ」
アキは肩をすくめた。
ノクティラは何も言わず、黒い棺へ戻っていく。不機嫌だけが残った。
アキは軽く手を叩いた。
「はい、この話はここまで。エアリス君、寝る時間です。初日から寝不足で登校したら、同級生に心配されるよ」
「笑われるのではなく?」
「たぶん心配される」
ルセリアが言った。
エアリスは口元をゆるめた。
机の上には、通行札と閲覧札が並んでいる。
一つは学術院に入るための札。
もう一つは、読みかけの本へ戻るための札。
その横に、黒曜石の小さな棺がある。
明日は、初めての授業。
エアリスは二枚の札をそろえ、明日のカバンに入れた。




